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朝、唯由がバス停に向かって歩いていると、横を軽快に通り抜けようとした自転車がいきなり止まった。
「あれっ? 蓮形寺さん、この辺なの?
お疲れっ」
爽やかな笑顔で言う彼を何処かで見たな、と思ったら、蓮太郎と出会ったコンパのとき、隣に座っていたイケメンだった。
「あ……、こんにちはーっ」
誰かは思い出したのだが、名前がわからない。
微妙に誤魔化しながら、挨拶すると、
「また今度呑もうねー」
と笑って、シャーッと行ってしまう。
自転車もいいなあ。
バスは渋滞に引っかかるもんなーと思いながら、誰だか知らない人を見送った。
「コンパのとき、お前の方のグループにいた誰だか知らない人?」
知るか、そんなもの、と昼休み、リラクゼーションルームにいた蓮太郎に言われてしまう。
「そうか。
そうですよね」
リクライニングチェアで目を閉じたまま蓮太郎は言う。
「誰だか知らない人は誰ですかと問われて、答えられたら俺は神だろう」
そうですよね~、と唯由は苦笑いしながら繰り返した。
「その人、王さ……、雪村さんと合流する前に私の隣に座ってた人なんですけどね」
と言ってもわからないですよね、と言いかけたのだが、蓮太郎は目を開け、
「ああ、顔はわかった」
と言う。
何故だ。
合流する前の話なんですけど……と思っていると、蓮太郎が立ち上がった。
「悪かったな、昨日。
触れなくていい話に触れてしまって」
「いえ、別に。
私にとってはそんなに嫌な思い出ではないので」
そう言うと、蓮太郎は黙って頭を撫でてくれたが。
いや、本当だ、と唯由は思っていた。
あのまま、あそこにいるのは、いろんな意味でしんどかったが。
あの人たちが嫌いかと問われたら、そうでもない。
唯由の頭を撫で、軽くぐちゃぐちゃにしながら蓮太郎は言う。
「ちょっと不安だったんだ。
お前がシンデレラなら、いつか、かぼちゃの馬車が現れて、お前を連れ去ってしまうんじゃないかって」
……いや、かぼちゃの馬車って、そんな自由意志で動くシロモノでしたっけ?
「せっかく見つけた大事な愛人なのに」
だから、その一言はいりませんって、と思ったとき、蓮太郎の手が離れた。
髪を整えようとしてやめる。
今、この人の前で髪を整えたら。
頭を撫でて髪型が崩れるのが嫌なのかと思われて。
二度と撫でてくれなくなる気がしたからだ。
唯由が去ったあと、蓮太郎はまたリクライニングチェアに横になった。
まだあいつの香りが残っている気がする、と思いながら目を閉じる。
他の人間にはわからないくらいのものかもしれないが、俺は感じる、と思ったとき、ロッカーから持ってきていたスマホが鳴った。
見ると、メッセージが入っている。
蓮形寺かな?
いや、電話番号以外まだ交換してなかったな、と思いながら見ると、こんにちは、と可愛いスタンプが送られてきていた。
実家の執事からだった。
「たまにはお帰りください。
ちょうどいいお見合いのお話が来ております。
此処で身を固めて、真伸様への印象を良くし、次の集まりで後継者として……」
続きは読まずに電話する。
真伸は曽祖父の名だ。
「見合いはしない」
「お写真だけでもどうですか」
実にお美しい方ですよ、と執事は食い下がってくる。
「愛人を見つけたんだ。
見合いはしない」
「愛人なら結婚に支障ないではないですか。
って、愛人は駄目ですよ、愛人はっ。
真伸様の心証が悪くなりますっ、という執事の慌てた口調に、
やはり、俺の計画に間違いはなかった、とほくそ笑みながら、電話を切る。
愛人がかぼちゃに連れ去られる前に、話をまとめておかねばな。
「いや、せめて、かぼちゃの馬車でっ」
と唯由に叫ばれそうなことを思う蓮太郎は、メッセージも見ず、話も途中で打ち切ってしまったので。
結局、見合い相手の名前は聞かないままだった。
「れんれん、見合いするんだって?」
夕方、リラクゼーションルームに顔を出すと、紗江がそんなことを言ってきた。
「いえ、しませんが。
誰に聞いたんですか?」
れんれんのお母さん、と紗江は言う。
「れんれんが見合いするらしいって言ってたよ」
ほら、と紗江は母からのメッセージを見せてくる。
親が『息子が見合いするらしい』という程度にしか知らないのも問題だが。
まあ、その事実を知っていただけでもあの人の場合、ビックリだ、と蓮太郎は思っていた。
他のメッセージまで見えてしまい、
「お母さんは今、博多ですか」
と蓮太郎は呟く。
自分の親なのに何処にいるのかも知らなかった。
大抵、紗江の方が知っている。
「見合いは断ったんですけどね」
「そう。
でも、妻がいないと、唯由ちゃん、愛人になれないよ」
……いや、そうかもしれないが。
唯由以外の女性といたいとは思わなかった。
「でも、れんれんお見合いしたら、唯由ちゃん泣いちゃうかな?」
スマホをしまいながら紗江が言う。
「……泣くと思います?」
すると紗江は少し考え、
「ちょっと前からゴキブリが出てたんだよね、うち」
と言い出した。
「そのゴキブリさ。
何度外に出しても戻ってくんの」
「待ってください。
それは同じゴキブリなんですか?」
「死闘の末に、そのゴキブリがさ」
「死闘って。
なんか闘ったんですか? 紗江さん」
「うん。
ゴキブリ駆除剤をまいた」
じゃあ、それはゴキブリとゴキブリ駆除剤との死闘では……。
「家に帰って、ガチャッてドアを開けたら、よろって出てきて。
自ら外に出て行こうとしてるの。
『行くの?』
って訊いたら、
『ああ。
……達者でな』
って、フラフラどっかに行っちゃったの」
あれから見ない、と紗江は言う。
「待ってください。
ゴキブリがそうしゃべったんですか?」
「ううん。
ゴキブリの背中がそんな風に語ってるように見えたの」
いや、背中、つるつるテカテカ光ってるだけですよね。
「どうやって、あのつるんとした背中から読み取るんですか。
っていうか、その話、なんの関係があるんですか」
「いや、なんか寂しかったのよ。
あのゴキブリが出てっちゃって。
だからさ、れんれんのことを唯由ちゃんがどう思っているとしても。
厄介なゴキブリがいなくなっても、寂しくなっちゃうくらいだもん。
れんれんが見合いしたら、唯由ちゃんもちょっとは寂しいと思うよ」
「待ってください。
ゴキブリがいなくなったら寂しくて。
俺がいなくなったら、ちょっと寂しいなんですか」
「いや~、物の例えよ~。
あっ、そうだ。
あれ、わかった」
と言いながら紗江は扉に向かおうとする。
わかったのは仕事のことだったようだ。
紗江はいつものように、しゃべりながらリラクゼーションルームを出て行った。
「でも、唯由ちゃんってさ。
きっと、れんれんのことを……」
待ってくださいっ、と蓮太郎は紗江を追って廊下に出たが、紗江はもうずいぶん先まで行ってしまっていた。