あいかわらず空には黴に塗れたような緑色の太陽が八つ鎮座し、昼か夜かも分からない。かといって彼は誰時のような爽やかさも黄昏時のような憂いも帯びない情緒に欠けた半端な時間が流れている。影は止め刺しした獣のように身動きせず、雲は網に絡まったように滞り、風は観念したように沈黙している。
あれからグリュエーは一度としてユカリの呼びかけに答えてくれない。これほどの長い沈黙は初めてだ。いないのか、そばにいるが話せないのか、それすら分からない。少なくとも魔法少女の【会話】の魔法が失われた訳ではないことは確認している。幾度か風が吹き寄せた際に【話しかけた】、が別人だった。
活躍が減ったことを嘆いていたのに、軽んじ、何度か揶揄ってしまった。それを思い返すたび、ユカリは喉の奥を絞めつけられるような悔恨の念に苛まされていた。
ユカリとベルニージュは老いた驢馬のような重い足取りで、日に焼けた茅葺の如き色褪せた丘を上る。
他の者たちはユビスも含めて留守番だ。魔法少女と新たな首飾りの魔導書による変身でなければ呪いを弾けないからだ。教団や機構や大王国に呪いの防ぎ方について情報共有してくれるなどと期待できない以上、自分たちの知る方法で呪いに挑まなくてはならない。
ハーミュラーを見た幻に関しては誰にも何も分からなかった。少なくともそれを見たのはユカリだけだった。
雨が降れば今にも崩れ落ちそうな土の塊のような丘の頂にたどり着いて一息つく。
ユカリは広がった目の前の光景を眺め見て、嘆くような呻きを漏らす。暴力と憎悪についてよく知る詩人でもこのような景色は語れないだろう。
「想像の何倍もでたらめだね、残留呪帯。まるで悪夢を掻き混ぜたみたい。めちゃくちゃだよ」
「無数の呪いが無差別に働き続けて生まれた混沌だからね。ワタシの知ってる呪いらしきものもある」
ユカリの視線の先、丘を下った先には野が広がっているが、不思議かつ獰猛な存在が暴れているかのようだった。
突如、何の予兆もなく地面から生育しきった樫の木が生えてきたと思えば、全ての葉が赤く燃え上がる。緑色の空から道化のような案山子が降ってきて地上に突き刺さり、独楽のように激しく回転する。涼風の代わりに稲光が吹き荒れる。懐かしい誰かが抑揚のない声でこちらに呼びかけながら手を振っている。何の変哲もない地面が陥没し、隆起し、陥没し。逆さに飛ぶ蝙蝠の群れが共食いを始める。悲鳴。屋根のない鉄格子が黄金の池を囲んでいる。振り子のように揺れる木立の間で沢山の乙女たちが誘うように踊っている。幾頭かの猛獣、猟犬。雄叫び。
悪夢でも見ることのない筋の通らない光景が目まぐるしく移り変わる。それが薄幕のように、地平線から山の稜線まで伸びて、モーブン領を覆っていた。
「あれを思い出すね」ベルニージュはのんびりと思い出を語る。「サンヴィアでの最後の戦い。クオルの歌ではちゃめちゃになった謁見の間」
ユカリも苦い気持ちで思い返す。あの時は天地までもが逆さになった。それに比べればましだろうか。
しかし、とユカリは思いなおす。あの中に入れば一瞬ももたないように思える。これが残留呪帯。確かに厄介さでは『這い闇の奇計』以上のようだ。
「でもこの光景を生み出したのは一人の魔術師ってわけじゃないんでしょ?」
「うん。クヴラフワ衝突でシグニカ、ライゼン双方の魔術師たちが放った呪いの残滓だね。本来以上に力が増幅しているようにも思えるけど」
ユカリは厳めしい表情の戦士の偶像のように固く腕を組み、腑に落ちない様子で唸る。
「戦争が起きる度にこんなことになるの? シグニカとライゼンが大国で、魔術師は優秀だから?」
「もちろん。そんなことない」ベルニージュは微かに首を横に振った。「触媒としてクヴラフワ呪災を半永久的に支えている存在が、この亡国にある」
「それが魔導書ってわけだね」とユカリが継ぐとベルニージュは相槌を打った。ユカリは【微笑み】、魔法少女に変身する。「あの魔法を全部防げるのかな」
「無理だよ。魔法少女が防げるのは魔法少女そのものに直接影響する呪い。魔法少女そのものを燃やすのが無理なのであって、魔法が生み出した炎を浴びれば燃えるからね。その派手な衣装を残して灰になるよ」
ユカリは恐ろしい想像をして総毛立つ。「怖いこと言わないでよ。それで、どうする? 一旦休憩する? 先に解呪してしまう?」
「解呪しよう」
ベルニージュはその形を確かめるように、胸元で揺れる首飾りの紫水晶に触れ、その力を理解する。光の繊維がベルニージュの確かな業を秘めた細く冷たい指の間から零れる。
次の瞬間には燃え上がって灰になるように、ベルニージュの翠の旅装が消え失せ、代わるように光の織り成す魔法の布が青白い肢体を覆い隠す。
一日の役目を終えた太陽の名残り惜しむような黄昏の布地が、ベルニージュの体をなぞるように隙間なく張り付いていく。反するように袖は緩やかに流れ、袖口には来たる夜を予感させる漆黒の刺繍が施される。翠玉の如き踵が伸びて背筋も伸びる。
数瞬の後、翼が生えるように漆黒の合羽を纏い、妖しく光る金の襟止めが双翼を畳む。自前の紅の髪は一層燃え立ち、束ねられて垂れる。
目くるめく変身を締めくくるように紫水晶が光を放ち、琵琶に似た六弦の楽器が生まれた。
ユカリは圧倒された様子で目を見開いている。
「何だか一つの芸みたい! 良いもの見たよ」とユカリは歓声を上げる。
客観的に変身する姿を見るのは初めてだ。いつもこんな風に見えるのだろうか。
「もっと言うことあるんじゃない?」と言ってベルニージュは表情を作り、艶やかに構える。
「かっこいい! かわいい! うつくしい!」ユカリは一通り誉めそやすと様々な角度からベルニージュを眺める。「それにしても私の姿とは全然違うね。変身した姿を決めるのは自分自身ってこと?」
「そういうことになるね」ベルニージュは楽器を持ち上げて眺めた。「楽器も、聞いていたのと違うし。見たことないけど、弦楽器なのは分かる」
ユカリに与えられた声を拡げる楽器とはまるで違う。
「じゃあ解呪するよ」
ベルニージュは数歩先に進み、心の命ずるままに楽器を掻き鳴らした。
結論から言えば効果はなかった。そもそもどのように弾けば良いのか魔導書が教えてくれない、とベルニージュは不平を漏らす。
「何が足りないんだろう」ユカリは何か原因は見つからないかとベルニージュの衣を前から後ろから丹念に見つめる。「変身はできてるんだからベルに問題があるとは思えないけど」
「ワタシに問題があるわけない」とベルニージュは断言する。「でも一応ユカリも試してみて」
ベルニージュの言う通り、今度はユカリが首飾りの魔導書で変身するが、やはり心に詩情は現れない。ベルニージュはほっとしていた。
「駄目みたいだね」ユカリも少しだけほっとしていた。「それじゃあどうする? 残留呪帯を通り抜けるには、間接的な魔法を何とかしないと」
「十分だよ。残りはワタシが全部燃やし尽くす。ところで、ねえ、これ」ベルニージュは肩にかけた弦楽器を煩わしそうに指し示す。「魔法少女の杖みたいに消せないの?」
「さあ? 本人に分からないなら誰にも分からないよ。あの杖の出し入れだって感覚的なものだし」
ベルニージュは少しの間、自分の心の中に問いかけるが、特に新しいものは見つからなかったようだった。とうとう観念し、できるだけ邪魔にならないように背中側に回す。
「一気に走り抜ける?」とユカリは不安そうにベルニージュの横顔を見上げて尋ねる。
「距離がどれくらいか分からないからなあ」ベルニージュはじっと目を凝らし、時折唸りつつ答える。「まずは歩いて、駄目そうなら走ろう」
「え? 駄目そうって?」
「つまり、ワタシが飽きちゃう前にね」
緊張のせいかこみ上げる笑いも控えめだ。「これほど飽きの来ない場所は他にないよ」
境界へ踏み込む前に二人して深呼吸をする。その時、残留呪帯の方へ一陣の風が吹いたが、ただ吹いただけだった。ユカリは何かを待つように耳を澄ましたが、何も聞こえはしない。しかし後押ししてもらったような気がした。
二人は同時に残留呪帯へと乗り込む、恐怖を追い出す固い決意と覚悟の割にあっさりと。
踏み入れた途端、吹き荒れる現象のどれもが強い意志を持っているかのように牙を剥き、二人の少女に襲い掛かる。魔法の衣によって呪いの大半が除かれても、急に銀色の雨が降ってきて、地面が誰かの血で泥濘に代わり、角と足の多い牛が突進してきた。
それらを全てベルニージュの魔法が阻む。魔導書の支えを得ているのはユカリたちも同じだ。激烈な炎の嵐を巻き起こし、何もかもを焼き尽くす。
どのような危害も二人の少女には届かなかったが、しかしベルニージュはユカリの手を強く握り、歩みを速める。急げという合図だ。二人は足を速め、ついには駆け出す。背負った楽器のせいか、踵の高い靴のせいか、元から足が遅いせいか、すぐにユカリが先導することとなる。
それでもなお残留呪帯は衰えることなく、飽きることなく、数えきれないほどの手数と手段で二人の侵入者を襲い続け、それらは悪意をも焦がす魔法の炎によって灰となる。
ユカリは危険な領域を脱した後もその勢いのまま走り続ける。ベルニージュの手を引っ張り、もう大丈夫だ、と言われるまで。
しかし「待って! 置いてかないで!」というベルニージュの声が遥か後ろの方から聞こえ、ユカリは自分の耳を疑う間もなく立ち止まり、振り返る。
ベルニージュもまた残留呪帯を脱してはいた。呪文を唱えながら走るのは大変だったらしく、十数歩後ろで両膝に手を突き、息を調えている。
それでもまだユカリの手には誰かの手を握っているような感触があり、慌てて手を振り回す。そしてその正体に気づき、ユカリは出した事のない悲鳴を振り絞り、仰け反り、尻もちをつく。
疲れ切って座り込もうとしていたベルニージュが慌ててユカリの元へ駆け寄る。
「どうしたの!? 何か貰った!?」
ユカリは震える指でさし示す。
その指の先、目線の先、少し離れたところに一匹の蜘蛛がいた。ベルニージュの小柄な掌ほどの大きさで、濡れたような質で鈍く光り、黒々として細かな毛が生えている。どうしてベルニージュの手ではないと気づけなかったのか不思議なくらいだ。ユカリの手から払い除けられて地面に落ちた蜘蛛は迷うことなくまっすぐに南西へ向かって八本の足を蠢かしていた。二人の目指す街の方角だ。
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