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深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
親友に導かれる。親友に守られる。親友に微笑みかけられる。みどりの心は満たされる。
何も変わらない幸福な日々が続く。手に汗握るがいつだって上手くいく冒険にみどりは胸を躍らせる。
しかし。
ユカリは飛び起き、緑がかったぬるい太陽に照らされた周囲を訳も分からず見渡して、自分が目覚め、飛び起きたことに気づく。夢を見たような気がする。きっと悪夢のはずだが思い出せない。刺々しい息を吐く。他人の忠告のような冷たい寝汗をかいている。ずっと聞こえていたはずの川の水音が徐々に頭の内に流れる。胸に手を当てる。心拍は乱れていない。心臓が無いからだ。
心臓は、魔法使いクオルの魔物が生み出した謎の闇に呑まれて消えた。元焚書官チェスタの頭や、産みの母エイカの全身と同様、闇に消え失せ、しかしこうして生きていられている。確かなことの分からない異常事態だ。
ユカリはその後まんじりともせず、暗くも明るくもない灰色の川辺で静かに寝息を立てるベルニージュの目覚めを静かに待った。
安易な考えを跳ねのける急峻な山道を進み、川辺で碌に眠れなかった一泊をし、その後ユカリたちは無事に山を越えた。すると太陽もどきの朧な陽光でも煌めく沢山の川が南方へと流れゆく見事な景色が広がった。
まだ賢い王の威光と支配、治水が行き届いていた時代、白い湖畔の街は湖の恵みと大小の川船によって西方の奇品珍品が運び込まれ、商機を求めて集う商人で賑わうモーブン領東方の交易の中心地だった。人にも水鳥にも水草の陰に潜む者たちにも等しく愛された美湖は、しかし今やかつての面影もなく、かつては光溢れ、神々に祝福を賜った湖面は汚く濁り、清水に棲んでいた鰭と鱗を誇りとする生類は死に絶えた。
ユカリは目を凝らす。ジェムリーの街は遠目に見ても、何やら黒々としたものが蠢いていた。ユカリとベルニージュはそれを見つけても一言も交わさず、それが何かを確認できる距離まで近づく。
不吉な兆しは予感となり、不安は不快へと変わる。その蠢きは無数の虫だった。地を這う虫が街を覆い尽くしている。蟻や団子虫や蚯蚓や百足があちらこちらを這い回っている。地面はほとんど覆われていて、いくつかの種は壁をも這い進んでいる。
ユカリは顔を歪め、「呪いだよね?」とベルニージュに確認する。
「そうだろうね。蜘蛛以外の虫も苦手?」
「大概は平気。でもこれだけいたら平気でも平気じゃなくなっちゃうよ。これも戦争で使われた呪いってこと? 私ますます戦争が嫌いになったよ。戦場で虫を何に使うのか知らないけど」
「食害による被害を企図したんじゃないかな」
「それだと機構や大王国よりクヴラフワの方が被害が大きくなるよ」
「そんなこと気にする連中が他所様の土地に侵略したりしないでしょ。他に考えられるとしたら敵方の士気の低下かな。自軍にも影響しそうだけど」
「その効果は私も保証するよ」
二人は何度目かの覚悟を決めて、呪われたジェムリーの病に蝕まれた臓腑の内の如く蠢く街に踏み込む。
森を駆ける狩人が虫など気にするものか、とユカリは自分に言い聞かせる。
魔術の素材になる虫はいないだろうか、とベルニージュは虫の群れを観察する。
虫たちは、少なくとも寄っては来なかった。触れた瞬間に消し去ってしまうのではないか、とユカリは想像していて、少しだけ気落ちし、同時に安心もした。
確かな感触がある。積極的に寄っては来ないがどうしても避けることはできず、甲殻が割れ、軟体を押し潰し、瑞々しい中身が溢れ出す。厭な感触だ。不快感が死んだ虫の亡霊のように足を這い上がってくる。しかし歩かなくては進まない。踏まなくては歩けない。踏み潰して踏み潰して踏み潰す。最初は怖気立ち、肌の粒立った感触にユカリは徐々に慣れてしまう。
どうしても我慢ならないのはその臭いだった。鼻をひん曲げ、脳のすぐ下を強く刺激する悪臭が街を漂っている。喋るのも億劫になるこの呪わしい臭いを魔法少女の衣は弾かなかった。つまりあくまで呪いの副産物ということだ。
堪えるほかない。二人は言葉を交わすことなくお互いの覚悟を心の内で賞賛し、意識を奪われないように慎重に呼吸し、虫の深みに足をとられないように慎重に歩み、少しずつ街を巡る。
ジェムリーの街の人々の生活の様子を知る者は、街の外にはほとんどいない。やってくる者も出ていく者もシシュミス教団の神官の他にはおらず、神に仕える彼らは沈黙を尊んだ。それゆえに呪いの時代になってもなお生き残るジェムリー市民の奇妙な格好を知った余所者はユカリとベルニージュが初めてだ。
口と鼻と耳を布切れで覆い、袖口と裾は手袋と長靴ごときつく縛り付けられている。男も女も大人も子供も長靴は口が鼠返しのようになっていて、まるで小さな傘を履いているかのようだ。
ユカリは一目見て理解する。彼らの格好のどれもが虫対策なのだろう、と。口と鼻だけなら臭い対策だとわかるが、耳まで覆っている事実に身震いする。靴を鼠返しにしなければ這い上がってくるのだ。そのような対策をしても這い上ってくる虫はいるようだが、虫の深みに足を取られるよりはずっとましなはずだ。あるいは毒虫もいるのかもしれない。しかし彼らの様子を見るに最早慣れてしまっているようだ。中には顔を這っている虫もいる。虫を慣れ親しんだ隣人とでも思い込まなければ、とてもこのような場所で生きてはいけないだろう。
ユカリが最初に訪れた街メグネイルと同様に、人々は二人の来訪者に驚いている様子だった。しかしそれを予め知っている様子でもあった。攻撃的な振る舞いはしないが、話を聞いてもくれない。まるで世にも珍しい奇妙な格好を見物するようにユカリたちを遠巻きに眺めている。
「私たちのこと、知ってるみたいだね」ユカリは悪臭に吐き気を催しながら残念そうに呟く。「既に教団を通して伝えられているってことかな」
「たぶんね」ベルニージュは興味深げに地面を這い回る虫を観察している。「連絡手段は分からないけど虫に手紙を運ばせる魔術でも作り出したのかな」
街を形作る建築も、市民と同様に奇妙な格好だ。古い建物を補強して土台にして、その上に新たな街を造っている。鼠返しを取り付け、それでも虫は隙間を見つけて這いあがってくるのだが、ないよりはましなようだ。そのため、蠢動する虫の絨毯が敷かれた古い道はずっと暗くてずっと臭い。
昔は商店街だったらしいが今は人の気配のほとんどない拱廊を抜けた先、街の中心には広場があり、広場の中心には波打ち際を固めて瓦にしたような白い屋根の四阿があった。その少し高い舞台にシシュミス教団の神官が集まっていた。神殿のようには見えないが、神の加護に阻まれているかのように虫は四阿の中へ入れずにいた。
一人の神官の女が四阿の入り口の階段で屈んで、街の少年の汚れた顔を労わるように拭っている。どうやら少年は転んだか何かして虫を顔で踏み潰したらしい。黄色っぽい液体に塗れてべそをかいている。
「さあ、泣くのはおやめなさい」と神官は少年に鞭打つようにぴしゃりと言った。「いくら泣いても汚れは落ちないし呪いは解けないし神は微笑みませんよ」
「どうして呪われてるの? 神様は助けてくれないの?」と少年はすがるように神官に尋ねる。
「弱いからです」と神官は断言した。「貴方も、人々も皆が弱いから苦しむのです。強くおなりなさい。不満も不平も世の矛盾でさえも強者には縁のない事柄です」
少年はまるで納得できない様子だったが、押し黙ったまま頷く。
「お使い、ありがとう。さあ、飴をあげましょう」神官は少年の口の中に柔らかな飴を押し込む。「さあ、ここから貴方の家へたどり着くまで、全ての虫を踏み潰すつもりで行きなさい。一歩進み、一匹潰すたびに貴方は強くなれるでしょう」
神官が励ますように微笑みを浮かべ、中々立ち去らない少年の背中をそっと押すと、階段から地面に降り立った少年は底の厚い靴で虫を踏み潰しながらがむしゃらに駆ける。怪物に挑む勇士の背中だ。それでも数匹の虫が膝の辺りまで這い上ってきていて少年は声にならない悲鳴と共に去って行った。
ユカリたちの姿を認めると神官はまたも迷子を迎えるかのような面持ちで階段を降りてくる。すると呪いの虫の群れは神官から離れ、地面を露わにした。ユカリたちの魔法少女の衣の加護に比べて明らかに広い範囲を有している。ユカリたちの場合は虫の方から近寄って来ないが、ユカリたちの方から近づいても虫は逃げやしない。一方神官たちの方では明らかに虫が神官たちを嫌がっている。
ベルニージュが少しだけ悔しそうな顔をしている。
「お二人のお話は教団本部から伝わっております。遥々よくぞお越しくださいました。わたくしは白砂湖付き神官長、夕星と申します。クヴラフワ呪災の解呪はクヴラフワに生き残る者全ての悲願。研究に際し、何かあればどうぞご用命くださいませ。必ずや助けになりましょう」
ルチェラは何もかもが清々しい女だ。眼差しは秋風のように涼やかで、声の響きは朝露の滴りのように透徹、微笑みに冴え冴えとした星の瞬きがあり、佇まいに風に枝葉を揺らす梢の趣がある。身に着けた神官の白い衣は他と同じものだが、彼女が身に纏うと春を待って輝きを秘める愛らしい野山の雪化粧の如くだ。しかしそのうちには烈火の如き精神が燃え盛っているらしい。呪いをただ精神力だけで乗り越えようという愚直な魂だ。
二人は四阿に招かれる。この吹きさらしの建物で教団の事務仕事をしているらしい。虫が入って来ないのは、この四阿にではなく、神官たちに近づかないからだと分かる。
小枝を束ねた手作りらしい歪な椅子を勧められ、二人はゆっくりと腰かける。ルチェラは向かいに腰かける。他の神官たちは挨拶もそこそこに書類の山や配給品らしい蝋燭、石鹸の元へ戻る。
「初めまして。私はユカリ、こっちはベルニージュです」とユカリが挨拶すると、ルチェラは二人がやって来た方角を心配そうにちらと見る。
「四人だと聞いていたのですが、何かあったのですか?」
「いいえ、二人はビアーミナ市で留守番です。あちらでも出来ることはありますので」とユカリは説明する。
「皆さんは呪災を解きほぐす手立てをお持ちだとか。ラゴーラ領同様にモーブン領を解呪することも可能でしょうか?」
「ええ、出来るだけのことをします。早速ですが、ここの呪いについて教えてもらえますか?」
ユカリは四阿の外の蟲溜まりをちらと見て、慌てて目を背ける。
「ええ、喜んで」それが自分の仕事だと誇らんばかりに胸を張ってルチェラは語る。「ご覧の通り、モーブン領は『騙り蟲の奸計』と呼ばれる呪いに覆われています。正直なところ他の土地の呪いに比べれば大したものではありません。少し臭いますし、不潔ですし、気持ち悪いですが、それだけです。慣れてしまえば何とかやっていけるものです」
まるで日々の営みに伴う苦労に過ぎないとでもいうかのようにルチェラは語った。
随分と気楽な考え方をするものだ、とユカリは感心する。とはいえ呪いは人が人に差し向けるものだ。同じ呪いでも効果のほどは人それぞれだろう。
「モーブン領が覆われている?」ベルニージュは首を傾げて赤い髪を揺らす。「少し大げさじゃない? 現にワタシたちはこの街に来るまで蟲を見なかった。覆われているのはこの街、ジェムリーだけでしょ?」
「いえいえ、そんなことはありませんとも」ルチェラはまっすぐにベルニージュの赤い瞳を見つめ返して言う。「『騙り蟲の奸計』は確実に人のいる場所に集うのです。確かにモーブン領全土、全ての地面の上と言えば大袈裟でしょう。しかしモーブン領において人の住む街は全て『騙り蟲の奸計』に覆われています。モーブン領が覆われている、と言っても大仰ではない。そのように思います」
「個々人で分散して生活ってわけにもいかないんだろうね」とベルニージュは無理なことを言う。
ただでさえ不安定な世の中で孤独に生きるのは難しいことだろう、とユカリも想像する。
「そうですね。それこそモーブン領を文字通り覆ってしまうかもしれません。個人単位で呪いが反応するのかどうかは知見がありませんけど」とルチェラは淡々と答えた。
「それと、呪いがどこから湧いてきているかは判明していますか?」
ユカリは思い切って直截的に尋ねた。メグネイルの街において教団はマルガ洞から『這い闇の奇計』が溢れていることを黙っていたようだった。市民は察している様子だったが。
「湖です。リーセルと呼ばれる湖です」とルチェラは一切の迷いなく答える。「元々信仰を集めていた清らかな湖だったのですが、今では濁り、無尽蔵に蟲が湧いています。そしてモーブン領全土へと去っていくのです」
「一か所から全土へ?」とユカリは確認するように尋ねる。
マルガ洞の場合は洞窟自体が長く伸びて、ラゴーラ領全土に出入り口がある様子だった。とはいえ通り抜けられるのは煙か呪いくらいの狭い亀裂しかなかったが。
「ええ、その通り」ルチェラは頷き、二人の顔を窺う。「まだご覧になっていませんか? まさにこの街に隣接している湖ですよ」
ベルニージュが怪訝な面持ちで首を傾げる。「さすがに呪いの発生源のすぐそばに住む必要ないでしょ」
ルチェラはしっかりと首を横に振り、きっぱりと言い返す。「我らが神の化身の住まう湖です。たとえ怒りの果てに呪いに溢れようとも、我々の方から見捨てることなどできようはずもありません」
その言葉に対しては何も言わず、「とりあえず見に行ってみようか。その湖」と言ってベルニージュは椅子を引いて立ち上がる。
その時、ユカリは吹き寄せた風に気を散らせていた。この呪われた街にあって、臭いが薄く、そして警告するように吹き付けた、ような気がした。