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「改まって考えてみればみるほど、奇跡のように思えるよ」
海岸沿いの道は緩やかにウェイブがかかっている。健太はそれに合わせてハンドルを微調整している。返事がない隣をちらり見ると、ツヨシが助手席に昇格してふんぞり返っている。半とじの目は空を見ているようだが……きっとマチコのことを思っているに違いない……どうやら話は聞いているようなので、言葉を続けた。
「俺が言いたいのは、今日までよく、こんなにもったってことだよ」
来週ミンが帰ったら、マラソンに集う仲間はいよいよ健太とツヨシだけになる。
しかし、それならまだいい方だ。
「俺に居候をもう少しの間許す気でいるならまだしも、」
というところで健太は唇を結んだ。
そうでないときのこのグループの命運は、彼の中ではこれ以上ないほどはっきりしていた。
マラソン邸に集うみんなは、一番苦しいときに傍にいてくれた。励ましの言葉一つなかったけれど、そんなものがあったとしても意味はなかっただろう。問題は、健太が今ここでハンドルを握っているという単純な事実だ。彼らと会っていなかったら、飛行機に乗って太平洋の彼方へ消えていたのはマチコではなく彼だったはずだ。
道路の片側はずっと砂浜と海のままだが、反対側は空気孔がぶちぶち開いている火山岩が迫ってきた。
「なあ」空を眺めたまま、ツヨシが突然口を開けた「お前はまだほか、捜してんのか?」
健太は、そのつもりだ、いつまでも管理人に隠れて住まわせてもらっても君に迷惑だろうと答えた。
ツヨシは胸ポケットから板ガムを取り出して口の中に放り込むと、くちゃくちゃやりだした。なにか重要なことを言い出すときの、ツヨシの癖だ。
「あのさ、お前とミンと俺の三人で一緒に住まない? そしたらもちっと大きいところに引っ越せるよ」
健太はハンドルのリムを叩いて、そうこなくっちゃと言った。
でもすぐに、ミンの帰国はもうすぐだという岩場にぶつかった。
「えっ、まさか何も聞いてないのか?」ツヨシの声がかすれた「奴はビザ取ったらすぐにこっちへ戻ってくるよ」
健太は助手席の男を見た。
「ちゃんと前向けよ」
ツヨシはそう言うと、事情を話し始めた。
ミンは今回の滞在で、この国が、そしてマラソン邸のみんなのことがすっかり気に入ってしまったらしい。学生ビザを取って正式な留学に切り替えて、高校も転校して、将来はこっちの大学に入るつもりだという。その件ではミンの叔父さんが姉、つまりミンの母への説得に骨折りした。その結果、両親とも賛成に傾き始めたらしい。空港で働く週末の隙に、小さな世界がこんな化学変化を起こしていたとは健太は気付きもしないでいた。
そんなことミンから全然聴いてないぞと健太が太い声を出すと、ツヨシは「あいつもとっくに伝えたつもりになってるんじゃないか、俺もそうだったけど」と言った。
岩場は道路から遠く離れた。
「でもミンの叔父さん、許すかな」
健太は、ミンがつい最近までマラソン邸に出入り禁止だったことを根拠にあげた。だから仮にこちらに正式に留学するにしても、叔父さんの家に住まわせるのが順当に思えた。
「その辺も聞いてないのか?」ツヨシの声が甲高い「何でも、アイツの叔父さんは店畳んで韓国に帰るらしいんだよ。いつなのかまでは知らないけど」韓国人街の居酒屋に一人でいるよりも、そろそろ母国で家庭を持つのもいいんじゃないかと姉、つまりミンの母に説得されたらしい。ただ、その辺りの詳しい事情は又聞きだとツヨシは付け加えた。
横でガムの包み紙の開く音がする。健太はハンドルから片手を離して一枚くれよと手を差し出した。案の定というか、ツヨシは「もうないよと」と言って自分の口に放り込んだ。再び海岸沿いの砂浜とエンジン音だけが続いた。