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#溺愛
桜咲かな
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桜咲かな
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#百合
第三十六話 その日のこと
紙の端に残っていた「名前」という文字。
彼は、それを見つけてから眠れなくなっていた。
何度見ても、そこにある。
けれど、その下に続いていたはずの文字は
完全に消えている。
「名前……?」
誰の名前なのか。
自分の名前なのか。
それとも、あの日一緒にいた誰かの名前なのか。
考えているうちに、また記憶が浮かんだ。
夕方のベンチ。
隣に座る誰か。
その人が、自分に何かを渡している。
「これ、忘れないで」
今度は、声だけじゃなかった。
手元まで見えた。
小さな紙。
その紙を受け取った自分が、何かを言っている。
でも、そこだけがどうしても思い出せない。
彼は目を閉じた。
「あと少しなのに……」
翌日の夜。
サイトを開くと、彼女からメッセージが届いた。
『昨日、ちゃんと眠れた?』
『あんまり』
『やっぱり(笑)』
『そっちは?』
『私も少し』
『写真のせい?』
『うん』
二人とも、
昨日見つけた写真や紙のことが
頭から離れなかった。
『今日、もう一回アルバム見た』
『何かあった?』
『一枚だけ』
写真が送られてくる。
そこには、昨日まで見ていた場所が写っている。
けれど、今度はベンチの近くに二人の姿があった。
遠くから撮った写真なのか、顔はほとんど見えない。
それでも、彼は写真を見た瞬間に息を止めた。
『……これ』
『何?』
『たぶん、俺』
『え?』
写真の中の一人が着ている服。
見覚えがある。
昔の自分が持っていたものと似ている。
『本当に?』
『分からない。でも、たぶん』
『じゃあ、もう一人は……』
彼女のメッセージが途中で止まる。
彼も、その先を考えた。
もし写真の中のもう一人が――
自分が忘れている相手なら。
その人が持っていた紙。
そこに書かれていた「名前」。
すべてがつながりそうなのに、
最後の一つだけが分からない。
『会ったときに、この写真も見よう』
彼が送る。
『うん』
『そのときなら、何か思い出せるかもしれない』
『そうだね』
彼女は写真を見ながら、妙な感覚に襲われていた。
写真の中の景色。
ベンチ。
夕方の光。
どれも初めて見るはずなのに、なぜか知っている。
そして、写真の中にいるもう一人の姿を見ていると――
胸の奥が少しだけ苦しくなる。
理由は分からない。
だから、考えるのをやめた。
『ねえ』
『うん?』
『会ったとき、最初に何て言う?』
『分からない』
『私も』
『じゃあ、その場で決めよう』
『うん』
『たぶん、普通に「こんにちは」になる』
『それはちょっと面白い(笑)』
『じゃあ、笑わないでね』
『無理かも』
二人で笑った。
写真の話をしていたはずなのに、
最後はいつもの会話になっていた。
それが、少し安心する。
過去に何があったとしても、
今こうして話している時間は
確かに自分たちのものだから。
夜が深くなり、彼女はスマートフォンを置いた。
彼も机の上の写真をしまう。
そして、最後に小さな紙だけを残した。
「名前」
その一文字を見つめながら、彼はふと思った。
もしかすると、自分が忘れているのは――
その人の名前だけではないのかもしれない。
コメント
1件
**第36話、読んだよ。** 写真と「名前」の文字が繋がりそうで繋がらないもどかしさがじわじわ来る…。最後の「その人の名前だけではないのかもしれない」って一文、めちゃくちゃ刺さった。忘れてる“何か”が名前だけじゃないって考えると、過去の重みがグッと増すよね。 それでいて、彼と彼女のやり取りが自然で、「会ったとき最初に何て言う?」って会話、すごく好き。過去の謎と今の穏やかな時間のギャップが、物語を優しくも切なくしてる。 続き、どうなるんだろう…。早く知りたい🔥