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#アラスター
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全身の毛穴から血が噴き出るんじゃないかと思うくらい、心臓がうるさかった。
指先が震えて、スマートフォンを持つ手に力が入らない。
(落ち着いて……)
私は深呼吸をして、テーブルの上に置いた白い箱を見つめた。
サロンを出る時、オーナーが「お誕生日おめでとうございます」と持たせてくれたケーキだ。
久しく、こういう甘いものなんて買っていなかった。
生活費2万円では、とても余裕なんてない。お昼を抜いて、安い食材を選んで、慎一の機嫌を損ねないように暮らすだけで精一杯だった。
(なんで私……ケーキひとつ、自由に食べられなかったんだろ)
箱を開ける。
淡いピスタチオグリーンのクリームが美しい、小さなケーキだった。
ひとくち食べる。
ふわり、と甘い香りが鼻を抜けた。
優しい甘さなのに、後味にはほんの少しだけ塩気があって、涙が出そうになる。
(……おいしい)
こんなふうに、「おいしい」って感じることすら、忘れていた気がした。
私はスマホを握り直す。
通知欄には、慎一の裏アカと思われる名前が表示されていた。
――イケてる俺最強_いっちゃん@エロ垢
(……だっさ)
いったいどういうつもりでこんな名前にしたんだろ。
投稿内容を見ると、最低のオンパレード。
『妻がメシマズすぎて家に帰りたくない』
『感謝もできない専業主婦ってマジ地雷』
なんで生活費2万円しかくれなくて、人として最低夫になんで笑われなきゃいけないの?
悔しい。
お父さんの形見を売られて、浮気されて、裏ではコキ下ろされて。
(……でも)
私はもう泣くだけの女じゃない。
サロンで撮ってもらった写真を見つめる。
らぶ美。
夫好みの、男好きしそうな女性――だったらなってあげる。あなた好みの理想の女に。
意を決してDMを開いた。
『フォローありがとうございます。いっちゃんさんも、伴侶に苦労してるんですね』
送信。数秒後。
ピコン♪
返事が来た。
『そうなんだよ。嫁がメシマズで、感謝もできない無能でさ(苦笑)』
胸の奥がぐちゃりと潰れる。でも、耐える。
『らぶ美さんのアイコン、めちゃくちゃ色っぽいね』
あはっ、おかしい。慎一ったら、このアイコンの女性が私だとも知らないで。
『ありがとう♡ いっちゃんさんも、優しそう』
『優しいってよく言われる(笑)旦那とうまくいってないの?』
それ、あなたのことですから。
『最近、女として見てもらえてないかな。それが辛くて』
すぐ既読。
『それは男が悪い』
(……は?)
誰のせいで、私はこんなに傷ついてると思ってるの?
怒りで指先が熱くなる。
でも、ここで感情的になったらダメ。
『優しいね。いっちゃんさんってモテそう』
少しだけ距離を縮める。すると、すぐ返信。
『まあね(笑)』
うわ、腹立つ。慎一なんかぜんぜん優しくないし。
『今、どこでなにしてるの?』
『ホテルでラブマッサージ中~(笑)』
息が止まった。
(……ホテル?)
今日、義実家でご飯食べるんじゃなかったの?
指先が冷える。
『誰と一緒なの?』
数秒。返信はない。
既読だけがついたまま、沈黙した。
(……しまった)
やりすぎた。踏み込みすぎたんだ。
私はスマホを抱えたまま、盛大なため息を吐いた。
その時、ふいに義母の言葉が脳裏をよぎる。この前料理しながら、叱られた言葉が――
『美輪さん、料理には加減ってものが必要なのよ! あなたはぜんぜん、加減ができないのね!!』
そっか。私が料理が下手なのは、加減がうまくできないから。
これを直せば、うまくいく?
絵だったらいくらでもインスピレーションわいて、うまくできるのになぁ。
はぁ~。失敗した。
でも、ここで気づけて良かったと思おう。いくら素材やレシピがよくても、肝心の調理する腕がさっぱりなままだったら、ぜったい、うまくいかない。
私も、いつまでも「できない」「向いてない」「無理だ」とばかり言っていないで、工夫することを考えよう。
いつだってサレ妻を苦しめるのは、シタ夫なのに。なんで私がずっと苦しめられなきゃいけないの?
そんなのおかしい! だったらうまくやらなきゃ。オーナーの言う通り、従順な妻でいよう。もっと夫に近づいて、あの人の弱点を私が探すの。
もうお風呂に入って寝ようと思っていた時、再びスマホが震えた。
『らぶ美さんの写真送ってよ』
慎一からだった。
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