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「……今日は、君の“耳”をもらう」セルジュがそう言ったとき、ルネは一瞬きょとんとした。 けれどその目には怯えよりも、好奇の光が浮かんでいた。
「耳……を?」
「正確には、型を取る。石膏で、君の右耳のかたちを複製する」
ルネは静かに頷いた。 脱がせられるわけでもない、血が流れるわけでもない。 それなのに、セルジュの目にはこれまでにないほどの熱が灯っていた。
それが、かえって怖かった。
*
準備は淡々と進められた。 セルジュは大理石の器に白い粉を注ぎ、水を加えて練り上げる。 ルネは椅子に座らされ、髪を優しくまとめられ、右側の顔だけが露出するように整えられた。
「……冷たいと思うが、動かないように」
セルジュが低く言い、石膏を指先ですくう。 そして――耳に、触れた。
「ッ……!」
冷たさと重さ、そして異質な感触にルネの背筋が震えた。 まるで、耳ごとこの男に飲み込まれてしまうような錯覚。
「君の耳は、小さくて、柔らかくて……薄い貝殻のようだ。まるで、楽器のように音を拾う」
「……なぜ、耳なんですか」
ルネが問うと、セルジュは答えた。
「耳は“唯一、死者から奪えない”器官だ。目も、指も、唇も、死体から再現できる。だが“柔らかさ”だけは、生きていなければ残らない」
指先が、耳の縁をなぞる。 石膏はじわじわと固まり始めている。 けれど、彼の指は、いつまでもなぞっている気がした。
「君の耳の内側は、ほんのり赤くて、透けるようだ。 ……この内耳の形に、僕はずっと、淫らな想像をしていた」
ルネの顔が赤く染まる。 だが石膏が乾くまで、微動だにできない。
「動かないで。崩れてしまう。……君の耳が、君の命が、この一瞬しか存在しない“造形”なんだ」
*
やがて石膏が固まり、セルジュは慎重に剥がした。 その手の中に、耳の形をした白い型が収まる。
彼はそれを見つめ――ゆっくりと、唇を寄せた。
石膏の耳に、口づける。 冷たい接吻。けれど、その目は熱を宿していた。
「……この耳に、今夜、何度夢中になったか……。 君が自分でも知らないうちに、僕はずっと、ここを見ていた」
*
その夜。ルネは眠りにつく前に、扉の隙間から自分の石膏耳に話しかけているセルジュの姿を見た。 彼はそれを両手で包み込み、囁くように口を動かしていた。
「……ルネ……君は、誰よりも美しい。 耳たぶひとつで、僕をこんなに狂わせる」
その声を聞いたルネは、眠れなかった。 それは恐怖ではなく――自分が“狂気の神”に愛されたような、奇妙な幸福だった。
*
翌日。石膏耳は、枕元に置かれていた。 白い布にくるまれ、まるで聖遺物のように。
ルネは指先でそっと触れた。 それは冷たく――けれど、温かかった。
彼がこの世に残した、“かたちのある愛”だった。
石膏でかたどられた「耳」は、ルネの枕元にずっと置かれていた。
白く、脆く、静かに――まるで自分の“代わり”のように。
(セルジュ様は、あの石膏の耳を愛してくださってる……)
ルネは何度もそう思った。 夜ごと、セルジュは石膏耳に指を這わせ、時に接吻し、そっと囁く。 まるで、本物以上に慈しんでいるようにさえ見えた。
ルネの中に、ひとつの考えが芽を出した。
(なら、いっそ――本物を、捧げてしまえばいい)
「彼のために、この耳をあげればいい」 「そうすれば、永遠に愛してもらえる」 「作品ではなく、崇拝の対象になれる」
そんな囁きが、頭の奥にしみ込んでいく。
*
それは、ある雨の夜だった。
セルジュは珍しく不在だった。 助手の見張りも薄く、静寂が支配していた。
ルネは、小さな手術ナイフを隠し持ち、石膏耳の横に静かに座っていた。 瞳は潤み、呼吸は震えていた。 けれど、その手は驚くほど静かだった。
「セルジュ様……あなたが愛してくださったものを、僕は本当に差し出します。 あなたが“創った”僕の、この耳――捧げさせてください」
震える手で、刃が耳の下に当てられた。
刃が皮膚を裂く――
「――ッ……!」
その瞬間、激しい痛みとともに、視界が霞む。 だが、叫ばなかった。 血が頬を伝い、襟を赤く染める。 けれど、ルネは微笑んでいた。
(これで……愛してもらえる)
だが――
その瞬間、扉が激しく開いた。
「ルネッ!」
セルジュの声が、冷たい空気を切り裂いた。
駆け寄った彼は、ルネの手からナイフを奪い取り、腕を掴む。 傷口を見て、瞳を見開く。 その視線に、かすかな恐怖と――強烈な怒りがあった。
「……なぜ、こんなことをした」
「……だって……あなたが、あの耳を……あれを愛していたから。 だったら、本物を、あなたに差し出したくて……」
「違う」
セルジュの声が、鋭くなる。 まるで、自分の美しい絵を汚された画家のような激情が、そこにあった。
「……僕は君の形が欲しいんじゃない。 君が、君であり続けるということ――**“壊さずにいられた可能性”**が……、 たったひとつの希望だった」
「……でも僕は……“壊れている”から、ここにいられるんでしょう?」
「それでも……!」
セルジュは顔を歪めた。 その頬に、ひと筋の涙が流れた。
ルネは、その涙を初めて見た。 痛みよりも、その涙の方が胸を突いた。
(ああ……僕は、やっぱり……セルジュ様を泣かせたかったんだ)
静かに気づいて、ルネは自分を抱きしめる腕の中で、そっと目を閉じた。
*
傷は浅かった。耳は“完全には”失われていなかった。 セルジュはそれを丁寧に、まるで壊れた陶器を修復するように手当てした。
その夜。 二人は初めて、抱きしめ合ったまま眠った。
痛みと、涙と、血と、 そして赦しにも似た熱が、静かに降り積もっていた。