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ここは金沢市随一の繁華街、|片町《かたまち》。昼は買い物客で賑わい、夕方には高等学校の生徒がクレーンゲームやプリントクラブに興じる街だが19:00を過ぎれば趣きを変え水商売の店の暖簾がはためきその看板が煌めく。由宇の営む居酒屋は一本入った路地に店を構えていた。
居酒屋 ゆう
気立ての良い和装美人の女将と称される由宇はこの界隈では有名で、その女将が《《不埒な旦那を追い出した》》となれば男|寡《やもめ》が押し寄せ店内は大賑わいだった。
「はい、|権蔵《ごんぞう》さん|金時草《きんじそう》の酢の物」
「いやぁ、由宇さんの酢の物は絶品だねぇ」
「あらいつもと変わりませんよ。褒めてもなにも出ませんよ」
「はい、|笹谷《ささや》さんゴリの佃煮」
「おっ、由宇さん今日のネイルはいつにも増して綺麗だねぇ」
「あら昨日と同じですよ。褒めてもなにも出ませんよ」
権蔵と呼ばれる69歳の狸親父はここ一帯の地主で由宇の店も権蔵と借地契約を交わしている。権蔵は早くに妻を無くし由宇に|懸想《けそう》していた。
「いやいや、美味い」
「ありがとうございます」
「毎日食べたいなぁ」
「毎日お越し下さいませ」
笹谷と呼ばれる狐面はこの辺りの自治会長でこちらは女性に縁遠く62歳になっても独り身、由宇に懸想している。
「その色のネイルも良いけれど桜色も似合うと思うよ今度買って来ようか」
「いえいえ、そんなお客様から頂く訳には」
「遠慮しないで良いんだよ、私と由宇ちゃんの仲じゃないか」
2人は邪魔な《《旦那が居なくなった》》と聞きつけ早速店を訪れた。
(はぁ、身の回りに居るのは60代の狸と狐、たまには掃き溜めに鶴でも舞い降りないかしら)
「で、由宇さん慰謝料は貰ったのかい」
「まぁ200万円ほど」
「由宇ちゃんの価値が200万円!桁が違うんじゃないか!?」
「桁もなにも聞いて下さいよ」
狸親父と狐面は目を輝かせて身を乗り出した。元夫は「200万円はゆうちょ銀行に振り込む!」と豪語した。ところが1回の送金金額に上限があるので50万円を4回に分けて振り込むとLINEが届いた。
「なんだそりゃ」
しかも1回の送金手数料100円を差し引いた499,900円が由宇の通帳に記帳された。
(手数料差し引いた慰謝料とか聞いた事ないぞ、ごるあ!)
そこで簾暖簾が音をたて紺色のスーツに青いネクタイを締めた若いサラリーマンが顔を出した。
「いらっしゃいませ」
「よっ」
「あら、まぁ」
見覚えのある鶴が舞い降りた。
「あら、|源文《もとふみ》。店に顔出すなんて珍しいわね」
「あーーー、ぶんぶん虫が飛んでいないか確認しに来たんだよ」
「ぶ、ぶんぶん」
由宇の一人息子である源文は、色欲丸出しの権蔵と笹谷を忌み嫌って居た。いくら財産や地位があれど60代の狸と狐を「お父さん」と呼ぶなど以ての外だった。
「も、源文くん、就職おめでとう」
「あざーす」
「外資系企業だってね、凄いじゃないか」
「あざーす」
源文の冷めた目で睨み付けられた権蔵と笹谷は「飲み直すぞ、由宇さんまたな」と10,000円札をカウンターに置いて慌ただしく出て行った。その2人が出て行くと入れ違いに残念すぎる鶴が簾暖簾を手で開けた。
「あら、やっぱり嵐山さん」
「はい?」
「なに、母ちゃん嵐山さんと知り合いなの、客?」
「いや、私はこの店は初めてですがどちらかでお会いしましたでしょうか」
由宇は茶色の婚姻届を握り締め自動扉のガラス戸にくちばしをぶつけた鶴を想像して吹き出しそうになるのをグッと堪えた。すると嵐山は丁寧に深々と頭を下げた。
「私、息子さんの上司をやらせて頂いています嵐山龍馬と申します」
つられて由宇も深々とお辞儀をした。
「私、息子の母親をやらせて頂いています結城由宇と申します」
鶴は源文の上司で営業部の部長だと言った。濃灰に深紅のネクタイ、間近に見れば見るほど見惚れる顔立ちをしていた。職業柄、稀にテレビ番組の取材を受ける事もあるが芸能人にも劣らない雰囲気を醸し出していた。
「さぁさ、立ち話もなんですからお座り下さい」
「はい」
「源文も座って、呑めるんでしょう」
源文は椅子を引くと座面を叩いた。
「部長、金曜の夜ですから景気良くいきましょう!」
「そうだな、私もそんな気分だ」
「そうなんすか」
「そうなんです」
由宇はそれはそうよねと悪戯心でお銚子を注いだ。
「あら、嵐山さんご結婚は?」
嵐山龍馬は熱燗を口から噴き出すと慌てておしぼりで口とカウンターを拭き始めた。事情を知らない源文は黙々とビールを手酌で呑んでいた。由宇が新しいおしぼりを手渡すと顔を赤らめた嵐山龍馬は左手の薬指を隠した。
「つ、妻が1人います」
「嵐山さんのお家は一夫多妻制なんですか?」
「い、いえそういう訳ではなく」
「色々とお有りの様ですね」
「い、いえそういう訳ではなく」
しどろもどろに答える嵐山龍馬の姿に|堪《こら》える事が出来なくなった由宇は笑みを溢した。その笑顔に釘付けになった嵐山龍馬の口から思いも寄らぬ言葉が転げ出た。
「美しい」
源文はビールを盛大に噴き出した。
普段の業務では寡黙、そして何事にも手厳しい上司が女性に対し真顔で「美しい」とのたもうた。しかもその相手が実の母親に対してとなれば|源文《もとふみ》的にはむず痒くて仕方がなかった。隣を見遣ると惚けた面差しの上司が母親を見上げている。
(ど、どっひゃーー!)
しかも母親も満更ではない面差しで上司に微笑み返している。かなり良い雰囲気で母親の第2の人生を|慮《おもんばか》った源文はビールのグラスをカウンターに置き静かに椅子から降りた。
(この際不倫でも構わねえ!母ちゃん部長に大事にして貰えよ!)
「か、母ちゃん」
「なに?」
「俺、用事が出来たから部長の事頼むわ」
「頼む?」
「そいつ滅茶苦茶、酒弱ぇから」
「えっ!」
そういえば店に入って来た時よりも頬は赤らみ瞼が|蕩《とろ》けていた。まぁ、なんとかなるわと引き受けたものの嵐山龍馬は泣き上戸だった。
「で、それでですね!」
「はいはい」
鶴があまりに泣きじゃくるので由宇は仕方なく店の暖簾を下げ準備中の看板を掲げた。店の外では「なんでぇ、休みじゃん」と若い群れが引き返して行った。
「それで、如何なさったんですか?」
由宇は嵐山龍馬の隣に座ると背中を|摩《さす》った。話の流れでは自分は2度離婚している(2度目は離婚届提出待ち)が離婚を切り出された理由が分からない、自分は人間関係の構築が出来ない欠点だらけの人間なのだとおしぼりで鼻をかんだ。
「嵐山さんは部長さんで管理職をなさっているんでしょう?」
「はい」
「お勤めをされているんですもの大丈夫ですよ」
「そうでしょうか」
「源文も素晴らしい上司の方が居ると喜んでいましたよ」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
由宇がその頭を撫でていると驚きの事実が判明した。嵐山龍馬は南町に本社を構える嵐山ホールディングスの後継だという。
「あの、嵐山」
嵐山ホールディングスは金沢駅周辺の企業の株を何社も保有している。
「あの、嵐山ですか」
「はい」
鶴は祖父の偉業や遣り手の父親の実績を|事細《ことこまか》かに並べた挙句、自分は後を継ぎたくない「嫌だ嫌だ嫌だ」と子どもの様に駄々をこね始めた。
「妻ひとり管理出来ない男に代表取締役なんて務まりません」
「そんな奥様を管理するだなんて」
「私は不倫されたんですよ、管理不行き届きです」
「そうですか」
「そうです」
それは今の由宇にとっても耳の痛い話であった。
「由宇さん聞いて下さい」
「はいはい、今度はなんですか?」
次に夜の生活お悩み相談室が始まった。水商売には付き物の下品な話題、然し乍ら嵐山龍馬の悩みは切実だった。現在離婚届提出待ちの2番目の妻からはセックスが下手だと逆三行半を突き付けられたと言って泣いた。
「触る順番が同じ」
「はい、それでつまらないと言われました」
「それで」
「挿入から射精まで毎回15分間だと指摘されました」
「まぁ、奥様も細かい事」
然し乍ら由宇は内心その女性が羨ましいと思った。元夫とは源文が生まれてから23年間セックスレスでキスどころか手を繋ぐ事すら無かった。魅惑的なランジェリーを身に着けて誘った事もあったが40歳を過ぎた頃には乾き切った夫婦生活が当たり前になっていた。
「15分もあればあんな事やこんな事が出来ますよ」
「あんな事、こんな〜こんな〜こんな事とはなんでしょう」
聞けば挿入後も正常位のみだった。由宇はため息を吐いてお猪口に熱燗を注いだ。
「こんなに格好良いのに残念な人」
「ふあい?」
「お家柄も立派、高収入、高学歴ーーーあら」
日頃の鬱憤を全て吐き出した残念な鶴はカウンターに突っ伏して寝息を立て始めてしまった。
「あら、嵐山さん、寝ちゃ駄目ですよ」
「んが」
「んがじゃありません!」
その肩を揺すっても背中を叩いても大いびき。
「困った鶴ね!」
いつか起きるだろうと茶碗や鍋を洗い翌日の仕込みをし柱時計を見上げれば01:20となかなか良い時間。この時間帯を過ぎると街中からタクシーが姿を消してしまう。
「タクシー1台お願いします、はい、片町の居酒屋ゆうです、はい」
タクシーの配車を依頼し店内の電気を消す。程なくして緑色の|行燈《あんどん》が店先に着けられた。
(うーーん)
由宇は《《鶴の巣》》が何処なのかを知る由も無かった。源文にLINEメッセージを送信してみたが既読にはならなかった。
「すみません」
乗務員の手を借りて全身の力が抜けた180㎝超えの鶴をタクシーの後部座席に押し込んでビジネスバッグを中に放り込んだ。
「どちらまで」
「プラザ寺町までお願いします」
由宇は残念な鶴をお持ち帰りした。