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片町スクランブル交差点で左折したタクシーは犀川大橋の坂を緩やかに登った。再び左折して寺町大通りを東に向かう。嵐山龍馬は後部座席のシートに身を投げ出し涎を垂らして起きる気配は一向に無い。
(くっそ狭いんじゃ)
和服姿の由宇は車内の端に追いやられ窮屈な思いをしていた。それにしてもこの鶴を如何やって5階まで運べというのだ。
「あ、運転手さん、その写真館を左で」
「はい突き当たりのマンションで良いですかね」
「お願いします」
タクシー乗務員の目に今の自分たちはどう映っている事だろう。水商売の女将と泥酔したサラリーマン、|爛《ただ》れた関係だと思われても致し方無い。
(はぁ、なんでこんな事に)
乗車料金は2,000円でお釣りが来た。領収書を受け取った由宇は乗務員に5,000円札を手渡して鶴を部屋まで運んで貰えないかと手を合わせた。
「すみません」
「こちらこそあんなに頂いて、申し訳ありません」
「510号室です。こっちです」
若い乗務員は嫌な顔ひとつせずマンション最上階の由宇の部屋まで運んでくれた。
「助かりました」
「ありがとうございました」
乗務員に会釈し見下ろすと玄関先の廊下には大の字になった鶴が寝息を立てている。
(邪魔なんだよごるあ)
由宇は嵐山龍馬を跨いだ。
「鶴はそこで待っていなさい」
ここは元夫から離婚後話が出た時に《《別居するつもり》》で借りた部屋だった。|源文《もとふみ》は既に独立して独り暮らし。気晴らしのつもりで契約してみれば別居どころか離婚成立まで数ヶ月も掛からなかった。お陰で悠々自適の第2の人生。
(寂しすぎる)
帯を解き着物を脱ぎ|肌襦袢《はだじゅばん》になったところで背後に気配を感じた。(鶴が起きたのか)貞操の危険を感じながら振り返ると嵐山龍馬はネクタイを解きスーツを脱ぎ始めた。なにやら探しているので試しにハンガーを手渡してみたらスラックスも脱ぎ丁寧に吊り下げている。
(シワも伸ばすのね)
確かに几帳面で生真面目、店で泣きながら愚痴を溢していた事が嘘では無い事が証明された。そこで室内を徘徊し始めたのでトイレの扉を開けると威勢よく尿を足す音が聞こえて来た。
(流石に風呂は無理よね)
水を流す音に続いてゴンゴンとなにかを打ち付ける音がした。扉を開けると出入り口が分からず頭と壁が仲良しになっていた。
「あーーー!もう!」
由宇は寝室の扉を開けるとクィーンサイズのベッドに鶴を放り込み足裏で蹴り壁側へと押し遣った。朝から店の準備をし、市役所に離婚届を提出に行き、店を切り盛りして鶴をベッドに運ぶこの重労働。疲労困憊の由宇はシャワーを済ませると嵐山龍馬の隣に潜り込んだ。
(あーーーあったかい)
久方振りに背中に感じる人肌の温もり、意識は泥に沈み込むように遠のいていった。
穏やかな朝の日差しの中、嵐山龍馬は左肩に感じる温もりと鼻先をくすぐる薔薇の香に|微睡《まどろ》みながら心地よい幸せを感じていた。
(こんなに穏やかな朝を迎えたのは久し振りだ、薔薇の香か)
ただ、嵐山龍馬の1番目の妻が好んで身に着けたオードパルファムは爽やかな柑橘系、2番目(現在離婚届提出待ち)の妻は淫靡な女性を思わせる白檀の香だった。
(薔薇、薔薇、ばーーら)
落ち着いた甘さの中に感じるほろ苦さ、この懐かしい香は早くに亡くした母親のワードローブを思い起こさせた。
(薔薇、だと!?)
然し乍ら自身の秘書や周囲の女性(男性含む)でこの香を身に着ける人物に心当たりが無かった。目を見開くとぼんやりと天井が見えた。いつもの銀縁眼鏡を手探りで探してみたが定位置にそれは無く見覚えのないiPhoneがあった。
(ペールピンク、じょ、女性か)
隣に横たわる温もりは柔らかな肉付きで頬に掛かる髪の毛は絹糸の長い黒髪だった。
(こ、これは確実に女性、そして此処は私の部屋では無いーーー!)
視線を動かすと無垢材の優しげな家具、観葉植物が空調に葉を揺らしていた。心臓が跳ね、血管を血が逆流している様な感覚に陥った。けれど今はその動揺さえ隣に寝ている女性に悟られてはならない。
(な、何故こうなった、何故!)
嵐山龍馬は記憶を手繰り寄せた。
市役所に行き提出した書類が離婚届ではなく婚姻届だと言われ腹が立った → 苦虫を潰した顔で会社に戻ると呑気な部下に飲みに誘われた → 呑気な部下の母親の店に連れて行かれた → (イマココ)
(今、此処とはーーまさか|結城《部下》の母親と!?)
離婚届が未提出である自分は妻帯者、妻帯者である身で部下の母親と一夜を共にする事など許される行為ではない。手に汗を握った。
「ふーーー不倫じゃないか、しかもW不倫ーーーっ!」
その叫び声で由宇が目を覚ました。由宇は片肘を突いて半身を起こすと嵐山龍馬へと振り向いた。白く細い手が長い髪を掻き上げ、伏目がちな瞳の物憂げな表情、キャミソールから覗く白い乳房、乳首の陰影、嵐山龍馬はその仕草全てに釘付けになった。
(うっ、ド直球でストライクでバッターアウトの好みのタイプ!)
意図せず嵐山龍馬の股間は熱を持ち起立した。形状の変化に気付いた由宇は悪戯心でそれを優しく撫でて耳元で囁いた。
「これが15分間」
「なっ、何故それを!」
「あら、《《昨夜ピーーーーーされた》》じゃないですか」
「ピーーーーってなんですか!」
「うふふふ」
嵐山龍馬はベッドから飛び起きると慌ててワイシャツを羽織りスラックスを穿いた。スーツを腕にビジネスバッグとネクタイを手に深々と頭を下げた。
「15分間で申し訳ありませんでした!」
「ーーーはぁ」
「この件に関しましては後日お詫びに伺います!」
「まぁそんなご丁寧に」
「失礼致します!」
撫で付けた髪はバラバラと崩れ、慌てふためき革靴ですっ転んだ。由宇が玄関先まで見送ると急いでいる割に悲しい男の|性《さが》か足の爪先から頭の天辺まで凝視して玄関の扉を閉めた。
「あらら、15分間お試ししちゃったと勘違いしたのね」
由宇は第2の人生がちょっとだけ(かなり)楽しくなった。
寺町大通りに出ると丁度良い具合に流しのタクシーが通り掛かった。右手を挙げるとタクシーは背後を確認し道路を回転、反対車線の嵐山龍馬の前に乗り付けた。
「悪いが|南町《みなみちょう》、|尾山神社《おやまじんじゃ》の通りのマンションまで頼む」
「南町レジデンスで宜しいですか」
「あぁ、頼む。支払いはチケットで」
タクシー乗務員との遣り取りはそれなりの身分だが如何せん風体が宜しくない。乱れた頭髪、目の下のくま、薄らと生えた髭、皺だらけのワイシャツ、昨夜の出来事が見て取れる様な有り様だった。
(あの建物だな、うん)
寺町交差点を|下菊橋《しもぎくばし》へと続く下りの急勾配。後部座席の窓から仰ぎ見るとあの女性が住むマンションが目視出来た。あまりに慌てていた為に名前を尋ねる事も表札を確認する事も失念していた。
「あれはーーー誰なんだ」
「はい?なにか仰いましたか?この道で良いんですよね」
「ああ、失敬。このまま行ってくれ」
ところがタクシーを降車する際、左手首にある筈のステンレススチールの腕時計が無い事に気が付いた。それは祖父から譲り受けたパテックフィリップのノーチラス、自身では到底手が出ない一生物の腕時計だった。
(こっ、これはお祖父様になんと申し開きをすれば良いのだ!)
昨夜の失態からの時計の紛失、しかも離婚届ではなく婚姻届と泣きっ面に蜂、嵐山龍馬はベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
(だが)
然し乍らあの女性はまさに理想、《《もう一度》》お願いしたいと股間がむずむずと落ち着かない。酩酊状態で15分保つことが出来たのだろうか、いや、15分とあの女性は言っていた。
「ーーーまさか時計で測ったのか!」
いやいやそんな筈は無い。首を左右に振りながら2番目の妻にLINEメッセージを送信した。
<もう一度会いたい>
既読
そのメッセージに返信は無かった。
「既読無視かよごるあ!」
その後数回にわたりメッセージを送信しているうちに既読すら付かなくなってしまった。まさかのLINEブロック、慌てて携帯電話を握ってみれば(只今、この電話番号はお繋ぎ出来ません)と機械的なメッセージが繰り返された。
「ーーーえ、なに、これはどうすべきなのだ」
薄茶色の婚姻届はゴミ箱の中、嵐山龍馬はもういちどベッドに倒れ込んだ。