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第1話
目が覚めた私は、豪奢かつしっかりした造りのベッドの上でガタガタ震えていた。夢を見たのだ。私がまだ、生きていた頃の夢。
日本で生まれ、刑事『白崎萌香』として人生を終えた私は、生前に友人から勧められて一度だけプレイしたゲーム、『暁のアネモネ』の登場人物として異世界転生していた。
『暁のアネモネ』はいわゆる乙女ゲームだ。異国出身のヒロインが、ひょんなことからやんごとない身分の者たちが通う寄宿学校に編入し、攻略対象と呼ばれる男性たちと絆を深めて愛を育んでゆくというストーリーである。
ヒロインは一見ごく普通の少女なうえに裕福というわけでもないので、学園にやって来た当初は誰からも相手にされない。しかし己の血筋由来の異能力を用いて他の生徒たちの手助けをしていくうちに、攻略対象の心も少しずつ動かしてゆくのだ。
中でも特に酷い役どころだったのが、私が転生した悪役令嬢、アドリアナ・グラジオラスである。
彼女はメイン攻略対象のひとり、ロレンツォ第三王子の婚約者でありながら、性格は最悪。学園でも格下中の格下な家柄出身であるヒロインを見下し、あらゆる嫌がらせをする悪役なのだ。
おまけにゲームのシナリオ終盤で、アドリアナはロレンツォから婚約破棄をされた腹いせとして学園に封じられていた恐ろしい魔獣を解き放ってしまい、無惨に食い殺される運命にある。
私はそのアドリアナ・グラジオラスに転生していた。
部屋の鏡を見れば銀色の髪に青い瞳、白磁の肌を持つ美しい少女がいる。このゲームの世界においては珍しくもないカラーリングだが、これが自分の髪の毛であり眼球であることに驚くばかりだ。自分の顔をあちこち手で触っていると、じっとりとした目でこちらを見る赤毛の少女の姿が背後に映った。
「アディ……? 何をしているの……?」
「あ、ぶ、ブリジット。違うのよこれは……その、夢見が悪かったもので肌のコンディションが、ええと、その……」
「アディ」
ブリジット・エランティス。ゲームではアドリアナの幼馴染かつ取り巻きのひとりで、侯爵令嬢だ。燃えるような赤い髪をシニヨンに結い上げ、髪と同じ色の眉を持つ彼女は、振り向いた私の頬にそっと手を当ててくる。
「確かに少し顔色が悪いみたいね。昨夜も何だかうなされていたようだし、悪い夢でも見たのかしら」
「ええ、少し昔の夢を見たもので……。でも大丈夫よ。心配かけてごめんなさい」
寄宿舎の同室であるブリジットは、謝る私を見て衝撃を受けたかのように固まった。
「あなたが……私に謝るだなんて……」
「あ」
そうだ、今の私はアドリアナ・グラジオラスなのだった。普段は気が強く威張り散らしているような悪役令嬢が、しおらしく謝る姿にブリジットは衝撃を受けたようだ。
「もしかして、悪い夢にうなされた影響で思わず謝ってしまったのかしら。だとしたら少し……いえ、とても可愛らしいのだけど……」
「う、うるさいわね! そんなんじゃないわ!」
慌てて取り繕うと、彼女はクスクスと笑った。
「珍しいこともあるものね。今は暖かい季節だけど、今夜は雪が降るかも」
「そんな訳ないでしょ! 着替えたら朝食に行くから、あなたは先に食堂へ行っててちょうだい」
「ええ。それじゃあ先に行って待ってるわ、アディ」
制服のスカートを軽やかにひらめかせ、ブリジットは部屋を出る。私も彼女の後を追うように、寝間着から制服に着替えて食堂へと向かった。
この寄宿学校、聖サリエール学園に通う生徒たちは男女で寮が分かれており、女子は学校のある敷地の東側に位置する女子寮で、男子は西側の男子寮で暮らすことになっている。
食堂には三十人ほどが座れる長いテーブルがいくつか設置されており、寄宿生たちはそれぞれ食事を取りながら今日の授業のことやら話題の本の話などを和気あいあいと語り合っていた。
「あら? アディ、今日は朝からずいぶんと食欲があるのね」
「え? ああ、そ、そうね」
焼き立てのパンをこんもりとお皿に盛って席に着くと、ブリジットがまたもや目を丸くしながら声をかけてきた。
「いつも朝はスープを軽く飲むぐらいで、パンなんて滅多に口にしないじゃない」
「そうだったかしら? 今日は何だかお腹がすいているのよ」
私は誤魔化すように、バターの風味豊かなロールパンを口いっぱいに頬張る。どうやらアドリアナは少食気味だったらしい。しかし今の『アドリアナ』は荒くれたちと拳で語り合うことを好んでいた元刑事であり、貴族の令嬢として手塩にかけて育てられてきた、高貴で気品あるお嬢様ではないのだ。
「そういえば今日から新入生が……。アディ、それ本当に食べ切れるの?」
「ええ、もちろん。へーきへーき」
スクランブルエッグをかき込みベーコンにかじりつく私を見るブリジットの顔が、少々ひきつっている気がしなくもない。とはいえこの「食える時に食っておけ」という精神は刑事時代に私が尊敬する先輩方から叩き込まれたものだから、これについては仕方がない。
「あら、アドリアナ様とブリジット様よ」
「まあ今日もお美し……アドリアナ様、あんなに食欲旺盛な方だったかしら?」
若干ざわついている同級生たちを横目にポタージュスープを喉へ流し込みつつ、私はブリジットに尋ねる。
「それで、新入生がどうしたのかしら?」
「ああ、そうだったわね。何でも、東洋の出身の娘が今年の新入生の中にいるそうなのよ。どうやら身内の伝手を頼って学園へやって来たと聞いたのだけど」
言われてみれば確かに『暁のアネモネ』のヒロイン、リタ・グレイン・スドウもとい須藤リタは東洋人の血筋という設定だ。若い身空で両親を亡くし、親族間をたらい回しにされた挙げ句、見かねた遠縁の親戚夫婦によって引き取られこの学園にやってきたというシナリオである。
よく思い返してみれば、なかなかに苦労の絶えない少女だ。まだ十代も半ばだというのに。
「苦労しているのね、彼女……」
「あら。アディのことだから、『まあ可哀想に。我が校の制服代を支払う財力程度はあるのかしら』ぐらい言うと思ったけれど」
あ、と私は口を抑える。転生前の記憶を思い出すまでは悪役令嬢アドリアナ・グラジオラスとして生きていたから、周囲の人間も私のことを『そういう存在』として扱おうとしているのだ。
下手に動いてゲームのシナリオを変えることになってしまっても面倒くさそうだ。ひとまず私はこれまで通りのアドリアナらしく振る舞っておくことに決めた。
「そうね、ちょっと今日は体調が悪いみたいだわ」
「……うん、そう。体調、体調ね……」
積み上げられた空の皿を何とも言えない眼差しで見つつ、ブリジットは呟く。
「食欲があるなら、きっとすぐに回復するわよ……。たぶん……」