テラーノベル
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一人の娘が足をもつれさせ、濡れた地面に顔から倒れこむ。水面はただ歩くことさえ人並み以下なのだ。
目敏い者の視線も遮る深い森の奥、底の見えない濁った沼の辺りで力尽きて膝をつく。粗野な部族の女ゆえに身につけた衣の殆どは獣の皮を剥いだもので、しかし長の娘であるが故に祝福を授かった貴い珠玉と磨き抜かれた魔除けの青銅鏡で身を飾り立てている。
「滝壺兄様ならばこれしきの距離で力尽きることはなかっただろう」
顔を拭いながら呟いて、ムナは這うように沼の水面を覗き込む。が、そこには何も映らない。ただ水の中の泥や塵がゆっくりと渦巻いている。
「まるで私の魂のような濁った沼だ。これでは才など見つかるまい。あるいは初めから無いのか」
その言葉に応えるように沼の底から不気味な泡が上ってくる。
「才無き者などいないさ」
ムナは驚き、のけぞるが、退くには体力を使い果たしていた。
沼の泡が慌てて呼び止める。「待ち給え。ずっと君を待っていたのだ。どうか行かないでくれ」
あちらに何もできそうにないと知るとムナは暴れ馬を宥めるように――上手くできたことはないが――、心を落ち着かせる。そして未だ無垢な幼子だった頃の自分に対する姉のように、沼の声に真摯に耳を傾ける。
「一体何者だ? 沼の底で何をしている?」
「我が名は磨く者。原石と研磨を愛する者。秘められた光を解き放つ者。自身の事情というのが私自身にも分からない。気がつけばこの濁った水底にあったのだ。だが身動きがとれない。何か、重い何かが乗っているのだ。どうか私を見つけてはくれないか」
分かったようで何もわからない。罠ではないだろうか、とムナは考える。
「何故黙っている? 何か言ってくれ。恩は必ず返す。頼む。そう深くはないんだ。時折、強い陽光の差す日には魚たちの静かな日には光がよく見えた。遮りの向こうの光。私の楽しみはずっとそれくらいしかなかった。子供の腕でも届くくらいのはずだ」
「分かった。試してみよう」
「ありがとう。恩に着る」
罠かもしれないが、罠でも構うものか。ムナにはもはや守るべきものはほとんどなかった。唯一残った命も使い道がなくては意味がない。
おそるおそる沼へと近づき、手をのばす。濁った水面にはぬめりがあり、水中には清らかな水とは違う抵抗があった。冷たくも温かくもない。伸ばした手はすぐに水底にたどり着き、柔らかな泥か何かをかき混ぜる。ムナはそのようなものに触れたことがなかった。故郷にあってはやんごとなき身分の、土汚れを知らない女だった。
何か硬くて冷たいものに触れる。岩のようだ。端に引っかかりを見つけるが、掴めそうにはない。反対の端も探るが同じだ。意を決して両腕を突っ込み、岩を持ち上げようと踏ん張る。濁った水面を嫌がって顔をそむけたその時、重心が崩れてムナは勢いよく沼に落ちてしまった。見慣れぬ訪問者の前で息を潜めていた沼は溺れまいと暴れるムナに激しく掻き乱される。
惨めな思いにムナの心も掻き乱される。悪態の一つも思い浮かばないのは幸いに満ちた人生が故だ。
マグファンが心配そうに声をかける。「大丈夫か? 直ぐ真下だ。私に乗っている何かが重くなった。踏んづけているんじゃないか?」
乱れた髪も泥水を吸った服も全て捨て去ってしまいたかったが、まずは改めて岩を持ち上げる。完全には持ち上がらないが傾いた岩の隙間から何者かが這い出てきて陸に上がった。
それは薄汚れた紙切れを身に纏った蜥蜴の骨のようだった。しかし手足が生えていることを除けば魚に見える。それがマグファンだ。
「ああ、酷い有様だな。だが本当にありがとう」マグファンが駆け寄ってきて赤ん坊よりも小さな手を差し伸べるが、ムナは気にせず沼を上がる。「まずはそうだな。火に当たろうか。恩返しはその後だ。何かできるといいのだが」
弟に習得を先んじられた火付けは今なお上手くやれなかったが、日が沈むまでには間に合った。
「そういうわけで優秀な兄姉弟妹と違い、私には才能というものが何一つなかったのだ」燃え盛る焚火の奥にムナは華やかで惨めな過去を見つめる。「剣術、弓術、馬術、狩猟、機織り、煮炊き、酒造り、器作り。祖から伝えられてきたあらゆる業が私の血には流れていなかった」
鑢を握る鯰の描かれた花の形の札を外衣の如く翻す小さなマグファンは体全体で話すように大袈裟に動き回る。「君は指導者の家系なのかね? にしては色々な仕事を担っているのだな」
「ああ、長の娘だった。何であれ長の血に連なる者は部族の生業に責任を持たねばならない。責任を持てぬならば長の血に連なっていないも同然だ」
「それで追放か」
ムナは心臓に杭を打ち込まれたような衝撃を受ける。追放ではなく、才能を探してくるのだ、と父には命じられた。だが、マグファンの言う通りだ。才能が見つけられなければ実質追放であり、そして父も母も兄弟姉妹たちの誰も、ムナが才能を見出してくるとは思っていなかった。
涙は堪えるまでもなく、焚火の熱が乾かした。嗚咽を飲み込み、死を想う。
「ううむ。そうか。才能が……」マグファンは何かを言い淀んでいるが、ムナは促すことなく話すのを待つ。「才能と聞いた時、まさに私の出番だと思った。すぐにでも恩を返せるぞ、と。というのも私には初めから備わった力が、魔法がいくつかある。その一つが、秘められた才能を見抜くことなのだ」
才無き娘ムナがマグファンの言葉と数奇な運命に驚き、幸福へと続く可能性の手を取ろうと顔を上げたが、そう上手くはいかないらしいことがその小魚の骨の様子から見て取れた。
「いや、済まない」マグファンは小さな体で精いっぱい申し訳なさを表現している。「傷ついた宝石を叩き割るようなものだが、正直に話そう。やはり君には才能というものがないようだ。少なくとも話を聞く限り、君の家族が納得できるような原石は見当たらない。本当に済まない」
ムナは再びやり場のない視線を焚火に向け、両腕に溢れて持ちきれない絶望を焚べる。
ムナは何とか感情の色を帯びないように話す。「気にするな。お前が謝ることではない。それに分かっていたことだ。いや、お前のような力ある存在にすら見いだせないほどとは思ってもみなかったが」
「うむ。見つけて、そして磨いてやることで恩返しとしたかったのだが……」
再びマグファンは言い淀むが今度はムナも先を促す。「思ったことを何でも言ってくれ。どん底だが、どん底の景色くらいは知っておきたいものだ」
「……ああ、正直に話すと人並みに達する才能というものが何も見つからない」
ムナは思わず吹き出す。想像以上に無才の人間だったらしい。そのような人間がこの世にいるとは思いもよらなかった。誰しも何かの才能を秘めていて、だが見つからないこともある、そういうものだと思っていた。わずかな希望すらない。何も沈んでいない底なし沼。原石ではなく、ただの石ころ。
「むしろ気楽になったよ。それが本当なら無駄に探し続ける人生よりはましさ」マグファンが気まずそうにしていることに気づいてムナは少しからかう。「だがどうする? まだ恩返しはしてもらっていないぞ」
小魚の骨のマグファンはこくこくと頷き、そして踊るように話す。「一つ考えていたんだ。いや、ずっと考えていた。沼の底で自分の存在する意味を。ある意味では君の部族と同じ考えだ。つまり持って生まれた力を世のために使いたい」
「才能を見出す力か?」
「他にもある」
「羨ましいことだ」
「すまない」
「冗談だ。私のことは気にするな。話が進まない。続けろ」
「ああ、見出す力はむしろおまけだ。私は磨く者だ。才能と宝石を磨く」
「宝石も? 比喩ではなく?」
「ああ、宝石も磨くし、鏡も磨く。丁度いい。君の身に着けているものを貸したまえ」
マグファンの言う通りに、珠と鏡を手渡す。妹の身を飾るそれよりも格の落ちる品々ではあるが、母から譲り受けた大切な品々だ。既に十分に磨かれていて、焚火の光に照り映えている。
しかしアルダニに伝わる夜空を照らす月光への感謝の歌と翡翠の都水非ずを羨む小鬼の一族の呪いを混ぜ合わせた呪文をマグファンが唱えると、珠も鏡もかつてない輝きをもたらした。
ムナは手にとって眺める。まるで生まれ変わったような輝きだ。同様にマグファンならば不思議な力で人をも輝かせるのだ、という話に信憑性が宿った。
「ありがとう。良いものを見せてもらった」
宝石と鏡を身に着けるが、その姿を映す鏡がないことに気づいてムナは苦笑いする。
何を勘違いしたのかマグファンは慌てて否定するように全身を震わせる。
「もちろん、沼の底で耐えてきた長い年月から掬い上げてくれた恩はこれくらいのことで返しきれないぞ。私が考えていたのはこれではない。私と共に人々の才能を磨かないか? 君が助手をしてくれたならとても助かる。なんせこの風体だ。まともな人々とはまともに会話できそうもない。あるいは君の体を借りることもできるのだが、恩返しで借りを作るのもなんだ」
その提案にムナの心は揺れる。本当にマグファンに才能を見出し、磨く力があるのなら余計に惨めな思いをすることになるだろう。
「マグファン。お前は立派だな」とムナは零す。
「どうしたんだ? 突然」
「確かに私はお前を救ったのかもしれないが、どうやらお前はそう簡単には死なないらしい。ならば私は恩人だとしても命の恩人ではないということだ」
「だから大袈裟だ、と? まあ分からないでもないが。君とは孤独に関する価値観に相違があるようだ」
それでもムナは、たとえ無駄な足掻きだとしても、才能を見つけたかった。不思議な存在が希望に止めを刺したとて、本心では諦めきれなかった。ならば孤独ではない方が幾らかはましだろう。それにムナは他に生きる術を思いつかなかった。
マグファンの力は本物だった。百姓の中に剣聖を見出し、兵士の中に賢者を見出し、道化の中に王を見出した。秘めたる原石をマグファンに磨かれた者は、多くの場合新たな人生に漕ぎ出した者が遭遇する嵐を、しかし乗りこなし、順風満帆の人生を手に入れていた。
ムナは助手をする中で――助手の才能もなかったが――変化し、成長し、喜びに満ちた人々との邂逅の中でささやかな幸せを感じていた。幸いのおこぼれのようなものだ。嫉妬がなかったわけではないが、たとえ手の内になくとも美しい宝石の輝きに見えることはできるのだ。
そして、抜きん出た才能がなくとも生きていくことはできるのだ、と知った。誰もが最も優秀になれるわけではないが、それでも少なくとも長の一族以外の者たちは懸命に生きていたことを思い出す。かつての、いつか才能が芽生え、導く者たる証を手にすると思い込んでいた頃のムナはそのような者たちを見下していた。今は恥じ入るばかりだ。
しかし満たされない。人生の陽だまりの中にあって片隅に影を感じた。心中の宝石がくすんでいるように思えた。頭では分かっていても、こびり付いた物の考え方は拭えない。
マグファンは財産の半分を譲ってくれさえして、ムナは十分に恩が返されたことを伝えたが、満たされないことまでも共に考えてくれた。
「やはり故郷のことではないか?」とマグファンはムナを推し測る。
その頃、美しい湖と醜い戦に溢れたハチェンタ諸国の人々に救いをもたらす賢女ムナと魔性の従者マグファンの噂は湖面を伝う波のように広がり、また二人の元へ諸国の噂が返す波のように戻ってきていた。そしてムナの故郷が他部族との戦いで疲弊していることもまた。
ムナは否む。満たされない理由など明らかだ。それは少なくとも故郷のことではない。
「気にはならないのか?」
ある部族に身を寄せて、借り受けた立派な石の家屋の日当たりの良い庭で午睡をしていた時、マグファンが気遣わしげに尋ねてきた。
「ならないわけではないが、知っているだろう? 私が役に立つことなどない」
「だが、諸国の戦は熾烈を極めている。ハチェンタ統一を掲げる者たち、湖の外から死肉を狙う鬣犬ども、血の繋がりも言葉の共有も空しく、血と命乞いが枯れるまで滅ぼし合っている」
「恩返しはもう果たしたのか?」
「そういうことじゃない。長い間、あの土地に寄り付こうともしなかったが、今もなお君が家族のことを想っていることを私は知っている。君の悲しむ顔を見たくないだけだ」
「まあ、もう少し様子を見よう。噂は絶えず流れてくる」
部族の支配域は大幅に狭まっていた。幾つかの湖と土地を失い、人口は半減したことをムナは知った。ハチェンタにあっては古く輝く血を繋ぐ有力な部族だったが他部族もまた力をつけていた。秘められた才能を磨いていた。
その頃、二人はまた新たな土地で、しかし比べてムナの故郷に近い土地で人々を活かしていた。その日最後の依頼に応え、届けられた食事を机に並べていた。
「すまない。考えなしだった。私の力がこれほどに世を変えるとは。なぜ思いもよらなかったのだろう。才能は力だ。どんな才能も仕事も諸部族を増強させるというのに」
「気にするな。想像以上ではあったが、私があの土地を厭って寄り付かなかったために不均衡が生まれたのだ」
今や感謝と報酬は高く積み上げられ、ムナの幼い頃以上の生活が可能になっていた。しかし物質的に満たされてしまえば、かえってムナもマグファンも即物的な欲が鳴りを潜め、ただひたすらに人々の幸いをもたらすことを、漁師と優しき者共の長たる神に与えられた使命と考えて活動していた。
「ならなぜ笑みを浮かべている?」
ムナははっと気づいて、あいかわらず小魚の骨のマグファンの方に目を向ける。小さな魔性は机の上でムナを見上げていた。
「まさかとは思うが――」
「断じて違う。私もこんなことになるとは思っていなかった。確かに苦汁を舐めさせられてはいたが、原因は才能なき私にあるのだから」
復讐心など無かった。しかしそれは積極的に何かしようとは思っていなかった、という意味だ。あるいは憎しみはあったのかもしれない。ムナは己の心の内を探る。その不幸を喜ぶような心の濁りはあったのかもしれない。いつか自身を嘲笑した家族たちを見返してやりたいという思いが。
「ならば」ムナは慎重に言葉を選ぶ。「我が故郷を救おう。戦を終わらせよう。手伝ってくれるか? それで恩返しを果たしたものとしよう」
「均衡を取り戻すのだな。良いだろう」
マグファンに出会ってから上手くやってこれた、とムナは自負する。
「それこそが私の才能ではないだろうか」とムナは呟く。
「何?」
「才能を見つけたんだ。私の才能を」
「いや、だが……」
マグファンはじっとムナを見つめるがそれ以上は何も口にしない。
故郷の人々はムナの顔を見るなり、恐れ慄いた。英雄を仕立て上げる賢女の噂。ムナの故郷には決してやってこない賢女の噂。その賢女とはムナであるらしいという噂。その賢女の意図を部族の者たちは妄想し、心の内の僅かな罪悪感を膨れ上がらせていた。
類を見ない宝飾品を身に纏ったムナが部族の支配域に踏み入ると戦士たちは剣を放り投げ、ムナが集落の環濠を踏み越えると長の血に連なる者たちは泣いて許しを乞う。部族の罪悪感は共鳴し合い、怪物のように牙を剥いている。ムナの鍛え上げた英雄が暗がりから飛び出してくるのでは、と怯えている。
そしてムナが屋敷の敷居を跨ぐと兄弟姉妹が頭を垂れ、父母がその高き座を譲った。
「私は信じていたわ!」と母が叫ぶ。「貴方がきっと才能を見出すと!」
「試練がお前を強くしたのだ!」と父が喚く。「我らのことも信じてくれ!」
ムナを仰ぎ、恐怖に揺れる無数の視線を浴びて、ムナは暗い喜びに浸っていた。そのどろりとした濁った沼のような感情に心の片隅の足りない部分が埋められた。
「ええ、信じましょう」ムナは高き座に腰掛け、部族を睥睨する。「ですから私のことを信じ、私の才能を恐れなさい。才能の中の才能を、才能を磨き上げる才能を畏れなさい。全ての敵を放逐し、我が部族に永久の繁栄をもたらす日まで」
ムナの心の中で叫ぶ者がいたが、ムナに届くことはなかった。
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