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時也の声は風に溶け込むように柔らかく
静かだった。
それは決して、慰めでも、励ましでもない。
ただ、真っ直ぐな信頼と
未来を託す言葉だった。
「貴方の想いは、きっとこれから
たくさんの方を救えるでしょう」
その言葉に、男の肩が僅かに揺れた。
胸奥のどこかに埋もれていた
〝誰かの役に立ちたかった〟という
かつての願いが
静かに呼び覚まされていく。
傷ついた記憶の上に、ほんの少しずつ──
新たな希望が
温かく降り積もり始めていた。
「⋯⋯ふむ。
心の声にも、問題はありません。
この方の拘束を解いても良いでしょう」
淡く瞬いた瞳を細めながら
時也は静かに頷く。
その声音には、僅かな安堵と
まだ残る警戒の余韻が滲んでいた。
ソーレンが膝を折って縄を解くと
男は戸惑いながらも深く頭を下げた。
かつては銃を構え
命令のままに喫茶 桜を追い詰めた兵。
だが今、その顔に浮かぶのは
清らかな悔悟と、再起の意志だけだった。
続いて
他の者達も次々と目を覚まし始める。
時也は一人ひとりの目を見て
呼吸を合わせ、心に耳を澄ませていく。
苦しみ、迷い
己の正義を見失っていた記憶──
それを乗り越えようとする声が
皆の心の奥から静かに響いていた。
「⋯⋯こちらの方も、問題ありません。
拘束を解いて差し上げてください」
「こいつも大丈夫か⋯⋯おう、次」
繰り返される確認と解放。
そのたびに
あの重苦しい空気が
わずかずつ晴れていった。
最後の一人まで見届けた時
時也とソーレンは、ほぼ同時に息を吐く。
それは
胸の奥に溜めていた濁りのような疲労を
解き放つような
深く長い吐息だった。
「凄いですね。アラインさんの異能⋯⋯」
その声に
アラインはくつくつと喉を鳴らし、笑った。
「ありがと。
初めてにしては、なかなかでしょ?」
軽やかにそう言いながらも
口元には不思議な陰が差していた。
だが誰も、それを咎めることはなかった。
今は、ただ。
この〝新たな始まり〟を信じたいと──
全員が、そう思っていた。
⸻
「じゃ、暗くならないうちに
全員を連れて出発しようか!
手早く済ませて
ボクはバーを営業させなきゃだしね」
アラインは
日の傾き始めた西の空を仰ぎ見ながら
陽気に笑った。
白めいた雲が長く尾を引き
朱色に染まる空の下で
その姿は奇妙なほど軽やかだった。
彼の背後には
先ほどまで喫茶桜を取り囲んでいた
武装集団の面影はなく
すっかり〝慈善活動団体〟として
記憶を書き換えられた男たちが
整然と並んでいる。
その制服すら
どこか品があるように錯覚させる
不思議な静けさ。
「本当に、おひとりで行かれるのですか?」
時也の問いは
穏やかな声音に微かに湿り気を帯びていた。
その音に
アラインは片眉を上げてこちらを振り向くと
にんまりと唇を吊り上げた。
「なぁに?
そんなに心配してくれるの?
時也は、ボクが好きだねぇ?」
「僕が好きなのは、アリアさんだけです」
即答だった。
躊躇も曖昧さもない、そのあまりの早さに
ソーレンが「ぷっ」と短く吹き出した。
咄嗟に手で口元を隠したものの
肩の震えが全てを物語っていた。
「ですが⋯⋯どうか、お気を付けて」
微笑みを保ちながら
時也の声音は変わらず誠実だった。
だが、その瞳に宿る翳りは隠しきれず
心の底に蠢く警戒と不安を滲ませていた。
その視線を愉しむように
アラインは一歩進み出て
時也の目前に立つ。
「ふふ。
じゃ、人質であるボクを縛ってくれる?」
「⋯⋯え?」
「外しやすいように、優しくね?」
その声色はどこまでも艶を含み
挑発のようでも、懇願のようでもあった。
芝居じみた仕草で両腕を差し出す姿は
まるで舞台の上で誰かを惑わせる道化。
ソーレンが横目にその姿を見やりながら
肩を竦める。
「おいおい
人質のくせにやけに嬉しそうだな?」
「だって
キミの力加減だと解けなさそうでしょ?
なら、時也を選ぶよ。
でも、さっきみたいに⋯⋯
首は締めないでよね?」
「⋯⋯はぁ」
再び短く息を吐くと
時也は地面に落ちていた一本のロープを
静かに拾い上げた。
淡く夕陽が射すその手の動きは
まるで儀式のように慎重で、繊細で──
けれど、その指先には
言葉にされぬ〝感情〟の残滓が
確かにあった。
「じゃあね、時也。また遊びに来るよ!」
男達と出発したアラインの後ろ姿が
夕暮れの街角に溶けていく。
その背を見送っていたソーレンが
不意に眉を顰めた。
「⋯⋯⋯あ。
店、レイチェル一人じゃねぇか?」
「わっ!急いで戻りませんと!」
⸻
慌てて喫茶桜の扉を開けると
店内は慌ただしい空気に包まれていた。
レイチェルが
カウンターと客席を行き来しながら
バタバタと切り盛りしている。
その傍では、幼子の姿の青龍が
ちらりちらりとアリアの様子を気にしながら
器用に配膳をこなしていた。
アリアはというと
変わらず店内奥の硝子張りの特設席に座り
注がれることのない空のカップを
無言で見つめている。
そんな中
レイチェルは
乱れたエプロンの紐を直しながら
こちらを睨みつけるように振り返った。
「もう!二人とも何してたのよ!
一人で店を回すのって
ほんっと大変なんだからね!?
オーダー重なって、カップ割っちゃうし
パフェのクリームこぼれちゃうし⋯⋯
あ、でもあのお客さん
トッピング多めにしたら喜んでくれたから
まぁいっか!」
「す、すみません!レイチェルさん!」
「いろいろ、こっちもバタついたんだって」
レイチェルは膨れっ面のまま
胸元のポケットから伝票を取り出しつつ
小さく呟いた。
「⋯⋯⋯後で、私を二人で
めっちゃ甘やかしてよね!
あと、時也さんは
早くアリアさんのコーヒー!」
「「はい!」」
そんな声を返しながらも
レイチェルの手は止まらない。
洗われたグラスを
布巾で丁寧に拭き上げながら
視線は既に次のオーダーに向けられていた。
伝票に目を通し
冷蔵庫の中のフルーツの在庫を確認する姿は
いつも通りのプロそのもの。
怒っているのは、たしかに本気。
けれど、戻ってきた二人の顔を見た時
ほんの少しだけ頬が緩んでしまったのも
また紛れもない本音だった。