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アラインは
両手を拘束していたロープを
まるでリボンでも解くかのように
たやすく外すと
歩みを止めることなくその場に投げ捨てた。
黒革の靴が
夕暮れに染まった石畳を
静かに踏みしめるたび
背後に連なる〝改竄済み〟の男たちが
音もなく従っていく。
彼らの顔には、緊張も警戒もない。
ただ、慈善のために尽力するという
〝善意〟の光だけが
奇妙なほど曇りなき瞳に揺れていた。
その背に夕日が落ちて
長く伸びる影が
まるで忠実な影武者のように地面を這う。
やがて、寂れた倉庫郡の一角に辿り着く。
外壁の塗装は剥がれ
鉄製のシャッターには錆が浮いているが──
その佇まいは〝欺瞞〟の仮面に過ぎない。
監視班の男が
先頭に立つアラインの姿を
モニターで認めた瞬間
咄嗟に無線に手を伸ばす。
「──監視班より
アライン様の帰還を確認!
繰り返す、アライン様の帰還を確認!」
瞬時に無線が複数のチャンネルに切り替わり
緊張した声が中枢へと伝達されていく。
拠点内の空気が、明らかに張り詰めた。
中に足を踏み入れた瞬間
表面上の欺瞞の世界は一変する。
冷気が整った空調により維持され
床はコンクリートを
樹脂で丁寧にコーティングされている。
天井からはライン状のLEDライトが連なり
無駄な影ひとつ落とさず空間を照らす。
かつて幾多の作戦が練られ
血と狂気が渦巻いた
〝フリューゲル・スナイダー〟の拠点は
今も完璧に保たれている。
そして、アラインが一歩、また一歩と
優雅に足を進めるたびに
廊下の両脇のドアが順に開かれ
中から次々と黒装束の兵たちが姿を現す。
彼らはすぐさま整列し
左右対称の見事な布陣を形成すると
アラインの動きに合わせ一斉に頭を下げた。
「──おかえりなさいませ、アライン様!」
全員が同じ調律で、同じ呼吸で声を揃える。
その姿は宗教的とも言えるほどの
狂気すら孕み
かつてのフリューゲル・スナイダーが
健在であることを、静かに物語っていた。
アラインは
その光景を目の端で確かめるように見渡し
唇の端をゆっくりと吊り上げた。
まるで舞台のセンターに立つ役者のように
わずかに顎を上げ、柔らかな声音を放つ。
「ふふ。
なんか、たった一日なのに⋯⋯
久しぶりに帰ってきた気分だよ」
懐かしさを装ったその声に
感情の起伏はほとんどない。
けれど、その双眸だけが静かに揺れていた。
この場に未だ残る
〝真実の記憶〟を確認するように。
「ボクの着替え、用意しててくれる?
10分後、ミーティングルームに全員集合ね」
そう言い残し
アラインはそのまま自らの部屋へと
歩を進める。
背後では
〝元〟ハンターの精鋭部隊達の無垢な善意と
〝現〟フリューゲル・スナイダー達の
異様な緊張感が
沈黙のなかに重なり合っていた。
そして、その拠点は──
二つの〝記憶〟が今まさに交差する
極めて危うい臨界点へと近付いていた。
⸻
廊下に足音は響かず
空気さえも静まり返っていた。
アラインの部屋には
数人のメイド達が丁寧な動作で控えている。
その身に纏っていたソーレンのシャツは
メイドたちの手で
無駄な皺も音も立てずに脱がされていく。
布の擦れる音すら艶めかしく
アラインの白い肌に触れる指先は
触れることを許された陶器を扱うように
慎重だった。
腕が抜かれ、肩があらわになるたび
アラインの黒髪がゆるやかに揺れ
艶やかに背に流れる。
新たに着せられていくのは
黒にわずかに青みを帯びた装束。
装飾は最小限に抑えられながらも
繊細な刺繍が袖口と裾に忍ばせてあり
彼の中性的な魅力を際立たせていた。
首元は緩く開き
透けるような胸元に自然と視線が誘われる。
「お着替え、終わりました」
メイドが一歩下がると
アラインはふわりと指先を上げ
制するように目を細める。
やがて
しなやかな動きで奥に置かれた椅子──
座り心地を極限まで追求した
特注の椅子に腰を落とす。
脚を組み
そのアースブルーの瞳をゆっくりと閉じた。
一瞬、空気が微かに軋み、世界が沈んだ。
⸻
──精神世界。
そこは
光の一切が届かない静謐な闇だった。
だが
足元には湖面のような
薄い水が広がっており
アラインが一歩踏み出すたび
波紋が音もなく広がっていく。
まるで空も地もなく
ただ無の中を歩いているような空間。
時間も、重力も、秩序も
すべてが〝彼〟を中心に静止している。
やがて辿り着いた中心には
一枚の巨大な鏡。
鏡面は水のように柔らかく揺れており
それを囲う額縁だけが
荘厳な金属で出来ていた。
アラインは、水面の鏡に両手と頬を寄せた。
その瞬間、水面の向こう──
同じように頬を寄せた
もう一人の存在が現れる。
ライエルだった。
静かで穏やかな気配を纏い
まるでアラインの穢れを洗い流すような
無垢な佇まい。
「やぁ、ライエル。
ほんと⋯⋯キミがアリアを怨んでないって
分かった時には、がっかりしたよ」
声には笑みが混じっていたが
その奥にある苛立ちは隠しきれない。
ライエルは瞼を伏せたまま
かすかに眉を下げる。
「⋯⋯あなたが、最後まで⋯⋯
話を聞こうとしてくれなかったから。
でも、お伝えできて⋯⋯
アリア様の憂いが
少しでも和らいだのなら⋯⋯
それだけで、私は良かったと思えるよ」
「ほんと、良い子ちゃんだねぇ。
そういうところ、キミらしいよ。
──そんなキミに
ちょっと頼みたいことがあってさ」
「⋯⋯私に?」
「うん。難しくないよ。
キミはただ〝顔〟になってくれればいいだけ」
「⋯⋯アリア様を傷つけるようなことは
したくない」
「ふふ⋯⋯
ちゃんと、キミが安心できる内容さ。
彼女のためにもなるよ?」
ライエルは、静かにアラインを見つめる。
その視線はやわらかくも
どこか不安の色を滲ませていた。
だが──
アラインはその揺れに
気付かないふりをしたまま
心の奥でひそかに呟く。
(⋯⋯傷つけるつもりはない。
だって、彼女が壊れてしまったら
〝使えない〟
アリアを掌握できれば──
転生者たちの信仰も、力も、未来も
全部ボクのものになるって
喫茶 桜を見てて気付いたからね)
(彼女は──利用価値の塊だ。
神であり、王冠だ。
キミの綺麗事で
ボクの欲望が止まるわけないじゃないか
ライエル⋯⋯)
鏡の向こう。
ライエルのまなざしは
未だ信じようとする光を帯びていた。
それがどれほど無力かを
彼が知る時は、まだ訪れていない──。