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朝。カーテン越しの光が、
ゆっくりと部屋に満ちていく。
「…。」
俺は、うっすらと目を覚ました。
——頭が、少し重い。
酒のせいか、
それとも、
昨日の出来事のせいか。
目を開けた、その瞬間。
「っ!?」
視界いっぱいに、
お七の顔があった。
「おはよう…ございます。」
穏やかな声。
「な、なに…!?」
俺は、勢いよく起き上がった。
心臓が、
一気に目を覚ます。
「び、びっくり…する!」
お七は、少しだけ、困ったように笑った。
「寝顔を
拝見…しておりました。」
「なんで…。」
「昨夜の…ことが
夢ではなかったかと。」
お七の頬は、
朝の光の中でも、
ほんのり赤い。
「唇が…。」
ぽつりと、呟く。
「まだ…
温かく思い出されて…。」
その言葉に、
胸が、ぎゅっとなった。
——ああ、やっぱり。
「ごめん…。」
俺は、布団の上で、
深く頭を下げた。
「昨日は
完全に
俺が悪い…。」
「…。」
「酔って…
理性なくして。」
言葉を探す。
「怖かった…だろ?」
しばらくの
沈黙。
それから、お七は、
静かに首を振った。
「いいえ」
俺を見る目は、
真っ直ぐだった。
「嬉しゅう…ございました。」
「え…?」
「誰かに
想われて
触れられる。」
言葉を選びながら、
続ける。
「わたくしの…
人生には
許されぬことでした…。」
——許嫁。
——決められた未来。
「だから…。」
小さく、息を吸う。
「昨夜のこと…
大切な
記憶にございます…。」
「…」
俺は、
何も言えなかった。
嬉しい。
でも、
軽く受け取っていい話じゃない。
「俺…。」
ゆっくり、言う。
「俺ちゃんと
向き合う…よ。」
「はい…。」
お七は、
微笑んだ。
ふと、
現実を思い出す。
「そういえば…。」
「?」
「家族…がさ
あと
一週間…は
帰ってこない。」
その言葉に、
空気が、少し変わった。
「長う…ございますね。」
「ああ…。」
二人きり。
朝も、昼も、夜も。
逃げ場は、
もうない。
「お七…。」
「はい…。」
「急がなくて
いい…。」
「はい…。」
「でも
誤魔化さない…。」
「はい。」
短いやり取りなのに、
そこには、
確かな約束があった。
江戸から来た女性と、
令和に生きる俺。
偶然の出会いは、
もう、
ただの同居じゃない。
これから、
一週間。
同じ時間を、
同じ屋根の下で、
どう過ごすのか。
これは、
始まったばかりの物語だ。
昼下がり。
静まり返った家の中で、
唯一、音を立てているのはテレビだった。
「よし」
俺は、
コントローラーを握りしめ、
画面に集中していた。
銃声。
足音。
画面の中で、
兵士たちが走り回る。
FPS。
いつもの、
現実逃避。
「あの…ともき様」
背後から、
控えめな声。
「ん?」
振り返ると、
お七が、少し離れたところで、
画面を見つめていた。
「それは…
何をなさっているのですか…?」
「ゲーム」
「げえむ…。」
画面に映る銃を見て、
お七は、わずかに眉をひそめる。
「戦…でございますか?」
「まあ…
戦争系だね。」
一瞬、
言うべきか迷った。
でも、
隠す必要もない。
「怖い…よね?」
「いいえ。」
お七は、
首を振る。
「ただ
不思議…で。」
画面の中で、
何度倒れても、
また立ち上がる兵士。
「死んでも…
戻って来る。」
「そう
遊び…だから。娯楽?」
「…。」
しばらく考えた後、
お七は言った。
「触って…
みてもよろしいですか?」
「え?」
一瞬、
驚いた。
「やる?」
「はい。」
コントローラーを、
両手で持つお七。
少し、
ぎこちない。
「左で…
動いて」
「はい」
「右で
視点移動。」
「こう?」
画面の視点が、
滑らかに動いた。
「あ。」
「おぉ?」
試しに、
一歩、前へ。
「おお」
足音が鳴る。
「敵が
来たら
ここで。」
俺が説明するより先に、
お七は、
自然に隠れる場所へ移動していた。
「え?」
「撃って
みます…。」
引き金。
——パン。
画面の敵が、
倒れる。
「…!?」
俺は、
思わず声を上げた。
「え…うま…。」
「今の
合っておりますか?」
「合ってる
どころじゃ…。」
お七は、
目を輝かせている。
「戦場の…
気配…
少し
分かる気が」
「え?」
「音…
動き…
間」
それは、
確かに。
奉公先で生き抜き、
浪人に追われ、
身を守ってきた感覚。
——現代のゲームでも、
通じている。
数分後。
「え…
ちょ」
画面には、
お七のスコアが表示されていた。
——俺より、上。
「嘘!?」
「勝って…
しまいました?」
「完全に抜かれた!!」
俺は、
苦笑いする。
「すげえ
才能…ある。」
お七は、
少し照れたように、
視線を落とした。
「お褒め
いただくこと
初めてで。」
ゲームを終え、
二人で並んで座る。
「戦が…
遊びに
なる世。」
「良い…
時代だと
思う?。」
「はい。」
お七は、
小さく、頷いた。
「ともき様の
世に
来られて
良うございました。」
その言葉が、
胸に残る。
——本当に、そうなのか。
帰るべき時代。
選ぶべき未来。
答えは、
まだ、先だ。
でも。
こうして、
同じ画面を見て、
同じ時間を笑える。
それだけで、
今は、十分だった。
昼。
時計の針が、
ゆっくりと正午を指す。
「腹…が減ったな。」
俺は、
立ち上がって、
キッチンへ向かった。
「今日は
簡単に
ラーメン。」
棚から取り出したのは、
見慣れたインスタントラーメン。
袋を開ける音に、
お七が、ひょこっと顔を出す。
「それは
何でございますか…?」
「昼飯」
「?」
鍋に水を入れ、
火をつける。
「湯を…
沸かして」
「お湯で…
食べ物が?」
「まあ
見てて」
麺を入れ、
スープを溶かす。
湯気が、
ふわりと立ちのぼる。
「…」
お七は、
鍋をじっと見つめている。
「細長く
白き…。」
「…麺。」
「蕎麦…
のようでございますね。」
「そんな…
感じだな」
俺は、
自然に、
そう答えていた。
否定もしない。
押し付けもしない。
お七の世界に、
寄り添う言葉。
ラーメンを、
二つの丼に分ける。
「はい」
「ありがとう…
ございます。」
箸を持つ手が、
少し、慎重だ。
「熱いから
気をつけて」
「はい。」
お七は、
そっと、麺をすくい、
ふう、と息を吹きかける。
「…。」
口に運ぶ。
一瞬。
「!」
目が、
大きく開いた。
「いかが?」
「これは…」
言葉を探すように、
少し、黙る。
「出汁
とも…
違い…。」
「でも
深う…
温かい」
もう一口。
「美味しゅう…
ございます!!」
「そんな
簡単な
もの…だけど」
「いえ…。」
お七は、
首を振る。
「この
早さで
この
味…。」
「まるで…
呪術の
よう!!」
俺は、
思わず笑った。
「現代の
呪術と言うよりは、魔術…かな」
お七は、
夢中になって、
麺をすする。
「止まら…
ぬ…。」
「無理…
すんな」
「大丈夫…
でございます。」
頬が、
少し、緩んでいる。
「奉公先…
では
急ぎ
食べる
こと
多く。」
「こうして…
ゆっくり
食べる。」
小さく、
息を吐く。
「幸せ…
でございます。」
丼が、
空になる。
「ごちそう
さまでございました。」
「お粗末…さま。」
洗い物をしながら、
ふと、思う。
——たった、
インスタントラーメン。
でも。
この一杯が、
お七にとっては、
“この時代で生きる味”。
そう思うと、
胸の奥が、
じんわりと温かくなった。
「ともき様…。」
「ん?」
「この世には…
まだ
知らぬ
味
たくさん
ございますね。」
「ああ。」
「まぁ…一つ
ずつ」
俺は、
少し照れながら答える。
「一緒に…
知って
いこう。」
お七は、
嬉しそうに、
頷いた。
湯気は、
もう、消えている。
でも、
その温かさは、
二人の間に、
確かに残っていた。
午後。
家の中は、
昼の静けさに包まれていた。
「……」
洗面所の方から、
お七がトイレへ向かう足音が聞こえる。
智樹は、
特に気にも留めず、
部屋でスマホを眺めていた。
——その時。
「きゃあああっ!?」
家中に響く、
甲高い悲鳴。
「!?」
俺は、
一瞬で立ち上がった。
「お七っ!?」
廊下を走り、
トイレの前へ。
ドア越しに、
慌てた声。
「と、ともき様…!
な、何やら
下より!」
「下…?」
嫌な予感。
「開けるぞ?」
「ど、どうぞ!」
ドアを開けた瞬間、
俺は、
反射的に視線を逸らした。
「…っ!」
お七は、
便座に跨がったまま、
身を固くしていた。
「勝手に…
水が!!」
やっぱり。
「ウォシュレット…か。」
俺は、
天井を見ながら、
深呼吸する。
「あれ…
驚くよな。」
「何も…
触れて…
おりませぬのに!!」
声が、
少し震えている。
「便所が…
生きて
おるようで。」
「落ち着け」
俺は、
出来るだけ、
冷静な声を出した。
「あれ
自動で…
動くやつ」
「自動?」
「害…
はない。」
「ほ、本当
でございますか…?」
「いいか…。」
俺は、
壁を向いたまま、
説明を始める。
「横に…
円形のボタン…
あるだろ?」
「はい…
見えます。」
「それを
押すと
止まるから。」
「えい…」
ピタ。
「止まり
ました!」
安堵の声。
「はぁ…。」
「それから」
俺は、
一つずつ、
言葉を選ぶ。
「終わったら
この…
レバーというか、取っ手を上げる。」
「それでお水が…?」
「そうね。」
「川の…
水門
のようでございますね。」
「まあ
似たような
もんよ。」
水が流れる音。
「おお…。」
感心したような声。
「何から…
何まで
勝手に。」
「便利な世の中
だよな!!」
俺は、
ようやく、
視線を戻した。
お七は、
まだ少し緊張しながらも、
無事、立ち上がっていた。
「驚かせて
しまい
申し訳
ありませぬ…。」
「いや…いや。」
俺は、
苦笑いする。
「最初は
誰でも
叫ぶからね。」
「左様
でございますか?」
「俺の
友達
も…俺も。」
それを聞いて、
お七は、
少し安心したように笑った。
「この世は
不思議
多き…。」
「まだ…まだ
あるぞ。」
「覚悟…
いたします。」
二人で、
顔を見合わせて、
小さく笑った。
トイレ一つで、
これほど驚く。
でも、
それもまた、
一緒に暮らす時間の一部。
——この時代で生きるということを、
お七は、
一つずつ、
身体で覚えていく。
そして俺も、
その隣で、
自然と支える役目を、
引き受けていた。
夜。
家の中が、
一日の終わりの静けさに包まれる。
「よし」
俺は、
浴槽に栓をして、
蛇口をひねった。
湯が、
静かに溜まっていく音。
「もうすぐ…
溜まる。」
しばらくして、
湯量を確かめる。
「あ…。」
棚から、
小さな袋を取り出す。
入浴剤。
袋を開けて、
そっと湯に入れると——
ふわり、と
湯の色が変わり、
やさしい香りが広がった。
「これは?」
いつの間にか、
お七が、
浴室の入り口に立っていた。
「入浴剤。」
「にゅうよくざい…。」
お七は、
湯船を、
じっと見つめる。
「湯が
色づき…
香りも。」
「みかん…
だな。」
「みかん…。」
小さく、
頷く。
「果物の
香りで
身を
清める。」
「まあ
そんな
感じ。」
「では」
そう言って、
お七は、
自然な仕草で、
着物に手をかけた。
「…っ!」
俺は、
反射的に、
顔を背ける。
「ちょ…
ちょっと!」
「?」
不思議そうな声。
「あ…
申し訳ございませぬ…。」
「いや
俺が…。」
言葉が、
うまく出ない。
「俺…
外
出てる…ね。」
脱衣場を離れ、
廊下で待つ。
しばらくして、
湯をかき分ける音。
「ふぅ…。」
小さな、
息の抜ける声。
「あたたか…。」
それだけで、
ちゃんと、
伝わってくる。
「ともき様。」
「なに…?」
「この…
香り」
「うん?」
「心まで
解ける…
ようで。」
湯船の中で、
力が抜けているのが、
声だけで分かる。
「良かった…。」
「はい…。」
少し、
間が空いて。
「湯
というもの」
「昔…
より
好きに
なりました。」
浴室の明かりが、
廊下に、
やわらかく漏れる。
俺は、
壁にもたれて、
深く息を吐いた。
——慣れないな。
でも、
嫌じゃない。
むしろ。
こうして、
同じ家で、
同じ夜を過ごすことが、
少しずつ、
当たり前になっていく。
みかんの香りが、
家の中に、
静かに残っていた。
夜の気配が、
少しずつ家に満ちていく。
「お七」
「はい…?」
玄関で靴を履きながら、
俺は声をかけた。
「ちょっと…
スーパーに
行ってくる」
「すう…ぱあ?」
「食い物
買ってくる…から。」
袋を手に取る。
「待ってて」
「お留守番
ですね…。」
「ああ
すぐ
戻る…ね。」
「承知…
いたしました。」
お七は、
小さく頭を下げた。
玄関のドアが閉まる。
家の中に、
静寂が戻る。
「…」
お七は、
しばらくその場に立ったまま、
耳を澄ませていた。
やがて、
足音が遠ざかるのを感じ、
ゆっくりと、
智樹の部屋へ向かう。
本棚から、
一冊の厚い本を引き抜く。
『日本史』
「これが
ともき様の
学び。」
ページをめくる。
難しい漢字。
見慣れぬ言葉。
「いささか…
難解。」
それでも、
目を凝らして、
一字ずつ、追っていく。
戦国。
江戸。
明治。
大正。
昭和。
「…。」
ページを進めるほど、
胸が、
ざわついていく。
戦。
飢え。
争い。
国同士の衝突。
「この世も…
長く
苦しみ
続けて。」
指が、
止まる。
令和。
「れい…わ。」
説明文を、
何度も読み返す。
「戦…
なき
世…。」
「武を…
以て…
争わず…。」
「民…
学び…
働き…
生きる。」
胸の奥が、
じん、とする。
「ともき様の…
世は…。」
小さく、
呟く。
「静かで…
穏やか…。」
刀も、
鎧も、
必要としない。
「夜
安心して
眠れる…。」
奉公先で、
明日を恐れた日々。
浪人に追われ、
川へ身を投げた夜。
——あの時、
ここへ来た。
「……」
知らず、
目が、潤む。
「わたくし」
教科書を、
胸に抱く。
「この世で…
学び…
生き。」
「ともき様の…
隣で。」
言葉にせずとも、
心の中で、
何かが、定まっていく。
玄関の鍵が、
回る音。
「ただいま…」
「おかえり
なさいませ…。」
いつもと同じ声。
でも。
お七の瞳は、
少しだけ、
違っていた。
それは、
“迷い”ではなく、
“理解”を得た人の目。
この世が、
平和だと知った。
だからこそ。
——ここで、
どう生きるか。
物語は、
静かに、
次の頁へ進んでいく。
「あの、これは…?」
蓋越しに、
並んだ寿司をじっと見つめる。
「お寿司…だよ。」
「すし…。」
「魚を…
米に…
乗せた。」
お七は、
はっとしたように息をのむ。
「そのような
贅…わたくしの
時代では祭りか
上方の大店でしか。」
「そっか…当時は高級品なのか。」
俺は、
少しだけ、
言葉に詰まる。
箸を持つ手が、
少し、緊張している。
「いただき…
ます。」
ゆっくりと、
一貫。
口に運んだ瞬間。
「…!」
動きが、
止まる。
「お七…?」
「これは」
声が、
震えている。
「魚が…
とろけ…。」
「米が…
甘く。」
しばらく、
言葉が出ない。
「なんと
贅沢…な。」
目が、
潤んでいる。
「そんな…に
高く
ないぞ?」
「それでも。」
お七は、
首を振る。
「この世では
このような…
味が日常」
俺は、
黙って、寿司をつまむ。
当たり前だった。
値引きシールを見て、
迷うくらいのもの。
でも。
目の前で、
これほど感動する人がいる。
「俺…」
ぽつりと、
呟く。
「恵まれて
たんだな…。」
お七は、
静かに、
頷いた。
「ともき様の
世は
豊か…で。」
「これ飲む…?」
冷蔵庫から、
缶を取り出す。
「びい…る?」
「お酒…だけど。」
「少し…
興味あります。」
プシュッ。
音に、
お七が、びくりとする。
「中で…
弾け
ました…!!」
「泡な。」
慎重に、
口をつける。
「…」
一瞬、
顔をしかめ。
次の瞬間。
「…!」
「これは…
なんと」
「刺激…が
強く…。」
「だろ…?」
「しかし…。」
もう一口。
「癖に…
なり…
ます。」
寿司を食べ、
ビールを飲む。
「合い…
ます!!」
「だろ…?」
お七は、
すっかり、
楽しそうだ。
「この泡…
この苦み…。」
「生きて…
いる
よう…。」
俺は、
思わず笑った。
食卓に、
空のパックと、
半分残った缶。
「ごちそう…
さまで…
ございました。」
静かな夜。
「ともき様」
「ん…?」
「この世に…
来られて
本当に…
良う
ございました。」
その言葉に、
胸が、
温かくなる。
——この平和を、
当たり前にしない。
そう、
心のどこかで、
誓った。
夜は、
もう、だいぶ更けていた。
食卓の上には、
空になった寿司の容器と、
半分ほど残ったビール。
「…」
お七は、
少しだけ、
ぼんやりとした目で、
湯呑みを両手に包んでいる。
「酔った?」
「少々…
ですが。」
声は、
柔らかい。
けれど、
どこか、
決意を含んでいた。
「ともき様」
「なに?」
「わたくし…。」
一度、
言葉を切る。
「元の世に
戻りたく…
ありませぬ。」
俺は、
息を止めた。
「戻れば…。」
お七は、
ゆっくりと、
言葉を紡ぐ。
「好きでもない
許嫁。」
「親の決めた…
縁。」
「逃げる
こと…
叶わず。」
そして。
「夜道…の
辻斬り。」
「明日生きているか…
分からぬ
日々。」
声が、
かすかに、
震える。
「恐ろしい
のです。」
「しかし、この世では…。」
お七は、
周囲を見渡す。
「夜は、安心して
眠れ…ます。」
「誰かに生き方を
決められませぬ。」
「わたくし…は。」
胸に、
手を当てる。
「初めて
自分の心を感じて
おります。」
そのとき。
お七は、
背筋を伸ばし、
正座した。
酔っているはずなのに、
その所作は、
凛としている。
「ともき様…。」
深く、
頭を下げる。
「不躾…承知。」
「どうか…。」
顔を上げ、
まっすぐに、
俺を見る。
「わたくしの許嫁
となって
いただけ
ませぬか…。」
「えっ…!?」
心臓が、
強く打つ。
——重い。
あまりにも。
時代を背負った、
願い。
「それは…。」
言葉が、
すぐに出ない。
でも。
逃げたくは、
なかった。
「俺…。」
深く、
息を吸う。
「正直…。」
「お七の…
こと」
「好きだよ。」
顔が、
熱くなる。
「最初は守るつもり…
だった。」
「でも。」
視線を、
逸らさずに、
続ける。
「一緒に笑って…。」
「飯も
食って…。」
「今…
いなく
なったら。」
「嫌だ。」
しばらく、
沈黙。
それから。
「許嫁。」
小さく、
頷く。
「なる。」
「ただ…。」
「軽い気持ち…
じゃない。」
「ちゃんと考えて
守る。」
一瞬。
そして。
お七の目から、
大粒の涙が、
零れ落ちた。
「ありがとう
ございます。」
「この御恩」
「生涯忘れ
ませぬ。」
「いや。」
俺は、
慌てて言う。
「対等…
だから、俺も好きだし。」
「そうでございます
ね…。」
少し、
笑う。
静けさが、
戻る。
——問題は、
山ほどある。
「親だよな…。」
ぽつりと、
呟く。
「いつどう…
話すか。」
お七は、
そっと言う。
「急がずとも…。」
「ともき様の時を信じ…
ます。」
二人は、
並んで座ったまま、
夜を過ごす。
恋人でもない。
夫婦でもない。
でも。
許嫁。
この時代で、
選び取った、
未来。
長い一週間は、
まだ始まったばかり。
そして、
一番難しい物語は、
これからだ。
**「家族にどう伝えるか」**
その答えを探すために。
夜がすっかり深まった頃。
家の中は
時計の針の音だけが、
静かに響いていた。
お七は智樹の部屋の押し入れの前に、そっと座り込んでいた。
初めて、
この世へ現れた場所。
指先で、
押し入れの引手に触れる。
冷たい。
「…」
ゆっくりと、
引き戸を開ける。
暗い。
奥まで、
何もない。
光も、
揺らぎも、
気配もない。
ただの、
空間。
「やはり…。」
小さく、
息を吐く。
「ここはもはや道では
ありませぬ…。」
胸に、
不安が、
一瞬よぎる。
だが。
それと同時に、
別の感情が、
確かに芽生えていた。
「戻れぬ…なら。」
立ち上がり、
背筋を伸ばす。
「この世で生きる。」
「ともき様と…。」
もう一度、
心の中で、
決める。
迷いは、
薄れていた。
一方、
智樹は、
居間のテーブルに、
ノートとスマホを広げていた。
「江戸時代…寛永。」
検索結果が、
次々と表示される。
「風呂…湯屋
身分。」
眉を、
ひそめる。
「やっぱり大変
だな。」
混浴。
薪で沸かす湯。
庶民と武家の違い。
「今みたいに気軽じゃない。」
ふと、
思い出す。
お七が、
湯に浸かったときの、
安堵した声。
——あれは、
当たり前じゃなかった。
次に、
目に留まったのは、
髪型。
「島田髷。」
画像を、
拡大する。
「毎日…結う?」
説明文を読み、
目を見開く。
「髪結いを
頼む…と金が…。」
「油…に
櫛…。」
「いや、一体何時間…かかる
んだ?」
そりゃ、
大変だ。
「簡単にはほどけないわけ
だ…。」
かんざしと花
智樹は、
ふと、
お七の姿を思い浮かべる。
光を受けて、
揺れる、
かんざし。
季節を映す、
花飾り。
「そういや
あれって、飾りじゃないんだ…。」
身分。
慎み。
誇り。
すべてが、
込められている。
「知らなかった。」
胸の奥が、
少し、
痛む。
そのとき。
「ともき様。」
振り返ると、
廊下に立つ、
お七。
「押し入れをご覧に
なりましたか…?」
「ああ。」
言葉を、
選ぶ。
「もう戻る道ないみたいだな。」
「はい…。」
お七は、
穏やかに、
微笑んだ。
「それでよろしゅう
ございます…。」
「俺…。」
智樹は、
ノートを閉じる。
「お七の時代。」
「もっと知ろう…
と思ってるんだ。」
「髪…とかさ…。」
「大変だったんだな…。」
お七は、
少し、驚いたように、
目を瞬かせる。
「そのように思っていただける
とは。」
「今を一緒に生きるなら…。」
「知らないままは嫌だ…。」
二人は、
しばらく、
何も言わず、
並んで座った。
過去と、
現在。
結び目は、
まだ、
ほどけない。
でも。
理解しようとする気持ちが、
確かに、
そこにあった。
戻らぬ戸口の前で、
新しい暮らしが、
静かに、
根を張り始めていた。
その夜。
家の灯りが、
一つ、また一つと消えていく。
「これでいいかな。」
智樹は、
そっと、
お七の枕を持ち上げた。
「髪崩れないようにしたから。」
少し高めに、
位置を調整する。
昼間調べた、
髪型のことが、
頭をよぎる。
——毎日、結うもの。
——簡単には、ほどけない誇り。
「寝づらかったら
言えよ。」
「ありがとう
ございます。」
お七は、
静かに頭を下げた。
初めての二段ベッド
「では今宵はこちらで。」
お七が選んだのは、
二段ベッドの下。
布団ではなく、
ベッド。
「不安?」
「いえ。」
少しだけ、
緊張した声。
「初めてで
ございます…が。」
智樹は、
上段へ。
「おやすみ」
「おやすみなさいませ。」
灯りが、
消える。
家は、
完全に眠りについた。
時計の針の音だけが、
規則正しく刻まれる。
その時。
ぎし、と
かすかな音。
お七は、
音を立てぬよう、
そっと、
上を見上げていた。
「…。」
智樹の寝顔。
穏やかで、
無防備。
「…」
その瞬間。
「んん…?」
智樹の目が、
ゆっくりと開いた。
「っ…。」
「お七?」
「も、申し訳…
ございませぬ!!」
慌てて、
頭を下げる。
「起こすつもりでは…。」
「いや…大丈夫。」
智樹は、
目をこすりながら、
起き上がった。
「どうしたの…?」
「ベッド?に
慣れず…。」
「あまりの、静けさといい
…その…。」
言葉を探す。
「少し心が騒ぎ…まして。」
「そっか。」
智樹は、
一瞬、考えて。
「じゃあさ…。」
二人で、
床に布団を敷く。
「ここなら寝られるかな?」
「ありがとうございます。」
「俺…戻っても?」
「あ…。」
一瞬の、間。
お七は、
小さな声で言った。
「ともき様…。」
「あの…隣で
寝ていただけ…
ませぬか…。」
「え…え!?」
顔が、
一気に熱くなる。
「その…。」
「今宵だけでも…良いので…。」
視線を落とし、
続ける。
「一人では少し心細く…。」
「…。」
智樹は、
しばらく、黙った。
——恥ずかしい。
——でも。
「うん、分かった…。」
布団に、
横になる。
「何もしないから…安心して。」
「存じております…。」
お七の声は、
安心していた。
布団一枚。
肩と肩が、
わずかに触れる。
息遣いが、
聞こえる。
「ともき様…。」
「ん…?」
「ありがとう…ございます。」
「あ、うん…。」
それ以上、
言葉は、要らなかった。
しばらくして。
「すぅ…。」
お七の寝息が、
静かに聞こえる。
智樹は、
天井を見つめながら、
思う。
——守りたい。
——でも、
対等でいたい。
そんな想いが、
胸に、
静かに積もっていく。
夜は、
何も語らず。
ただ、
二人の距離を、
確かに、縮めていた。
朝の光が、
障子越しではなく、
カーテンの隙間から差し込む。
智樹は、
ゆっくりと目を覚ました。
「…。」
すぐ隣。
布団の中で、
お七が静かな寝息を立てている。
規則正しい呼吸。
穏やかな表情。
夜の不安が嘘のように、
安らかだった。
「…。」
智樹は、
思わず見入ってしまう。
白く、健康的な肌、整った横顔…美人である。
ふっと視線をおろす…
着物の間から谷間見える。
次の瞬間、
はっとして視線を逸らす。
「おいおい、それはダメだ…ろ!!」
心の中で、
自分を戒める。
お七を起こさぬよう、
そっと布団を抜け出す。
「よし…。」
キッチンへ。
朝食は、
簡単に。
棚から取り出したパンをかじる。
「今日はどうなるかな。」
考え事をしながら、
味もよく分からないまま、
食べ終えた。
背後で、
衣擦れの音。
「ともき様…。」
振り返ると、
眠たげな目をしたお七が立っていた。
「お、おはよう。」
「おはよう…ございます…。」
少し、
照れたように。
「はい、これ朝食。」
智樹は、
袋に入ったパンを差し出す。
「昨日……
買っておいたんだよ。」
「これは…?」
丸くて、
表面が網目状。
お七は、
不思議そうに眺める。
「めろん…ぱん?」
「甘い…お菓子?みたいな
もん…かな?」
「ではいただきます…。」
恐る恐る、
一口。
「…」
一瞬、
目を見開く。
「甘い!」
声が、
自然と弾んだ。
「これは…なんと美味しき…。」
もう一口。
また一口。
気づけば、
袋は空。
「ごちそうさまで…ございました。」
満足そうに、
微笑む。
「そんなに喜ぶ…?」
「はい!」
はっきりとした声。
「この世は不思議で
美味しい…
もので溢れております。」
智樹は、
その笑顔を見て思う。
——特別なことじゃない。
——ただのパン。
それでも。
「良かった…。」
そう、
小さく呟いた。
平凡な朝が、
少しだけ、
特別になる。
そんな一日の、
始まりだった。
その日の昼。
窓から差し込む陽射しが、
部屋の床を明るく照らしていた。
「なんか小腹空いたな…。」
智樹は立ち上がり、
冷凍庫を開ける。
中から取り出したのは、
かき氷のアイス。
「そういやこれ買って
あったな。」
振り返り、
お七に差し出す。
「お七これ食べて
みる?」
「これは…?」
「かき氷、みたいな
アイス?」
「氷…で
ございます?」
アイスをじっと見つめるお七。
「冷たい甘いお菓子だよ。」
お七は、
はっとしたように目を見開く。
「氷とは。」
少し、
改まった声。
「わたくしの時代では…。」
「将軍様や…身分の高きお方
のみ、口にできるもので
ございました。」
智樹は、
思わず言葉を失う。
「そ、そんな貴重…
だったんだ。」
「はい…。」
静かに、
頷く。
「で、では」
お七は、
恐る恐る蓋を開け、スプーンをぎこちなく持ち、アイスをすくう。
「冷たい…。」
唇に触れた瞬間、
小さく声を上げる。
「…!」
一口。
「…!」
一瞬、
固まった後。
「なんと冷たく甘く…。」
「この世の菓子…
は!!」
言葉を探し、
そして。
「夢のよう…。」
目を輝かせる。
「これ毎日…お召し上がり
になられる
のですか?」
「いや…まぁ…毎日というか夏とか風呂上がりとかに…
だけど。」
「…!」
嬉しそうに、
何度も頷く。
「この時代は。」
「まこと豊かで
ございます。」
智樹は、
その様子を見つめながら、
胸の奥が、
じんわりと温かくなるのを感じた。
——当たり前だったものが、
——奇跡になる。
「そうだな。」
小さく、
笑う。
エアコンの音。
アイスが溶ける、
かすかな音。
二人は並んで、
静かな昼を過ごす。
時代を越えた、
小さな贅沢を、
分け合いながら。
かき氷のアイスを食べ終えたあとも、
お七は、
しばらくスプーンを手にしたまま、
ぼんやりしていた。
「ともき様…。」
「ん?」
静かな声。
「先ほどの…氷」
「どこより参ったので
ございましょう。」
智樹は、
一瞬考えてから、
冷蔵庫の方を見る。
「あれだよ。」
「あの白き箱で…?」
冷蔵庫の扉を開けると、
冷気が、
ふわっと流れ出す。
「!」
お七は、
思わず一歩下がる。
「冷たき風…!!」
中を、
恐る恐る覗き込む。
「な、何ゆえ…。」
「この箱の中だけ…。」
「冬のようなのでございます?」
智樹は、
少し照れながら説明する。
「電気って…力を
使って。」
「中を冷やす仕組みがあってね。」
「食べ物とか腐らないようにしてるんだよ。」
牛乳。
卵。
野菜。
調味料。
いつもの風景。
——なのに。
「…。」
お七は、
一つ一つ、
目を輝かせながら見つめていた。
「腐らぬのですか…?」
「うん、何日も。」
「!」
「それは。」
声が、
震える。
「命を救う技では…
ございませぬか。」
「飢えも病……
も。」
「これ一つ
で。」
言葉を失う。
お七は、
そっと手を伸ばし、
冷蔵庫の棚に触れた。
「この時代は!!」
「冷たささえ人の味方…
なのですね。」
その横顔を見て、
智樹の胸が、
きゅっと締めつけられる。
——すごい。
——こんなことで、
——こんな顔をする。
「…」
何も言えず、
ただ、
見つめてしまう。
「ともき様」
振り返るお七。
「教えてくださりありがとう
ございます。」
柔らかな、
笑み。
その瞬間。
キュンと。
心の奥で、
確かに音がした気がした。
「どういたしまして。」
声が、
少し裏返る。
冷蔵庫の扉を閉める音が、
やけに大きく響いた。
文明の箱の前で、
二人の距離は、
また少し、
近づいていた。
その夜。
キッチンに、
スパイシーな
香りが満ちていた。
玉ねぎが炒められる音。
鍋の中で、
とろりと混ざる色。
「…」
部屋の奥から、
そっと顔を出す影。
「ともき様。」
お七が、
ひょこりと顔を覗かせる。
「なんとも不思議な匂い…
ですね。」
鼻をくすぐるような、
甘さと、
刺激。
「腹が鳴りそう
で…ございます。」
「あ、もうすぐ…
できるから。」
「これは…何に…
ございます?」
鍋の中を、
不思議そうに見つめる。
「カレーライス。」
「日本からは、遠い国の料理だね。」
「香辛料ってのを使っていて、まぁ、薬草みたいなもの使って作るの。」
お七は、
目を丸くする。
「薬草で食事?」
やがて、
鍋から湯気が立ち上る。
白いご飯の上に、
赤褐色の汁。
「おお…。」
思わず、
声が漏れる。
「これで食べる…んだけど
アイスの時も使ってたやつね。 スプーンって言うの。」
智樹が、
スプーンを差し出す。
お七は、
恐る恐る握る。
「こう…でしたか?」
指が、
ぎこちない。
「ちょっと違うかな…。」
智樹は、
そっと、
手を添えた。
「こう持って。」
一瞬、
指先が触れる。
「!」
お七の肩が、
小さく揺れる。
「では…。」
スプーンを口へ。
「!」
次の瞬間。
「あつい!!」
目を見開く。
「喉が…!!」
「ちょ、ちょっと辛いから。」
「そうだ、水
いる?」
だが。
お七は、
もう一口。
そして、
また一口。
「あつい…。」
言いながらも、
手が止まらない。
「なのに、なぜ…
か!!」
「また、食べたく…
なります。」
「ははっ。」
智樹は、
思わず笑う。
「無理しなくて
いいよ?」
「いえ…!!」
きっぱりと。
「この、あつさ!」
「生きている心地が
いたします!!」
二人並んで、
同じ鍋を囲む。
スプーンの音。
湯気。
「美味しゅうございます。」
その言葉に、
智樹の胸は、
また少し、
温かくなった。
異国の料理が、
この家の夜を、
やさしく染めていた。
部屋の灯りを落とし、
テレビだけが、
淡く光っている。
ソファに腰を下ろし、
智樹は画面を見つめていた。
流れているのは、
恋愛ドラマ。
——時代を越えて出会った男女。
——現代に迷い込んだ過去の人間。
——やがて訪れる、別れの選択。
「…」
智樹は、
言葉もなく、
画面に釘付けになっていた。
「ドラマだよな。」
小さく、
呟く。
——こんなの、
——作り話の中だけだと思ってた。
押し入れから現れた、
寛永の女性。
今、
同じ屋根の下で、
息をしている。
「現実なんだよな。」
胸の奥が、
ざわつく。
その時。
廊下から、
静かな足音。
湯気の名残をまとったお七が、
そっと、
リビングの入口に立っていた。
髪は軽くまとめられ、
まだ少し、
湿っている。
「……」
お七は、
何も言わず、
テレビを見つめた。
智樹は、
気づいていない。
ドラマの中では、
主人公が、
涙ながらに言葉を告げていた。
「——元の時代へ、戻るわ」
その台詞に、
智樹の心臓が、
強く打つ。
「……」
——お七も、
——本当は……。
「帰りたいんじゃないか?」
声には、
ならない。
「俺は引き止めていい
のか?」
頭の中で、
考えが巡る。
——押し入れ。
——あの夜。
——何か条件が?
「タイムスリップの戻り方…。」
「そんな都合のいい方法。」
自嘲気味に、
息を吐く。
その背中をお七は、
静かに見つめていた。
ドラマも、
智樹も。
「…。」
何かを、
言いかけて。
——やめる。
お七は、
ただ、
その場に立ち尽くした。
テレビから流れる、
エンディング曲。
フィクションの世界と、
現実の間で。
二人は、
同じ画面を見ながら、
違う不安を、
胸に抱えていた。
その夜は、
まだ、
何も語られなかった。
テレビの画面が、
静かに暗転する。
エンディング曲だけが、
部屋に流れていた。
「……」
智樹は、
ふと、
背後の気配に気づく。
「あ…。」
振り返る。
「お七」
リビングの入口に、
立っていた。
バスタオルで拭いた髪。
湯上がりの、
柔らかな空気。
「いつからそこに?」
「先ほどより。」
少し、
気まずそうに。
「さっきのドラマさ、どう思った?」
言葉を選びながら、
続ける。
「ああいう話って、嫌
だった?」
お七は、
しばらく、
考えるように視線を落とした。
「正直」
静かな声。
「よく分かりませぬ」
「胸が苦しくなりけれど…。」
顔を上げる。
「帰りたいかと問われますと。」
一瞬、
言葉が途切れる。
「分からないのでございます。」
智樹の胸が、
ざわりとする。
「ただ」
お七は、
小さく息を吸った。
「この時代へ参ったこと…。」
「何か意味があるのでは?」
「そう感じてしまうのです。」
視線は、
真っ直ぐだった。
「ですから帰りたいとは、今は思っておりませぬ。」
「そっか。」
肩の力が、
少し抜ける。
「でも」
すぐに、
続けた。
「もし帰れる方法があったら?」
「どうするよ?」
答えを待たず、
智樹はスマホを手に取る。
「タイムスリップって」
検索画面。
指が、
滑る。
画面を読みながら、
呟く。
「科学的には、未来には行ける可能性があるけど…。」
「過去には…」
一瞬、
言葉を止める。
「戻れない、行けないらしい。」
お七は、
画面を覗き込み、
ゆっくりと頷いた。
「なるほど」
「理に叶っております。」
「わたくし」
少し、
微笑む。
「戻れぬ者なのですね?」
智樹は、
スマホを置き、
お七を見る。
「だから、今ここにいる…それ
だけって事…かな。」
お七は、
静かに、
頷いた。
テレビは、
もう消えている。
それでも、
二人は、
そこに座っていた。
過去にも、
未来にも、
完全には属さない。
ただ、
今を生きる者として。
夜は、
静かに、
更けていった。
深夜。
家の中は、
完全な静寂に包まれていた。
時計の秒針の音だけが、
一定の間隔で、
夜を刻んでいる。
「――――っ!!」
突然、
鋭い声が闇を裂いた。
「!?」
智樹は、
飛び起きる。
心臓が、
嫌な音を立てる。
「お七!?」
布団の向こう。
お七が、
上体を起こし、
肩で息をしていた。
顔色は、
血の気が引いたように白い。
「だいじょうぶ?」
近づくと、
お七の身体が、
小さく震えているのが分かった。
「夢で…」
掠れた声。
「恐ろしき夢を…。」
しばらく、
言葉が出てこない。
智樹は、
黙って待った。
「辻にて…。」
お七は、
視線を落としたまま、
語り始める。
「浪人に斬られそのまま…。」
一度、
言葉が詰まる。
「命は尽き、遺体は道端に…。」
声が、
震える。
「誰にも弔われず…。」
「わたくしは…。」
喉を鳴らし、
続ける。
「空の上よりそれを、
見下ろしておりました
声も出せず…。」
「ただそこに。」
智樹は、
言葉を失った。
——それは、
——想像ではない。
——日常に潜んでいた、
——現実の恐怖。
「…。」
そっと、
お七の前に座る。
何も言わず、
お七の手を、
そっと握った。
冷たい。
「ここ、今は」
ゆっくり、
言葉を選ぶ。
「安全だから。」
お七は、
驚いたように、
智樹を見る。
だが、
手を離さない。
やがて、
握り返してきた。
「ありがとうございます。」
声は、
まだ震えている。
「私の世では、いつ命を落とすか、分からぬ日々で
ございました…。」
「だから。」
胸に、
手を当てる。
「今こうして」
「誰かが傍に
おる、それだけで
救われます…。」
智樹は、
そのまま、
手を握り続けた。
「もう大丈夫、俺いる
からね。傍に。」
その言葉に、
お七の呼吸が、
少しずつ、
落ち着いていく。
やがて。
「すぅ…。」
お七は、
再び眠りについた。
智樹は、
手を離さず、
天井を見つめる。
——この時代に、
——連れてきてしまったのか。
——それとも、
——守るために、
——出会ったのか。
答えは、
まだ出ない。
ただ、
夜は静かに、
二人を包み込んでいた。
翌日の昼。
窓から差し込む光は明るいのに、
部屋の空気は、
どこか重たかった。
お七は、
座卓のそばに座ったまま、
ぼんやりと畳を見つめている。
「…」
昨夜のことが、
まだ、
心から離れていないのは、
見て取れた。
「お七」
声をかけると、
ゆっくり顔を上げる。
「はい。」
返事はするが、
笑顔はない。
智樹は、
少し考えてから、
立ち上がった。
「お腹空かない?お昼ご飯
どう?」
「いなり寿司がある
けど?」
「知ってるかな?甘くて美味しい油揚げに、米を包んで食べるお寿司だよ。」
その言葉に、
お七の目が、
わずかに動く。
「油揚げに米を?」
「そうそう。」
皿に並べられた、
小さな黄金色。
「これが…」
「稲荷って神様に
ちなんだお寿司。」
お七は、
そっと手を伸ばす。
「いただきます。」
噛む。
「……」
少しだけ、
表情が変わる。
「甘…く。」
「優しい味でございますね。」
もう一つ。
ゆっくり、
だが、
確かに。
「少し胸が軽く…なりました。」
智樹は、
ほっとする。
「良かった…。」
しばらくして。
ふと、
智樹は、
視線を感じた。
「ん?」
顔を上げると、
お七が、
じっとこちらを見ている。
「?」
「俺の顔…に何か付いてる?」
お七は、
首を振る。
「いえ…そうではありませぬ。」
一瞬、
ためらい。
そして、
意を決したように。
「ともき様。」
「昨夜のような夢を
ご覧になったことは…?」
智樹は、
少し考えた。
「あるよ。」
「嫌な夢でしょ?」
「昔のこととか…不安な時にみることが多いなぁ。」
「俺は…。」
指を折りながら、
話す。
「起きたら夢だって言葉に
よくするかな。」
「今のは夢だって事を自分に
言い聞かせる。」
「それからなんでも良いから
触れてみる。」
「布団とか手とか、温度
感じて、現実に戻る。」
お七は、
真剣に、
聞いていた。
「なるほど…。」
小さく、
頷く。
「夢と言うのは過去の影…
なのですね。」
「今とは違うと…。」
「俺はそう思う。」
智樹は、
微笑む。
「俺も、恥ずかしい話、怖い時とかあるから。」
お七は、
少し、
安心したようだった。
「ともき様…。」
「今度また悪夢を見たなら。教えてくださいませ。」
「一緒に今を確かめとう
ございます。」
「うん。」
短く、
しかし、
確かな返事。
昼の光の中で、
二人は、
少しだけ、
前へ進んだ。
悪夢は、
消えない。
だが、
向き合う術は、
もう、
一人ではなかった。
昼食を終え、
少し時間が経った頃。
「なんか…なぁ足り
ない。」
智樹は、
机の上に無造作に置かれていた包みを手に取る。
中身は、
茶色い紙に包まれた饅頭。
「そうそう、これあった
んだったな!!」
深く考えず、
一つ。
二つ目。
三つ目に手を伸ばした、その時。
「っ!」
視線を感じる。
お七が、
目を見開いて、
智樹の手元を見つめていた。
「ともき様。」
「な、何…?」
「そ、その菓子…。」
声が、
少し震えている。
「ああこれ?」
智樹は、
饅頭を掲げる。
「饅頭だけど?」
「中に餡が入ってて甘い和菓子。」
お七は、
ゆっくり首を振る。
「饅頭は、庶民にとって少し
贅沢な菓子でございます…。」
「祭や祝いでようやく口にできるもの。」
智樹は、思わず饅頭を見た。
「へえ、そうなんだ。」
「ともき様…が何事もなきように次々とお召し上がるのを」
「少し、驚き…ました。」
恥ずかしそうに、
言う。
「じゃ…。」
智樹は、
一つ、
差し出した。
「ほら、食べて?」
「…え!?」
一瞬、
ためらい。
だが、
両手で、
大切そうに受け取とる。」
「では…。」
紙を開きそっと一口。
「……」
次の瞬間。
「あ…」
声が、
自然と漏れる。
「甘く…柔らか…
く…心まで温かく…。」
「この餡、口の中でほどけ…
ます。」
ゆっくり、
噛み締める。
智樹は、
その様子を見て、
胸が少し、
きゅっとなる。
——俺は、
——どれだけ、
——当たり前に食べてたんだ。
「美味しいだろ?」
「はい。」
満面の笑み。
静かな午後
饅頭の甘さが、
部屋に、
やさしく広がる。
価値の重みは違えど、
喜びは、
同じ。
そんなことを、
二人は、
何も言わずに、
感じていた。
ともき様が、
夕餉(ゆうげ)を求めて外へ出られた後。
家の中は、
しんと静まり返っておりました。
「……」
わたくしは、
一人、
居間に残り、
しばし立ち尽くしておりました。
留守を預かる。
奉公の身であった頃、
それは日常でございました。
けれど、
今は。
「ともき様」
名を口にするだけで、
胸の奥が、
小さく波打つのです。
足が、自然と向いたのは、
ともき様のお部屋。
「失礼…いたします。」
誰もいないと、
分かっていながら、
声に出してしまう。
本棚。
机。
ゲーム機。
そして。
「…。」
以前、
うっかり見てしまった、
あの雑誌。
そこに、
まだありました。
「見てはなりませぬ…。」
そう思いながらも、
指先が、止まらぬ。
そっと、
手に取る。
頁を、
一枚。
「…」
そこにいる女性たちは、
わたくしの知る、
誰とも違いました。
髪は、
結い上げず、
自由に垂れ。
顔は、
白粉(おしろい)でも、
紅でもない、
不思議な彩り。
衣なく、裸体があらわに。
「これがこの時代の美…。」
胸が、
少しだけ、
締めつけられます。
わたくしの、
黒髪。
素顔。
質素な身なり。
——比べるまでもない。
「ともき様は、どのようなおなごをお好みなので
ございましょう。」
考えまいと、
していたこと。
けれど、
一人になると、
どうしても、
浮かんでしまう。
——わたくしは、
——この時代では、
——異物ではないか。
——やがて、
——飽きられるのでは。
胸の奥に、
小さな、
影が差す。
雑誌を閉じ、
元の場所へ戻す。
「比べることではございませぬ。」
そう、
自分に言い聞かせる。
ともき様は、
わたくしを、
見てくださっている。
——今の、
——この、
——わたくしを。
玄関の方から、
鍵の音。
「…!!」
心臓が、
跳ねる。
「お七?ただいまー。」
ともき様の声。
わたくしは、
深く息を吸い、
居間へ向かいました。
不安は、
消えてはおりませぬ。
けれど。
——確かめたい。
——言葉ではなく、
——日々の中で。
玄関の扉が閉まり、
智樹が、両手に袋を提げて戻ってくる。
「おかえりなさいませ」
お七は、自然と背筋を伸ばしてそう言った。
それを見て、智樹は少し照れくさそうに笑う。
食卓に並べられたのは、
四角い箱。
「これは?」
「スーパーのお弁当だよ」
“べんとう”。
言葉は知っている。
だが、
これほど整い、
色とりどりのものは、
お七の知る弁当とは、まるで違っていた。
智樹が、
ぱちりと蓋を開ける。
「…!」
お七の目が、
思わず大きく見開かれる。
黄金色に揚がった肉。
照りのある焼き魚。
赤、緑、黄色の野菜。
白く艶やかな米。
「まるで…祭りの膳のよう。」
「まずは、これかな」
智樹が指さしたのは、
ころりとした、
衣をまとった肉。
「唐揚げ。
鶏の肉を、油で揚げたもの」
「油で揚げる?」
恐る恐る、
箸で持ち上げる。
——重い。
——香りが、強い。
「いただきます。」
そっと、
口に運ぶ。
——じゅわ。
熱とともに、
旨味が広がる。
「…!!」
思わず、
声を失う。
「な…なんという味。」
外は、
さくり。
中は、
柔らかく、
汁が溢れる。
「これはご馳走で…
ございます。」
智樹は、
そんなお七の反応に、
思わず頬を緩める。
「これは、卵焼き。
甘いんだ」
「た、卵?かなり高級なものですね!!」
「こっちは、きんぴら。
ごぼうと人参」
「根のものですね…。」
一つ、
また一つ。
智樹が説明するたび、
お七は、
まるで宝を受け取るように、
丁寧に味わう。
「この白米も…。」
「炊きたてじゃないけどね」
「いえ、それでも夢のよう。」
奉公先で、
たまにしか口にできなかった白米。
それが、
この時代では、
当たり前のように、
箱の中にある。
二人で、
向かい合い。
箸の音と、
小さな感嘆の声だけが、
部屋を満たす。
「ともき様。」
「ん?」
「この世は本当に豊かで…
ございますね。」
「でもさ」
智樹は、
少し間を置いて言う。
「こうやって
一緒に食べる人がいないと、
ただの弁当だよ」
お七は、
その言葉に、
静かに目を伏せた。
空になった弁当箱。
「ごちそうさまでした。」
深々と、
頭を下げる。
「そんな改まらなくていいって…。」
「いえ感謝は尽きませぬ。」
ともき様が、
先に湯へ向かわれた。
「すぐ出るから」
そう言って、
脱衣場へ消えてゆく背を、
わたくしは、少しだけ見送った。
部屋には、わたくし一人。
外は夜の気配。
時計というものが、
静かに刻む音だけが、
部屋に残る。
机の上に、
ともき様の *すまほ* が置かれていた。
黒く、薄く、硝子のような面。
「少しだけ。」
触れてはならぬと、
心では分かっている。
けれど、
好奇心が、
そっと指を動かした。
ぱっと、
明るくなる画面。
そこには、
先ほど見たばかりの
検索した画が、
そのまま映っていた。
「あ…。」
そこにあったのは――
わたくしの時代にも、
確かに存在したもの。
「春画…。」
顔が、
一気に熱くなる。
男女が、
寄り添い、
睦み合う姿。
決して、
下卑たものではない。
浮世絵の一つとして、
密やかに、
人知れず楽しまれていたもの。
「ともき様も…
このようなものを。」
思わず、胸の奥が、
きゅっと縮まる。
戻るべきだと、
分かっているのに。
指が、
次の画に、
触れてしまった。
「これは江戸のこれは…
明治?」
さらに、
昭和と呼ばれる時代の
女性の姿。
装いも、
髪も、
化粧も――
すべて、
異なっている。
「あ…。」
胸の内で、
小さく息を呑む。
「時代は違えど…。」
そこに映る女性たちは、
どこか、
共通していた。
柔らかな表情。
慎ましさ。
どこか、昔ながらの気配。
「ともき様は」
現世の、
派手な姿よりも。
移ろう時代の中の、
女性の *在り方* を、
好まれるのだろうか。
そう思うと――
「なぜか…嬉しゅうございます。」
頬に、
熱が集まる。
気付けば、
検索の跡まで、
分かるようになっていた。
本。
絵。
昔の装い。
「だめ…いけませぬ。」
そう言いながらも、
心は、
どこか、
満たされていく。
そのとき。
湯の音が止まる。
「!」
慌てて、
すまほを元の場所へ戻す。
胸の鼓動が、
早い。
「ともき様。」
知らなくてもよかったこと。
けれど――
知ってしまって、
よかったこと。
わたくしは、
そっと手を組み、
湯上がりを待つ。
胸の奥に、
小さな、
温かな火を抱えながら。
「お七、次どうぞ」
風呂場の扉を少しだけ開け、
智樹は小声でそう告げた。
湯気とともに、
ミカンの香りが廊下に流れ出る。
「はい…。」
お七は少し控えめに返事をして、風呂場へと向かっていった。
扉が閉まる音を聞きながら、
智樹は大きく息を吐いた。
「ふぅ…。」
いつものはずの、
自分の部屋。
なのに、
どこか落ち着かない。
ふと、
机の上に視線を向ける。
「ん?」
スマホ。
いつも置いている位置より、
ほんの少し――
ずれている。
たった、それだけ。
なのに。
「え?まさか…」
心臓が、
一拍、
跳ねた。
風呂に入る前、
確かにここに置いた。
ロックは――
かけていなかった。
智樹の脳裏に、
一気に記憶が蘇る。
検索。
画像。
昔の絵。
時代ごとの女性。
「あああ!」
両手で顔を覆う。
「よりにもよって」
よりにもよって、
お七。
寛永の世から来た、
あんなに真っ直ぐで、
純粋で。
「完全に変なやつだって…
思われたよな。」
耳まで、
熱くなる。
ただ、
すぐに別の考えも浮かぶ。
「でも…。」
彼女は、
自分の時代の“春画”を
知っていると言っていた。
もしかしたら――
軽蔑ではなく。
「いやいや…
それでも恥ずいだろ!!」
椅子に座り、
背もたれに身を預ける。
「俺はさ…」
現代的な、
派手過ぎは
好みじゃない。
昔の雰囲気。
静かな仕草。
言葉遣い。
「お七、そのものじゃん…。」
思わず、
苦笑が漏れる。
風呂場から、
湯をすくう音。
お七が、
初めての一人風呂に、
少しずつ慣れている気配。
「でも、気づいてたら
どうするよ。」
智樹は、
スマホを手に取り、
画面を伏せて置き直す。
「うーん、隠すことじゃ…
ないよな?」
恥ずかしい。
でも、嫌なものじゃない。
「もし聞かれたら…。」
正直に、
話そう。
笑われても、
驚かれても。
「だって、好きなものは
好きなんだし。」
風呂場から、
水を止める音。
もうすぐ、
お七が戻ってくる。
智樹は、
深呼吸を一つして、
何事もなかった顔を作る。
胸の奥に、
少しだけ残る、
くすぐったい不安を抱えながら。
「あ、ちょうどいいところに」
風呂場の戸が開き、
お七が、ほかほかと湯気をまとって出てくる。
頬が、ほんのり赤い。
「お疲れさまでございました…。」
そう言って、
ぺこりと頭を下げる。
智樹は、
冷蔵庫の方を指さした。
「なあ、お七」
「はい?」
「風呂上がりだしさ…また
ビール、飲まない?」
缶を開ける音。
「この音も
楽しみの一つなんだよね。」
智樹がそう言うと、
お七は不思議そうに首を傾げる。
「では、わたくしも!!」
「相変わらず
強い泡…!!」
喉を抜ける刺激。
苦味。
それなのに――
不思議と、
また飲みたくなる。
「やはり、これは
癖になりますね…。」
「だろ?」
智樹は、
嬉しそうに笑う。
一缶目が、
空になる頃。
「あれ…?」
智樹は、
自分の顔が、
熱くなっていることに気づく。
「ちょっと効いてきた…。」
一方。
「わたくしは、まだ…
大丈夫でございます。」
お七は、
平然と、
次の缶を開ける。
「え、マジで?」
「お酒は、奉公先でも
多少。」
その言葉の裏にある、
過去を思い、
智樹は何も言えなくなる。
二本目。
「あ、俺これ…結構。」
言葉が、
少しだけ、
遅くなる。
「ともき様
大丈夫でございますか?」
三本目。
四本目。
お七の頬も、
次第に赤くなる。
「ふふ、この泡……
面白うございます…。」
言葉が、
少しだけ、
柔わらかくなる。
五本目…。
「これにて、最後に
いたしましょう…。」
そう言って、
缶を開けた瞬間。
「あ…」
お七は、
少し、
ふらりとする。
「さすがに…参りました。」
智樹は、
すでに床に座り込み、
背中を壁に預けていた。
「お七、お酒…強すぎ。」
テレビも消し、
部屋には、
缶の音と、
二人の呼吸だけ。
「ともき様。」
「ん…ん?」
「この世のお酒は…楽しいですね。」
肩と肩が、
触れる。
智樹の意識は、
少し、
揺れている。
「あんまり…飲みすぎるなよ…。」
「はい…ですが…今日は…。」
言葉は、
最後まで続かない。
二人は、
並んで座りながら、
ただ、
夜を味わっていた。
泡のように、
はじけて、
消えて。
けれど、
確かに残る、
温もりを。
灯りを落とし、
布団を二つ並べる。
けれど――
自然と、
その間は、
ほとんど残らなかった。
「近いですね…。」
お七の声は、
いつもより、
小さい。
「あ、ああ…。」
智樹も、
仰向けになったまま、
天井を見つめる。
布団越しでも、
分かる。
吐息。
体温。
わずかな動き。
少し身じろぎするだけで、
衣擦れの音が、
やけに大きく響く。
(やばい…)
智樹の胸は、
はっきりと、
速く打っていた。
横を向けば、
すぐそこに、
お七がいる。
視線
「ともき様
起きて…おりますか?」
「あ…あ、うん。」
同時に、
目が合う。
闇の中でも、
互いの表情が、
分かるほど近い。
言葉が、
続かない。
ただ、
呼吸だけが、
重なっていく。
気づけば、
智樹の手が、
わずかに、
布団の上で動いていた。
「お、お七。」
名前を呼ぶ声が、
自分でも驚くほど、
低い。
答えは、
言葉ではなかった。
お七が、
ほんの少しだけ、
顔を近づける。
触れたのは、
一瞬。
けれど、
確かに。
「はっ…。」
智樹の息が、
止まる。
離れようとした、その時。
お七の手が、
そっと、
智樹の袖を掴む。
「ともき様…。」
もう一度、
今度は、ためらいなく。
長くはない。
けれど、
静かで、
確かなキス。
言葉よりも、
気持ちが、
伝わる。
額を寄せたまま、
二人は、
しばらく動けなかった。
「……」
「……」
どちらからともなく、
小さく、息を吐く。
「おやすみなさい…
ともき様…。」
「おやすみ、お七…。」
その夜。
二人は、
同じ布団の温もりの中で、
眠りについた。
これは、
始まりに過ぎない。
時代を越えた想いが、
静かに、
深く、根を張り始めた夜だった。
了解しました。
余韻を大切にしつつ、**朝の光・生活感・夫婦めいた距離感**を丁寧に描きます。
――じゅう、という音。
――味噌の、やわらかな香り。
智樹は、
夢の続きのような気配に包まれて、
ゆっくりと目を覚ました。
「……ん……?」
布団の中で、
鼻先をくすぐる匂いに気づく。
「……いい匂い……?」
体を起こし、
そっと襖を開ける。
そこには――
台所に立つ、お七の背中があった。
食卓には、
すでに、湯気の立つ器が並んでいる。
味噌汁。
焼き魚。
漬物。
納豆。
煮物。
「……え……?」
思わず、
声が漏れる。
「……お七……
これ……全部……?」
振り返ったお七は、
少し誇らしげに微笑んだ。
「はい。
朝餉でございます」
「いや……
朝から……豪勢すぎない……?」
ガスコンロの火を止め、
布巾で手を拭く。
その動きは、
もうすっかり、
この家の台所の主のようだった。
「……もう……
使い方、完全に覚えたんだな……」
「慣れれば……
火を扱うのは……
どの世も……同じでございます」
二人、
向かい合って座る。
「いただきます」
「いただきます…。」
智樹が、
味噌汁を一口。
「うま…、美味しい!!」
焼き魚も、
程よく焼けている。
「凄い!!普通に…
定食屋レベルなんだけど。」
箸を止め、智樹はふと口にした。
「なんかさ…。」
お七が、
首を傾げる。
「俺たち本当の夫婦みたいだな…。」
一瞬、
お七の動きが止まる。
そして――
頬が、
ほんのり赤くなる。
「そ、そのような…。」
けれどすぐに、背筋を正し。
「これくらい女であれば
出来ねば…なりませぬ。」
「いや、今の時代さ。」
智樹は、
苦笑しながら言う。
「これ、出来ない人
普通に多いから、凄いよ。」
お七は、少し驚いたように、
目を瞬かせる。
「そう…なのでございますか…。」
「うん、尊敬する。」
お七は、
箸を持ったまま、
少し考え。
「では、わたくしは…
ともき様の
役に立てて、おりますね。」
「うん…めちゃくちゃね。」
窓から差し込む、
やわらかな朝日。
湯気の向こうで、
微笑み合う二人。
それは――
まだ名付けられていない関係。
けれど、
確かに、
“共に暮らす”温度が、
そこにあった。