テラーノベル
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真新しいランドセルに春の陽を浴びて、凛太郎は舞い落ちる桜の花びらを見上げながら帰り道を急いだ。いつもなら家の前で待っていてくれる母の姿がこの日はなかったことに、凛太郎は淋しさと心細さを感じた。
自宅の奥にある父の工房に行ってみることにした。以前は陶芸教室をしていて父も楽しそうだったのに、突然教室を閉めて父は笑わなくなった。大きな声で怒鳴ることもあれば母を殴ることもあった。だから工房にも父にも、凛太郎はあまり近づきたくなかった。
「お父さんー」
物心ついたときから、工房は凛太郎の遊び場のようなところで、よくわかっているはずなのに一歩一歩慎重に足を進めていく。
突然、工房の奥で物音が響いた。
凛太郎は首をすくめて全身を震わせた。今度はもう少し大きな声で呼びかけてみた。
「お父さん? いるの?」
「こっちへ来るな!」
父の大きな声が返ってくる。
気が弱くて泣き虫で、甘えん坊な凛太郎でも、振り絞れば前へ進む勇気があった。再び足を進めて棚の角を曲がって凛太郎の目線の高さに見えたものは、父がいつも履いている靴のつま先だった。
「お父さん!」
悲鳴を上げて凛太郎が父の足首を掴むと、父の身体が左右に揺れた。何が起きたのか、幼い凛太郎には言葉でうまく言い表せなくてもわかっていた。
急がなくちゃ。
助けなくちゃ。
椅子の上に乗って父の身体に手を伸ばす。父の首に巻きついている黒い紐に手が届けばいいのだが、椅子の上でつま先立ちになってうんと手を伸ばしたが凛太郎の小さな腕は届かない。そしてバランスを崩して、椅子ごと倒れて床に身体を打ち付けてしまった。
「お母さん、どこぉ。お母さん」
凛太郎は泣き叫ぶ。
椅子から転げ落ちて痛いのと、父の身に起きたことが怖いことに泣き叫んでいた。
これは夢なのかもしれないー。
宙に浮かぶ父の姿をもう一度見たとき、その後ろから工房に差し込む陽の光が見えた。
季節は春なのに差し込む陽の光は、真夏のように強い光に、凛太郎は目を覆い頭を抱えてその場にうずくまって泣き続けた。
「太陽を見ると凛太郎は激しく震え出すの。最悪のときは失神してしまうほど。出会ったときの凛太郎はそんな状態だった。だからいつもサングラスをはめていたし、日中に外で遊ぶこともしなかった。あたし園長先生に凛太郎はどうして太陽が見られないのかと聞いたことがあるの。先生はきっとものすごく怖い思いをしたときに陽の光が凛太郎の目に映った。だから太陽の光を見ると、そのときの光景がよみがえってしまうのだろうと言った」
そして―。
『勝人君。凛太郎君のお兄さんになってあげて。守ってあげてね』
あのときの園長先生の言葉を、何年か振りに翠は思い出した。
「よく真夜中に二人でオセロをやった。学校のこと将来のこと、凛太郎は時々母親のことも話してくれた。学校帰りに買った駄菓子をこっそり食べながらやったな。あの子強いのよ。あたし凛太郎に勝ったことないもの」
懐かしそうに話しながら、ちょっとむきになった翠の顏が可笑しかった。
「あんた今笑ったでしょう。あたしが弱いだけだって言いたいんでしょう」
結は思わず吹き出してしまった。
「あんた失礼よ」
ちょっと顔を赤くして、唇を尖らす翠が可愛く見えて、可笑しくて可笑しくて、結は目元を拭わずにはいられなかった。
翠のことだから、年下の凛太郎に勝たせてあげたのではないだろうか。
それから十八歳になった翠は、施設を出て、のちに本当の翠を理解してくれた恭平のいる会社へと就職した。
「就職してからも、あたしは時々施設を訪ねた。凛太郎が姿を消したのは本当に突然のことで、あの子が十五歳のときだったと思う。施設先生もあたしも、必死に探したけど見つからなかった。それから今日まであたしは凛太郎には会っていない。あんたがここで拾った名刺入れの写真を見たとき、本当に心臓が止まるかと思うくらい驚いた。あたしが気づかなかったけど、凛太郎はここに来ていた。あたしの目の前に現れていた」
翠の話を聞きながら、無意識に結は眉間に皺を寄せていた。すると突然翠の人差し指が結の眉間を突いた。
「痛い、なにすんのよ」
「女が眉間に皺寄せてるんじゃないわよ、ブスになるわよ」
「ほっといてよ」
時々すごくムカつく。
眉間にうんと皺を寄せて、ブスな顏をしていればいい。そうしていれば眉間を小突かれただけの些細なことに、頬が緩んで翠の顔を真っすぐ見られない。
「あんたに聞きたいことがあるんだけど」
急に真面目な声で言う翠の眉間にも皺が寄っていた。それを茶化してやろうかと思ったが、翠の真剣な眼差しに結は黙って頷いた。
「もし違っていたらごめん。あんたの左右の腕のどちらか肘の辺りに怪我の跡があったりする? あれは火傷の跡…?」
結は思わず右腕の肘に触れた。
「どうして翠さんが傷のことを知っているの?」
翠と出会ったのは最近のことで、季節は秋に入ってからだ。翠の前で半袖の服を着て、肘の傷を見られる機会はなかったはずだ。第一結は、ここ数年自身の部屋以外では、半袖の服を着ないようにしていた。あの婚約者でさえ傷のことは知らない。
「ごめん。嫌なことを思い出させた」
翠の声に顔をあげると、翠が結の右側の席に座っていた。そして言い難そうに紅い唇を噛んでから口を開いた。
「あんた、うちの施設にいたのよ。ほんの一週間ぐらいだったけど」
「施設に?」
結の口調がむきになって強くなった。
「どうして私が?」
「事情はよく知らないけど、あんたはよく笑う子だった。普通施設に預けられた子は両親を恋しがって泣くのに、あんたはいつもにこにこしていたから覚えていたの」
「そのときの私いくつくらいだった?」
「一歳にもならない頃だったと思う。だから覚えていないと思うけど」
人は幾つのときからの記憶を持っているのだろうかと考えた。
結は視線を落した。
何不自由なく育てられてきたこと、十分満たされてきたこともわかっている。が、結の心はいつもひとりぼっちで、いつも淋しかった。贅沢だと言われるだろうが、結はただ話を聞いてほしかった。
何がしたいのか、何を望んでいるのか。結の言葉を想いに耳を傾けてほしかった。
けれど実際には何一つ選べない、何一つ決められないという現実に苛立ち、次第に反抗するように貴一との間に溝を作り、父のことを「あの人」と呼ぶようになっていった。
並んだコーヒー豆の入った瓶に視線を向けたとき、結は急に笑い出した。
「どうしたの?」
翠の声にじっと前を見据えたまま、結は呟く。
「棄てたのよ…」
「あんた何バカなことを言い出すの?」
「あの人、一度は私を棄てたのよ」
「違うでしょ」
「ううん棄てたの。でも気にしたの。あの人が気にしたのは世間体よ。世間の目を気にして迎えに来ただけよ。あの人はそういう人よ」
「結」
あの傷のある辺りを翠は掴んだ。
横にいる翠に顔を向けたとき、瞳から涙がこぼれ落ちた。
結の肘に手を添えられたまま、翠は優しく言う。
「違うよ。あんたは一時的に預かっただけ。あたしは先生からそう聞いた」
結は翠を見て静かに笑った。
「翠さんって嘘が下手ね」
憐れむような目で翠に見つめられると、余計に悲しくなる。
コメント
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うわあ…19話、めっちゃ重くて胸が締め付けられたよ💔💔 凛太郎が小さな体でお父さんを助けようとしたシーン、想像するだけで泣きそうになった…。あの太陽の光のトラウマの理由がこう繋がるんだね。 翠さんの「嘘が下手ね」って結ちゃんが言うところ、グッときた。お互いの過去が少しずつ見えてきて、続きが気になりすぎる!更新待ってるよ🌸