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地下へと続く階段は、まるで棺に収められた遺体のように、静かで、冷たい。 ルネは鉄の鎖で手首を縛られたまま、二人の屈強な男に挟まれて、薄闇の奥へと歩かされていた。靴底が石畳を打つ音が、まるで誰かの鼓動のように耳に響く。 視界には揺れる灯りと、滲んだ影ばかりがあった。 何度も何度も「ここで殺される」と思った。けれど、死ぬことさえ赦されない。 彼は今、“生きたまま美術品にされる”ために、この場所へ運ばれているのだ。
「こちらが……No.84。昨夜、リオス公爵から引き取ったばかりです」 扉の前で、男の一人が声を発した。
「仕様書によれば、未使用で健康体、外見も申し分なし。壊れすぎてはいません。丁寧に扱っていただければ、高値で納品可能でしょう」
それを聞きながら、ルネは首を少し傾けた。 まるで自分が、“陶器”にでもなったような説明だった。だが、それも当然なのだ。 彼は、物として売られてきたのだから。
ゆっくりと、扉が開く。 中にいた男は、白衣をまとい、背の高い、静かな影だった。
黒い髪が静かに肩へ流れている。 灰銀の瞳がこちらを向いた瞬間、ルネの身体がかすかに震えた。 その目には、熱も怒りも、喜びすらも宿っていない。 ただ、冷たく沈んだ湖面のように――すべてを飲み込む、“無”があった。
「……セルジュ様。お届けにあがりました。新作でございます」
白衣の男――セルジュ・ラファイユは、何も言わずルネの目を見つめたまま、一歩、近づいた。
その動きすら、静かで、滑らかで、美しかった。 まるで解剖台に置かれた死体に向かうような無感動な足取りで、彼はルネの顔を覗き込んだ。
「……目を、開けて」
低く、穏やかで、けれどどこか命令のような声だった。 ルネは小さく息を呑み、言われるままに、まっすぐにその灰色の瞳を見つめた。
その刹那。
セルジュのまつげが、微かに震えた。 何かを見つけたように。あるいは、何かを思い出したように。
「……これが、No.84か」
「はい。どこからでも切れます。お好みの部位を優先していただければ」
説明の声に、セルジュは応えなかった。 ただ、ルネの頬に手を伸ばす。 黒い手袋越しの指が、肌に触れる。冷たい。なのに、なぜか熱が走った。
「この目は……まだ壊れていない。……いい」
それだけ呟くと、セルジュはふと後ろを向いた。
「この子は、しばらく“作品”にはしない。仮助手として、ここに置いておこう」
「……は?」
係員が目を見張る。 だがセルジュは、それ以上何も説明せず、静かに歩き去った。
取り残されたルネは、わずかに震えながら、その背中を見つめていた。
自分は、なぜ殺されなかったのか。 なぜ、この“芸術家”の目が、ほんの少しだけ揺れたのか。
答えはまだ知らない。 けれどその日を境に、ルネの世界は“美しく、残酷な歯車”の音を立てて、ゆっくりと動き始めたのだった。
「脱いで、ベッドに座っていてくれ」
その一言に、ルネは僅かにまつげを震わせた。
けれど反抗の色は見せず、
淡い肌を晒すように静かに衣服を解いた。
布がするりと滑り落ちる音が、診療室の静寂に溶ける。
白く光る鎖骨、胸板は薄く、呼吸のたびに儚げに動く。
椅子の上、まっすぐな背筋と、恥じらいに似た沈黙がある。
セルジュは、彼の前に立った。
「怖いか?」
「……いえ」
「なら、安心して」
医者としての口調だった。
だが手元の動きは、どこか緩やかすぎる。
白手袋をはめ、指先でルネの顎を軽く持ち上げる。
「まず、脈を診よう」
右手の手首を取り、静かに脈を測る。
鼓動は速かった。
恐怖か、それとも――。
「早いな」
「すみません……うまく呼吸ができない気がして」
セルジュは表情を崩さずに、もう一方の手で額に触れる。
冷たくも優しい掌。
「熱は……ない。けれど、汗をかいているね」
「……あなたに触れられると、身体が……変になるんです」
言ってから、ルネは顔を伏せた。
耳の先まで、朱が差していた。
セルジュの指がぴたりと止まり、
静かに、彼の耳元に口を近づける。
「それは、病気かもしれないな」
囁く声は低く、静かに胸に沈んでくるようだった。
「でも、心配はいらない。僕が、じっくり調べてあげるよ」
聴診器が当てられる。
金属が胸の中心に触れると、ルネはわずかに身をすくめた。
ひやりとした感触――だがすぐに、体温でそれは鈍くなる。
「深く息を吸って。……そう、それでいい」
セルジュの眼差しは、冷静でありながらもどこか陶酔した彫刻家のようだった。
呼吸と心音が、部屋の静寂に浮かぶ。
それはまるで、音楽のようだった。
「この音は……とても綺麗だ。
崩れても、壊れても、美しさだけは残る音だよ」
「……壊すんですか、僕を?」
そう問うたルネに、セルジュは笑わなかった。
ただ、静かに言った。
「君がそう望むなら」
診察は終わった。
だが、ルネの中には医療行為とは別の何かが、じんわりと広がっていた。
それは熱か、甘い毒か、あるいは――恋という名の疾患か。
そして、セルジュもまた、
背を向けたふりをしながら、指先に残る熱の名残を忘れられずにいた。
(これは診察じゃない――これは、選別だ。)
選ばれた花を、どう咲かせ、どう枯れさせるか。
それは、彼だけが決められる。
──この少年は、壊すに値する美しさを持っていた。
それを知った瞬間だった。