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夜の街はすでに静まり返っていた。黒いアスファルトには雨上がりの湿気がまだ残っていて、街灯の光を鈍く反射させている。スロスはフードを目深にかぶり、無言で歩いていた。歩幅は一定、足音もほとんど響かない。百年という時を生き抜いてきた彼女にとって、夜道を行くことは呼吸と同じくらい自然な行為だった。
周囲に漂うイカタコの気配や雑多な空気を確かめながら、彼は静かに視線を左右に巡らせる。
辿り着いた先にあるのは、小さな喫茶店。外観は古びてはいるが、どこか温かみがあった。
扉の横には小さな看板が立っており、店の名が消えかけの白い文字で刻まれている。光は暖色で、外の寒さと孤独をほんのひととき忘れさせてくれるような雰囲気を漂わせていた。スロスは扉を押し開けた。
カラン、と小さなベルの音。中は薄暗く、ランプの明かりが静かに空間を包んでいる。古い木製のテーブルと椅子が並び、壁には所々にポスターや写真が飾られている。だが派手さはなく、客の少ない深夜の空気に馴染んでいた。カウンターの奥では、フランがグラスを磨いていた。目元の笑顔には場を和ませる柔らかさと同時に、鋭い観察眼が隠されているようだった。フランは視線を上げると、店に入ってきたスロスを見て軽く顎を上げた。
「あら、また来たのね。最近ほんと常連みたいじゃない。」
その言葉にスロスは答えない。ただフードを少し下ろし、奥のカウンター席に腰を下ろした。目立つことを嫌う彼だが、何度か足を運んだこの店では妙な安らぎを覚えていた。フランは苦笑しながら棚からカップを取り出し、コーヒーを淹れ始める。
「今日もブラックでしょ?」
スロスは短く頷いた。会話を切るような無愛想さではない。ただ必要なことだけを示すような動作だった。コーヒーの香りが漂い始め、蒸気がふわりと立ち上る。その香りは落ち着きを与えると同時に、どこかで眠っていた記憶を刺激するようでもある。フランは手を止めずに口を開いた。
「アンタ、ここに来るときはいつも疲れた顔してるのよね。まぁ、深夜に出歩いてる時点で普通じゃないんだけど。」
スロスは無言でカップを受け取り、ゆっくりと口をつけた。苦みが舌に広がる。その一瞬、目を細めたようにも見えたが、表情はほとんど動かない。フランは笑みを浮かべ、わざと冗談めかした口調で言葉を重ねる。
「まさか夜な夜な化物退治でもしてるんじゃないでしょうね?」
スロスは視線をカップに落としたまま、小さく呟いた。
「……似たようなものだ。」
その言葉にフランは片眉を上げた。冗談で投げたつもりの言葉に、まるで否定する気もない返答が返ってきたからだ。けれど彼女はそれ以上問い詰めなかった。問い詰めるほど野暮ではないし、このガールは答えないだろうと直感していたからだ。代わりに話題を変えるように、棚に並ぶ瓶を見やりながら言った。
「ねぇ、知ってる?この辺じゃ『シズナギ』って呼ばれてる連中の噂が流れてるの。ま、伝説みたいなもんだけどさ。」
スロスは反応を示さなかった。ただ静かにコーヒーを飲み続ける。だがその瞳の奥には一瞬だけ揺らぎが生まれた。フランはそのわずかな変化を見逃さない。
「ほら、冗談よ冗談。どうせ誰かの与太話でしょ。昔からいる化物狩りの亡霊だとかなんとか。信じてるわけじゃないけど、こういう噂話って退屈しのぎになるじゃない?」
スロスは小さく息を吐き、低い声で応えた。
「……イカタコなんて、噂で興奮したがるものだ。」
フランは一瞬黙り、やがてクスリと笑った。
「なるほどね。あんたが言うと妙に説得力あるわ。」
会話はそれきり途切れた。店内にはコーヒーの香りと古時計の針の音だけが残る。
スロスは静かにカップを置き、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。
そこには数字と短い単語が書き込まれている。フランはそれを盗み見るように目を細めたが、意味を読み取ることはできない。ただ彼女が何かを探しているのは間違いないと感じた。
フランは一瞬、手元のカップを拭う手を止め、視線をカウンター越しに向けた。薄暗い店内に灯るランプの光が、スロスの無表情を切り取るように照らし出す。
その目は泳がない。ただ一点を見据え、沈黙の中に答えを探しているかのようだった。フランは小さく息を吐くと、無理に笑みを作らずに声を落とした。
「あんたさ、前から思ってたけど…ただ珈琲を飲みに来てるわけじゃないよね。」
スロスは顔を上げ、ほんのわずかに片眉を動かした。無言のまま、手元のカップを持ち上げて喉を潤す。返事をする気はないらしいが、沈黙そのものが答えに近い。フランは慣れたように肩を竦め、言葉を続けた。
「ここに来る奴ら、だいたいわかるんだ。疲れてる連中、隠れたい連中、情報を拾いに来る連中、色々ね。けどあんたはちょっと違う。探してる。そういう匂いがする。」
スロスは黙ったまま視線を落とす。その仕草の端々に、言葉ではなく存在そのものが真実を滲ませていた。彼は否定しない。肯定もしない。だがその沈黙は、むしろ言葉以上に雄弁だった。
フランはその無言を受け入れるように、カウンターの奥から新しいカップを取り出し、コーヒーポットを傾ける。琥珀色の液体が湯気を立てながら注がれ、ほのかな香りが空気に漂った。
店内にいる数少ない客たちは、それぞれ新聞を広げたり、煙草を燻らせたりしている。誰も二人の会話に耳を傾ける素振りはない。だが、この静けさこそが逆に緊張感を強める。
フランは声を潜め、少し探るような調子で呟いた。「…この街で探し物なんて言ったら、大体二つに一つくらいかしらね。失くした人間を探してるか、あるいは化物の巣を探してるか。」
スロスの手が止まった。微細な反応。フランの瞳はその一瞬を見逃さない。だが彼は追及しない。ただ続ける。
「まあ、どっちにしろ命がけ。けどね、時々考えるんだ。あなたみたいに妙に落ち着いてる奴は、本当に探してるのは別のものなんじゃないかって。」
フランはふっと口元を歪め、冗談めかして言った。「例えば…伝説のシズナギ、とかさ。」
その言葉に、空気がわずかに変わった。スロスの視線がフランへと向く。揺れない、だが深い瞳の奥で何かが微かに軋んだ。フランはそれを見て、すぐに両手を広げて笑う。
「冗談だよ。あんなの、ただの昔話だ。誰かが勝手にでっち上げた伝説さ。海の向こうから現れて、どんな化物も一太刀で斬り伏せたなんてね。物好きが酒の肴にするぐらいの話。」
スロスは表情を変えない。だが、その沈黙の質が変わった。さっきまでの空白の沈黙ではなく、何かを押し殺すような重さが宿っていた。フランはその変化を肌で感じ取りつつも、深く踏み込むことはしない。ただカウンターの上にカップを置き、湯気越しに小声で続けた。
「…でももし、ほんの一握りでも本当だったら。今のこの街に必要なのは、案外そういう奴かもしれないね。」
スロスは視線を逸らし、窓の外を見た。夜の街路は霧がかかり、遠くでネオンが滲む。彼女の中に去来する記憶が、言葉にならずに胸の奥を掠めていく。彼女はカップを持ち上げ、一口啜る。熱い液体が喉を焼く感覚に紛れて、心の中のざわめきを押し殺した。フランはそんな彼を観察しながらも、敢えて話題を逸らすように言った。
「ところで、あなた最近よく来るけど、この店は気に入ったかい?」
スロスはわずかに頷いた。
フランは小さく笑い、
「それなら良かった。」
と言いながら棚に置いた古い瓶を磨き始める。彼の仕草は何気なく、だがそれは客を警戒させないための経験に裏打ちされた動きだった。
喫茶店は安全な場所であるという演出。その裏で、確かに情報は流れている。フラン自身、それを理解した上で、線引きを徹底していた。
「必要以上の情報は渡さない。けど、必要なイカタコには匂わせる。」
それが彼女のやり方だった。スロスはその匂わせを感じ取っているのか、いないのか。彼女の沈黙は相変わらず堅牢で、感情を読み取ることは難しい。
だがフランは、直感的に理解していた。この女はただの流れ者ではない。背後に、何か大きな影がある。化物に繋がるのか、イカタコに繋がるのか、それはわからない。だが、ただコーヒーを飲みに来ているわけでは決してない。その確信が、会話の合間ごとに強まっていく。フランは静かに笑い、言葉を落とした。
「ま、何を探してようが、ここじゃ深追いしないさ。ただ、もし化物絡みなら、あんたのことを知りたがる連中は山ほどいるだろうね。」
スロスの手が再び止まった。だが今度は、すぐに動いた。スロスは一度カップを置く。表情は相変わらず無表情だが、その瞳にはかすかな決意の色が灯っていた。
フランはそれを見て、軽く肩を竦めた。探しているものが何であれ、この女は引き返さない。そんな確信が、胸の内に静かに広がっていった。
フランはグラスを拭きながら、わざとらしく明るい声を出した。
「そういや、あなたが来るたびに頼むのは決まってブレンドだね。ここの苦味が気に入ったのか、それともクセが少ない方が考え事には都合がいいのか…。」
返事はない。ただカウンター越しに漂うコーヒーの香りと、スロスの変わらぬ無言。けれどフランは慣れている。言葉がなくても、会話は成立する。長年、この街のイカタコ模様を見続けてきた結果だった。彼女は続ける。
「まぁ私もね、余計なことばかり考えるのさ。誰が何を探してるか、誰が何を隠してるか、勝手に頭ん中で並べて遊んでる。」
スロスの瞳が一瞬だけ動いた。フランはそれを見逃さない。探しているのは誰かか、何かか。まだ断定はできないが、確かにこの女はただ座っているだけじゃない。彼の沈黙には、意志の重さが潜んでいる。
カウンターの隅で新聞を広げていた老人が、ぼそぼそと記事を読んでいる。その声に混じって
「またチーターが消えた。」
という言葉が耳に入った。フランの手が止まり、目だけがスロスを捉える。だがスロスは微動だにせず、ただカップの縁に指を置いていた。反応はない。それでも、この無反応こそが逆に答えだとフランは感じた。
老人はやがて立ち上がり、足を引きずるように店を出て行く。ドアベルが小さく鳴り、再び店内に静寂が戻る。フランは声を落とした。
「…この街じゃ、化物が狩られてるって噂がある。妙な話でしょ?普通なら逆、イカタコが狩られるのが常だってのに。」
スロスは無言。だが、わずかに瞳の奥に光が揺らいだ。フランは続ける。
「私はね、そういう噂を信じちゃいない。けど、事実として化物が減ってるのは確か。誰かが動いてる。しかも二匹…そういう話もある。」
沈黙。だがフランは構わず畳み掛ける。
「あんたも、そいつらを追ってるんじゃないのかい?」
返答はない。けれど、沈黙が以前より濃くなった。フランはそれを肯定と受け取り、微かに笑った。
「…ま、いい。余計な詮索はしないわ。けど、もし本当にそんな奴らがいるなら、私としては歓迎だよ。俺たちが夜を過ごすこの街が少しでも安全になるなら、それに越したことはない。」
スロスはゆっくりと視線を窓の外に向けた。霧に煙る街路に、遠くでイカタコの影が揺れている。彼は何も言わない。だがその横顔には、戦場を歩んだ者だけが持つ鋭さが滲んでいた。フランはその影を見逃さず、心の中で呟く。
この女はただの客じゃない。もっと深いところで、確かに化物と繋がっている。あるいは、それ以上の存在かもしれない。
フランは何気ない調子で言った。
「そういや、伝説のシズナギの話をしたっけな。」
スロスがわずかに顔を戻す。フランは冗談を装い、煙を吐きながら話を続ける。
「海を渡ってやってきて、どんな怪物でも一太刀で斬り伏せた剣士。名を聞いただけで化物が逃げ出したなんてな。笑えるでしょ?どうせ酒場で誰かが盛った与太話だけど。」
スロスの瞳が一瞬だけ細められる。フランはその反応を見て、心の中で確信を強めた。何かを知っている。けど表には出さない。彼女はそういうイカだ。フランはカウンターに肘をつき、声を潜めた。
「けど…冗談半分で言うけど、もし今のこの街に本当にシズナギがいたら、どれだけ心強いかと思うんだよ。」
スロスは答えない。ただ沈黙で返す。だがその沈黙の奥に、言葉では語れない重みがあった。フランは笑い、肩を竦めた。
「夢物語さ。まあ、私はそういうの好きだけどね。」
そう言いながらも、心のどこかで期待している自分を否定できなかった。
フランは笑いながらも視線を逸らさず、客席の奥に置かれた古びた時計の音に耳を傾けていた。秒針が刻む乾いた音が、この沈黙を余計に際立たせる。だがスロスは変わらず無言。彼が何を思っているのか、フランには掴み切れない。それでもいい。言葉を交わさなくても、この場の空気が雄弁に物語っていた。
誰もいないカウンター、かすかに漂う焙煎豆の香り、そして夜の霧を透かして射し込む街灯の淡い光。ここは街の隅にある小さな店だが、その沈黙は戦場にも似た緊張を孕んでいる。フランはブレンドを一口すする。
「……まあ、伝説の剣士の話はさておき。最近は妙に物騒でしょ?昼間だって妙なラグが走ったり、イカタコの影が急に消えたり。表じゃ機材の不具合だなんて言ってるが、私は違うと思ってる。」
無反応。だがフランは続ける。
「この前、目の前で客が急に消えたんだよ。コーヒーを半分残したまま、影も音もなく。……あんなのを不具合なんて言えると思う?」
スロスの指が、カップの縁から僅かに離れた。ほんの一瞬の仕草だが、フランは見逃さなかった。
「やっぱり、あんたも知ってるのか…。」
「ええ。」
その後の沈黙が全てを物語っていた。外では風が強まり、看板がカタカタと揺れる音が響く。フランは目を細め、ため息を吐いた。
「この街は、もう限界かもしれない。正直言って、私達普通の連中じゃどうにもできない。だからこそ…誰かが動いてる。そういう噂を聞くたびに、心のどっかで期待してるんだよね。」
フランはカウンターを拭きながら、さらに声を落とす。
「……ただ、妙なんだよ。化物が倒された跡があるのに、誰もその現場を見てない。死体の残し方が違う。銃痕があるやつもいれば、切り裂かれたやつもいる。二人組なのか、それとも全く別の連中が動いてるのか…。」
フランの視線がスロスに突き刺さる。返答はない。だが彼の沈黙の奥には、確かな重みが潜んでいた。
店のドアが再び開き、若い女客が入ってきた。傘を畳みながら席に腰を下ろし、カフェオレを頼む。その声に遮られた会話は一旦途切れるが、フランの意識は常にスロスに向いたままだ。注文を受けてカップを用意しながら、彼女はわざとらしく軽い調子で口を開いた。
「ああ、それともう一つ。これは完全に与太話なんだけど…街の裏では不正者狩りなんて呼ばれてる奴らがいるらしい。名も顔も知られてないが、化物にからしたら悪夢のような存在だって囁かれてるとか。」
客がいない方の耳にだけ届くように、小さな声で言った。スロスの目が一瞬だけ光を帯びる。
フランはその反応を胸にしまい込み、笑ってごまかした。
新しい客にカフェオレを出し、彼女が雑誌を広げ始めたのを確認してから、フランは再びカウンターに戻る。そして、声を潜めて言った。
「……ただ、私は思うんだよ。もしそんな連中が本当にいるなら、そいつイカタコには是非ともこの街を守り切ってほしいってね。」
それは独り言のようでいて、確実にスロスへ投げられた言葉だった。
彼女はコーヒーを飲み干して立ち上がり、ポケットから数枚の紙幣を取り出してカウンターに置く。フランは受け取りながら、何も言わない。ただ、その瞳で彼を見送る準備をしていた。
スロスはドアに向かって歩き、取っ手に手をかける。外の霧が漏れ込む隙間から、冷たい風が吹き込む。去り際、フランは声をかけた。
「……あんたが何者かなんて聞かないさ。でも、もしも本当に狩ってる側だとしたら…」
言葉を切り、わずかに笑う。
「どうか生きて帰ってきてね。そうでないと、次のブレンドは淹れられないし。」
スロスは振り返らない。ただ肩をわずかに揺らし、夜の霧の中へと姿を消した。ドアベルの音が短く響き、店内に再び静けさが戻る。
残されたフランはカウンターに戻り、冷めかけた自分のカップを手に取った。苦味の残るコーヒーを口に含みながら、彼女は心の中で呟く。
あの沈黙の裏には、確かに戦いの匂いがある。きっと、またここに現れるだろう。その時は、私が淹れた一杯で少しでも疲れを和らげてやりたいものだ。