BAR Schwarzの奥にある
VIPルームから出てきたアラインは
静かに扉を閉じると
ほんの一瞬だけ
その蝶番に視線を落とした。
中には、もう動かなくなった女の身体。
だが
目を伏せることも
罪を意識することもない。
「⋯⋯役目は、果たしてくれたよ」
小さく呟いたその声は
感謝とも賞賛ともつかない。
ただ
用済みとなった存在にかけるには
充分な温度だった。
すでに店のスタッフが廊下に控えていた。
アラインが軽く指を動かすだけで
二人のスタッフが音もなく進み出て
髪の一本も残さぬよう慎重に
女の亡骸を回収していく。
アラインは振り返りもせず
カウンターへと戻っていった。
そして
背後の壁面の鍵を開けると
そこから一冊の黒い手帳を取り出す。
表紙には何の文字も刻まれていない。
だが、その中には──
作戦、配置図、記憶の上書きリスト
洗脳済の関係者一覧。
彼の手の中でしか存在を許されない
〝神のノート〟だった。
指先でページを一枚捲る。
中ほどに、小さく挟まれた資料用紙。
そこには
ある部隊の編成図と
記憶操作を施した対象の
〝チェック〟が丁寧に記されている。
そのチェック欄をひとつ
親指で印をつけながら
アラインは
愉悦の吐息を漏らすように笑った。
「⋯⋯ふふ。
一度、やってみたかったんだよねぇ?」
銀のグラスを片手に
ワインの縁に口を寄せながら
まるで恋人との会話でも楽しむように
カウンターに肘をつく。
「〝軍の指揮官〟
ちょっとした憧れだったんだ。
子供の頃、施設で見た絵本の
将軍が好きだった。
命令ひとつで
街が燃えるのが楽しかった。
それが⋯⋯⋯ようやく叶ったよ」
鏡越しに自分の瞳を見つめる。
その目に
ひと欠片の迷いも後悔も、見えなかった。
「本当は
連隊規模が借りられたら
最高だったんだけど⋯⋯」
手帳を閉じ、また鍵をかける。
「大隊でも
充分に〝彼等〟を疲弊させることはできる。
勝つ気なんて、さらさらないよ?」
語るその横顔は笑っていた。
けれど
その笑みの奥に潜むのは
計算された破壊衝動。
「ねぇ、戦いって、壊し合いって⋯⋯
何も勝者だけが
目的を果たすわけじゃないんだ。
〝疲弊〟って
最高の副作用だと思わない?」
彼の視線が
奥の扉の方へと、ふと向けられる。
そこにはいない。
だが確かに
記憶の中に焼き付いている〝二人の男〟
──着物の裾を翻し
無表情で人を散らす読心術の男。
──額から血を流しながら笑い
重力を殺戮に変える狂犬。
「⋯⋯ねぇ、時也。
ねぇ、ソーレン。
キミたちの〝美しい暴力〟を
もっと見たいと思うのは⋯⋯ボクだけ?」
声に熱が乗る。
頬が微かに上気していく。
たった今
抱いたばかりの女の死にすら
何の意味もない。
本当の昂りは
彼等を想起することでしか得られない。
アラインは
ゆっくりと椅子から立ち上がった。
カウンターの裏手
格子棚の奥に隠された通信機へと歩み寄る。
何層もの記憶改竄を経て掌握した
軍内の──回線。
名目上
存在していないことになっている大隊が
すでに移動を開始している。
マイクを手に取り、艶やかに微笑む。
「──Schwarzより。
命令番号δ。
第二大隊、予定通り投下。
目標は〝桜の丘〟および周辺。
編成に記録は不要。
あくまでこれは⋯⋯
〝夢〟だったってことで」
通信を切ると
深紅のカーテンが静かに揺れた。
「さあ⋯⋯舞台は整ったよ。
ボクの〝指揮官ごっこ〟⋯⋯
どこまでキミたちが壊してくれるか
見せてよね?」
その声には
子どものような無垢さと
神のような残酷さが同時に宿っていた。
狂気の指揮官。
その第一歩は
今、音もなく踏み出された。
⸻
「店は、任せたよ?
ボクは⋯⋯ 大隊の壊れゆく姿を
見に行かないと、ね?」
カウンターの棚の鍵を掛け
ネクタイを軽く締め直すと
アラインは扉へと歩を進めた。
高級感と静寂に包まれた
BAR Schwarzの扉が
ゆっくりと開かれる。
外の空気は
夜風に乗って鉄と油の匂いを含んでいた。
既に〝迎え〟は到着していた。
黒い塗装の装甲リムジン。
そのボンネットには
軍の特殊任務指揮車両であることを示す
徽章が刻まれ
ヘッドライトの中には
防弾ガラス用の黒いフィルターが
仕込まれていた。
運転席から降りたのは
精悍な顔立ちの中佐階級の男。
だが
その目には明らかに
不安と戸惑いの色があった。
〝この男を迎えに来い〟
という命令に従ってはいるが
それが何を意味するのか
誰も本当には知らされていない。
ただ、命令は命令。
軍人とは、上官の顔が誰であれ
命令に従うもの。
アラインは
胸元のネクタイピンを整えながら
その不安げな中佐を優雅に無視して
車体へと乗り込んだ。
革張りのシート。
司令官仕様の後部座席には
内蔵された作戦モニターと情報端末。
軽量タブレットには
今夜の作戦の進捗状況が
リアルタイムで送られていた。
「⋯⋯さあ。
もう一つ、舞台の幕が上がるよ」
彼はそう呟くと
座席の窓越しに遠くを見やった。
──そこにあった。
月に照らされる〝桜の丘〟
静かに佇むその丘が
まるで神域のように光っていた。
それを見下ろす絶好の高台に向けて
車は音もなく発進する。
遠くの空に、ローター音が響き始めた。
複数の輸送用ヘリコプターが
夜空に浮かぶ。
機体には迷彩を施された国籍不明の標章。
搭載しているのは兵員のみならず
短距離ミサイルと
20mm機関砲を装備した武装車両。
そしてその後方からは、地上を進む車列。
先頭にはM117指揮通信装甲車両
その後に続くのはIFV
さらに小型ドローンを搭載した
ハンヴィー車両と、物資輸送車。
兵士たちは軽機関銃と
カービンライフルを携え
統制の取れた歩幅で行進していた。
構成は大隊規模──約800名超。
だが
この大隊の兵士たちは皆
アラインのことを
「高官の命令で同行している外部参謀」
程度にしか認識していない。
記憶改竄は、現場指揮官クラスに限定。
兵士たちは
上官の命令に従うことで
動いているにすぎない。
アラインの本当の力も目的も
誰一人として知らない。
だが、構わない。
それで十分だ。
「⋯⋯あとは
疲弊してくれればそれでいい」
アラインは
窓の外を流れる軍の行進に目を細めた。
「勝つ必要なんて、無いんだよ?
ただ、彼等の呼吸を乱せば、それで良い」
その口元に
かすかに熱を帯びた笑みが浮かぶ。
⸻
一方その頃──
喫茶 桜、居住スペースのリビング、
静かな夜、談笑が続いていたその中
アリアがふいに席を立った。
それは、極めて稀なことだった。
無言のまま
白いドレスを揺らし
玄関の扉を開いて外に出る。
金の髪が夜風に揺れ
深紅の瞳が月の向こうに何かを見据える。
「⋯⋯何か、ありましたか?」
背後から追いついた時也の問いに
アリアはほんの少し、顔を傾ける。
「⋯⋯⋯⋯⋯来る」
その一言に
時也の表情が静かに引き締まる。
彼もまた
遠くの空に聞こえ始めた重低音に
耳を澄ました。
「青龍⋯⋯貴方なら、聴こえますか?」
玄関から姿を現した幼子が
夜風を受けながら目を細める。
「⋯⋯命の気配は⋯900近くございます」
数字を口にした瞬間
時也達の様子に窓を開けて
菓子をつまんでいたレイチェルが
クッキーを落とす。
「えっ、桁⋯⋯!?
あっ、待って、それヤバくない!?」
時也は
アリアの腕の中に収まっていた
ティアナの頭を優しく撫でた。
「ティアナさん。
お店を結界で護っていただけますか?」
白猫は一声、低く鳴いた。
それはまるで
「任せなさい」と
言わんばかりの短い返答だった。
「アリアさんは、中へ⋯⋯
ドレスが汚れたら、大変ですから。
青龍。貴方はアリアさんのお傍に」
「御意」
青龍は、アリアの手を取ると
中へ導いていく。
「こんな時に⋯⋯
お前はドレスの心配なのかよ」
ソーレンが
気配も殺さずに背後から並び立つ。
その顔には
いつものぶっきらぼうな笑み。
「ふふ!ま、時也さんらしいわよね!」
レイチェルも玄関の扉をくぐりながら
空を仰ぐ。
「アリアさんが出ちゃったら⋯⋯
この街、地図から消えちゃうかもだし」
空の向こうには
小さな無数の影と、瞬く光。
それは、ヘリの編隊が空を裂く光。
地上では戦車の履帯が鳴り
兵士たちが前進を開始していた。
そして丘の遥か遠く
月光に照らされた高台から
ひとりの男が
静かに彼等の消耗を見届けようとしていた。
その目には
勝利でも敗北でもない
ただ──
〝どれだけ壊れるか〟
という期待だけが浮かんでいた。
コメント
1件
静寂を破ったのは、人知を超えた力。 三人の異能が、大隊規模の軍を無惨に崩壊させる。 壊すためでも、勝つためでもない。 疲弊だけを狙った、冷たく美しい破壊劇──