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それは、土曜日の昼下がりのことだった。
ようやく新生活のリズムが整い始め、俺はソファで二人の頭を撫でながら、のんびりとテレビを眺めていた。膝の上には黒猫、脇には白猫。これ以上ない平和な時間。だが、テーブルの上に置いたスマートフォンの通知音が、その静寂を切り裂いた。
『――来週の打ち合わせの件ですが、もしよろしければ夕食でもいかがでしょうか? 楽しみにしております。』
画面に表示されたのは、仕事相手の担当女性からの連絡だった。俺が返信しようと手を伸ばした瞬間、二人の空気が一変した。
「⋯⋯ご主人様。⋯⋯これ、なに。⋯⋯『楽しみ』って、なに」
膝の上で丸まっていた黒猫が、音もなく身を起こした。彼女の瞳が、獲物を狙う獣のように細く、鋭く光る。
「ちょっ、まっ……! ねえご主人様、これマジで言ってる? このオンナ、絶対ご主人様のこと『いいな』って思って誘ってるでしょ! アタシには見え見えなんだからね!?」
白猫がガバッと俺の肩を掴み、身を乗り出して画面を覗き込んできた。怒りで、隠していたはずの白い耳が外向きに反り返っている。
白猫は「シャーッ!」と小さく喉を鳴らし、俺の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「⋯⋯仕事、⋯⋯建前。⋯⋯この女、⋯⋯ご主人様を狙ってる。⋯⋯アタシには、わかる。⋯⋯行かせたくない」
黒猫も無表情なまま、けれど隠しきれない独占欲を纏って俺の腕を掴んだ。彼女の爪が、パーカー越しに俺の肌に食い込む。
「いや、違う。これは仕事の……大事なプロジェクトの話なんだよ。どうしても行かなきゃいけないんだ」
「頼む、これに行かないと仕事にならないんだ。信じてくれ」
必死の説得に、二人は顔を見合わせた。長い沈黙のあと、白猫が悔しそうに唇を噛みながら、俺の耳元で熱く囁いた。
「……分かった。そこまで言うなら行かせてあげる。……でも! その代わり、その女に『あんたの入る隙なんてない』って分からせるくらい、アタシたちの匂いを全身に染み込ませてからじゃないとダメだからね!」
「⋯⋯ん。⋯⋯アタシたちの、所有物。⋯⋯誰が見てもわかるように、⋯⋯おまじない、する。⋯⋯じっとしてて」
それからは、痛みよりも「温もり」で俺を縛り付けるような、濃密なマーキングが始まった。
白猫は俺の正面にぴたりと密着し、俺の首元に鼻を押し当てた。
「ほら、じっとして。アタシの匂い、しっかり付けてあげるから」
彼女は自分の頬を、俺の首筋や顎のラインに何度も、何度も優しく擦り付けてくる。猫が親愛の情を示す「すりすり」だが、人間の少女の姿でやられると、髪の香りと柔らかな肌の感触に意識が飛びそうになる。
「ふふ、ご主人様のここ、アタシの匂いでいっぱい……」
一通り匂いを付け終えると、白猫は真剣な顔つきになり、俺の心臓の真上のあたりに手を置いた。
「……これ、アタシたちの特別なおまじない。他のオンナに触られないように。もし触られても、すぐにアタシを思い出すように」
そう言って、彼女は俺のシャツの上から、自分の額を「ごん」と優しく突き当てた。猫が愛情を込めて行うヘッドバット――猫流の、絆を固めるおまじないだ。
一方で、黒猫は俺の手を抱え込み、自分の頬を俺の手の甲に擦り寄せた。
「⋯⋯アタシも。⋯⋯ご主人様の指先にまで、⋯⋯アタシのおまじない、混ぜる」
彼女は俺の手を自分の顔に導き、うっとりと目を閉じながら、鼻先を指の間に滑り込ませる。そして、そっと唇を触れさせるだけの、羽毛のようなキスを手の甲に落とした。
「⋯⋯ん、⋯⋯これでよし。⋯⋯もしその女が、ご主人様に触れようとしたら⋯⋯このおまじないが、バリアになる。⋯⋯ちゃんと、ガードしててね」
白猫の情熱的なヘッドバットと、黒猫の静かな誓いのキス。
二匹の猫娘による「おまじない」という名のマーキング。荒々しい暴力性はなく、ただひたすらに俺を自分の温もりで包み込もうとするその姿は、痛いほど俺への愛情に満ちていた。
「……これなら、怪しまれないか。ありがとうな」
「当たり前! さ、早く行って早く帰ってきてよね。アタシたちの匂いが消えちゃう前に!」
「⋯⋯いってらっしゃい。⋯⋯お土産は、⋯⋯ご主人様の無事だけでいい」
玄関で見送る二人の瞳は、少しだけ寂しそうで、けれど誇らしげに俺の背中を見つめていた。俺は首元に残る微かな彼女たちの温もりと、手元に残る柔らかい感触を感じながら、夜の街へと踏み出した。