テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#水赤
第4話
脱衣所のドアが開き、湯気と一緒にないこが出てきた。
「……ただいま」
ぼそりと溢れたその言葉に、俺の心臓が一瞬跳ねあがる。
ただいま、か。俺が与えた仮初の居場所に戻ってきた言葉。それがどれだけ無頓着に放たれたものでも、胸の奥が痛いくらいに熱くなる。
「……おかえり」
思わず返した声が、少し掠れていた。
見上げると、俺の部屋着を着たないこが立っていた。
サイズ感は意外とピッタリだった。身長差なんて言われてみれば5cm程度しかない。なのに俺の目に映る彼は、骨張った鎖骨や細すぎる手首のせいか、どこか今にも壊れてしまいそうに小さく見えた。
髪から滴る水滴が、首筋を伝って服の襟元に染み込んでいく。
「……サイズ、大丈夫そうでよかったわ。なんかあんた、細すぎて折れそうやから、もっとブカブカになるかと思ってた」
俺はソファから立ち上がり、準備していたバスタオルをもう一枚手に取ると、ゆっくりと彼に近づいた。拒絶されるかもしれない恐怖に耐えながら、優しくその頭の上にタオルを被せる。
「髪、ちゃんと拭かんと冷えるで。せっかくお湯で温まったんやから」
タオルの上から、壊れ物を扱うみたいにゆっくりと髪の水分を拭き取っていく。
至近距離から漂う、俺と同じシャンプーの匂い。
それがたまらなく愛おしくて、同時に「この人を俺の勝手で閉じ込めている」という底なしの罪悪感が胸を締め付けた。
「……喉、乾いてへん? 冷たい水か、温かいお茶、どっちがええ?」
拭く手を止めて、タオルの隙間から彼と目を合わせる。
髪が濡れて少し幼く見える顔立ち。その奥にある、相変わらず光のない瞳。
「…それかもう寝る?」
俺の顔を嫌そうに見つめてくれてもいい。
無言のまま無視されてもいい。
ただ、俺の手の届く範囲で息をしていてくれるだけで、俺はどこまでも狂っていけそうだった。
「水飲む」
「おん、分かった。水な」
俺はタオルを彼の肩に優しく掛け直すと、キッチンへ向かった。
冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し、グラスに注ぐ。カランと音を立てる氷の音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。
グラスを手にして戻ると、ないこは部屋の真ん中で頼りなく立っていた。
どこに居場所を見出せばいいのか分からないみたいに、ただぼんやりと空間を見つめている。
「ほら、どうぞ」
グラスを差し出すと、細い指先が俺の手からそれを受け取る。
触れ合った瞬間の皮膚の感覚に、俺の胸はまた浅ましくも小さな歓喜を覚えた。
ないこがグラスに口をつけ、静かに喉を鳴らして水を飲んでいく。
その一口一口が、彼の中に「生」を繋ぎ止めているようで、俺は息を殺してその姿を見つめていた。
ソファの端をぽんぽんと叩く
「立ってないで座って。……俺が近くにおるの嫌やったら、ベッド使ってくれてええから。俺は今日、このソファで寝るし」
彼が望むなら、この部屋のすべてを譲ってもいい。
俺の存在が彼にとって毒であっても不快であっても構わない。ただ、この狭い部屋の中で、彼が少しでも息を吸いやすければそれでよかった。
「明日からは、ないこの好きなもん全部揃えるからな。欲しい服も、食べたいもんも、何でも言って。……俺の金、全部好きに使ってええんやから」
グラスを握る彼の美しい指先を見つめながら、俺は歪んだ愛おしさを抑え込むように、深く息を吐き出した。
「じゃ、寝よか。おやすみ」
「…え、悪いよ。なら俺がソファー…てか床でいいし」
「床て……アホなこと言うな」
呆れたように半ば苦笑いを漏らしながら、俺はないこの手から空になったグラスを受け取り、テーブルの上に置いた。
「ないこ、自分が病み上がり……ていうか、さっきまで冷たい夜風に吹かれて死に丸腰やったこと忘れてへん?そんな細い身体で床なんかで寝たら、一発で風邪ひくわ」
俺はベッドを指差し、断固とした態度で首を振る。
「客人……いや、俺が無理やり連れてきた大事な人なんやから、ちゃんとベッドで寝て。シーツも洗いたてやし、ふかふかで気持ちええはずやで」
自分のエゴで連れてきた男を床で寝かせるなんて、いくらなんでも惨めすぎる。
嫌われているのは百も承知だし、拒絶される覚悟だってできている。それでも、彼を甘やかすこと、彼の「生きる負担」を俺の金と体で引き受けることだけが、今の俺に許された唯一の罪滅ぼしであり、彼を繋ぎ止める鎖だった。
「俺はどこでも寝れるし、ソファで十分だから。……それとも何? 俺と同じ部屋は嫌?」
自分の惨めさに小さく笑いながら、俺は押し入れから予備の毛布を取り出し、ソファの上に広げた。
「いや…」
「ほら、さっさと入って暖かくして寝て。……ないこがちゃんと寝たの確認するまで、俺はここに居座るからな」
暗い瞳でこちらを見つめるないこから視線を逸らさずに、俺はただまっすぐ、彼に微笑みかけた。
「あーもう、そうじゃなくて…!俺がやなんだよ」
「……え?」
思わず、素で間抜けな声が出た。
言葉の意味を脳が理解するより早く、腕をぐっと強い力で引っ張られる。
細くて折れそうな手首のどこにそんな力があったのか、不意を突かれた俺の身体は、あっけなく前傾姿勢になって立ち上がらされた。
目の前には、相変わらず感情の読めない、でも少しだけ不満そうに眉をひそめたないこの顔があった。
「……一緒に寝よ」
ぽつりと落ちたその一言が、俺の頭の中を真っ白にする。
「……は、一気に距離詰めすぎやろ…」
動揺を隠しきれず、声が裏返る。
嫌われているはずだった。見知らぬ男に身勝手なエゴで命を救われ、強引に連れてこられて、不快感と不信感でいっぱいなはずなのに。
なのに、何だその提案は。
一人で寝るのが嫌なのか。それとも、俺を一人でソファに寝かせることに変な毒気を抜かれたのか。どっちにしろ、俺の想定を軽々と飛び越えていく彼の言動に、心臓が痛いくらいに早打ちを始める。
「……俺と寝たら、襲われるかもとか思わんの? 俺、あんたに一目惚れしたんやで? 最低で身勝手な男なんだけど」
「そんなことしないでしょ」
必死で牽制するように言ってみせるけれど、繋がれた腕から伝わる体温のせいで、全く説得力がない。
ないこは俺の返事を待つこともせず、俺の手を引っ張ったままベッドへと歩き出した。
まるで、幼子が大きなぬいぐるみを引っ張っていくみたいに。
「……ほんま、意味わからん奴」
呆れたように溜息を漏らしながらも、俺の口元は緩んでしまっていた。
断る理由なんて、最初から一ミリも存在しない。
ベッドの縁に腰掛け、そのまま引きずり込まれるようにして、俺たちは二人で狭い布団の中に潜り込んだ。
同じ柔軟剤の匂い。
俺の体温と、まだ少し冷たさの残るないこの体温が、薄い布切れ一枚を挟んで混ざり合っていく。
「……狭かったら言えよ。俺、身体デカいから」
背中を丸め、彼を押し潰さないようにそっと距離を保とうとする。
死にたがっていたはずのこの男が、今、俺の腕の届く距離で静かに息をしている。
俺の惨めな欲望も、死への恐怖も、全部この冷たい体温の中に溶けていくようだった。
「……おやすみ、ないこ」
暗闇の中、俺は静かに目を閉じた。
コメント
1件
みぃです🤍🥀 第4話、読み終わりました…っ おかえりって言うシーンからもうグッときて、一緒に寝よって言われた時の主人公の動揺、声裏返っちゃうとこ、めっちゃわかります…好きすぎて壊れそうなのに、拒絶される覚悟もしてて、でも優しくしたいって気持ちが溢れてて。 「俺の金全部好きに使ってええ」って歪んだ愛情表現、凄く刺さりました。 ないこが自ら距離を縮めてきたのが、この後の展開どうなるんだろうってドキドキします。続き楽しみにしてます🌙