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伊織
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「いらっしゃい! そこの仲良しカップル! 建国祭前の特別価格、麦酒一杯200ルクだよ! 寄っていきな!」
路地を出た大通り。店先に立っていた恰幅のいい中年女性に声をかけられ、私たちは足を止めた。
「……カップル」
隣で、カイル殿下がぽつりと呟く。 見上げると──口元をキリッと引き締めているものの、隠しきれない笑みが漏れ出ていた。
「行くぞ、ソフィ」
「あ、ちょっと!」
誤魔化すように、さっさと店へ入っていく。
(……そんなに『カップル』って呼ばれたのが嬉しいわけ?)
(分かりやすすぎでしょ!)
店内は前日祭とあって、すでに大賑わいだった。
「女将さん、こっち麦酒二つ!」
「はいよ! 今持ってくよ!」
香ばしく焼けたソーセージに、じゃがいもとチーズの重ね焼き。さっき私たちを呼び込んだ女性――どうやらこの酒場の女将らしい――が、忙しそうに店員たちへ指示を飛ばしている。
カイル殿下には黒麦酒。お酒に弱い私には果実水が運ばれてくる。
カラン、とグラスを合わせる。
彼が黒麦酒を一口あおる横で、私はソーセージにかぶりついた。
(……さっきまで大喧嘩してたなんて、誰も思わないでしょうね)
避妊薬。強壮薬。痴話喧嘩。
そして――なぜか、正式に恋人になった。
(ほんと、どうしてこうなったのよ……)
そのとき。酒場の一角にいた楽団が、陽気な曲を奏で始めた。手拍子とアコーディオンの軽快な音色に合わせ、客たちが次々と店の中央へ繰り出し、手を取り合ってステップを踏み始める。
「お二人さんもどうだい! 前日祭なんだ、踊らなきゃ損だよ!」
さっきの女将が、楽しそうにこちらへ声をかけた。
「行くぞ」
「ええっ!?」
カイル殿下に手を取られ、そのまま人の輪の中へ引っ張り込まれる。
「ちょっと、カイ! 社交界のワルツとは勝手が違いますわよ?」
「合わせる」
「簡単に言って――きゃっ!」
横を通り抜けた客とぶつかりそうになり、よろける。すぐさま大きな手が腰へ回り、ぐっと引き寄せられた。
「危ない」
「…………っ」
もう片方の手で指を絡められ、そのまま彼のリードに合わせてステップを踏む。
(……意外とうまいじゃない)
「こういう踊り、知ってるんですの?」
「騎士団の連中がよく踊っている。何度か見た」
「見ただけで踊れるんですの!?」
「見れば流れは分かる。これくらいならできる」
「…………」
(というか、顔が良すぎるせいで何やっても様になるのよね……)
「何だ?」
「何でもありませんわ!」
「そうか?」
くるり、とターン。スカートがふわりと広がる。曲が終わると同時に、周囲から拍手と歓声が上がった。
「ふぅ……」
息を整えた、そのとき――。
「そこの可愛いお姉さん! 次の曲、俺と踊らない?」
陽気な町人風の男が、私の手を取ろうと割り込んできた。
「えっ――」
「すまないが」
ぐいっ。カイル殿下の腕が、私の肩を抱き寄せた。
「俺の恋人だ。触るな」
「ひっ……!?」
「わ、悪かったって!」
男の顔が引きつり、そそくさと人混みへ消えていった。
(……恋人)
ついさっき始まったばかりの関係なのに。本人の口から堂々と言われると――。
(な、何かめちゃくちゃ心臓に悪いんだけど……!)
その直後。
「ねえ、お兄さん!」
今度は反対側から、華やかなワンピースを着た若い町娘がやってきた。
「すっごい美男子ね! 次は私とも踊らない?」
そう言って、カイル殿下の腕へ擦り寄ろうとする。
「…………」
(…………は?)
(さっき私と恋人になったばかりなのに、もう狙われてるんだけど!?)
「カイ♡」
「ソフィ?」
私は背伸びをして――。
ちゅっ。
わざと音を立てて、彼の頬へ口づける。
「ごめんなさい。この人、私の恋人ですの♡」
「あらまあ、お熱いことで!」
苦笑いしながら退散していく。
(ふふん。どうよ!)
勝ち誇ってカイル殿下を見上げた――そのとき。
ぐいっ。
「……っ!?」
後頭部へ大きな手を添えられ、顔を引き寄せられた。
「ん……っ!?」
今度は、唇。突然の口づけに、頭が真っ白になる。
店中から「おおーっ!!」と、歓声と拍手が沸き起こった。ようやく唇が離れると、カイル殿下は平然と私を見下ろした。
「牽制するなら、頬ではなくここにするべきだな」
「なっ……!」
(な、何してんのよ!!)
(人前で堂々と唇にキスなんて!!)
「信じらんない!!」
私はカイル殿下の胸をドンッと押し、その場から逃げ出した。
「ソフィ!」
店の奥。階段脇まで来たところで、すぐに追いつかれる。
「待て」
「何ですの!」
「なぜ怒る」
「酔ってるんですか!? あんな大勢の前でキスするなんて!」
「お前が悪い」
「はあ!?」
「あんな顔で俺を恋人だと言うからだ」
「それのどこが私のせいなのよ!」
「あらあら」
「…………」
聞き覚えのある声に、二人同時に振り返る。女将が、にこやかにこちらを見ていた。
「あらあら、ずいぶんお熱いねえ。二階にちょうど一部屋空いてるよ?」
カイル殿下が、私を見る。
「ソフィ……」
意味くらい分かる。一気に頬が熱くなった。これは――義務でもなく、取引でもない。私たちは今、恋人なのだ。女将から鍵を受け取るなり、私はカイル殿下の手を掴んだ。
「……行きますわよ」
「……ああ」
彼の手を引き、階段を駆け上がった。
***
バタンッ。部屋へ入り、扉が閉まる。カチャリ、と鍵の回る音。
「……っ」
私は扉にカイル殿下を追い詰め、そのまま唇を重ねた。
「ん……」
今はただ――この人に触れたい。それだけだった。やがて唇が離れる。
「は……」
息を整える間もなくベッドへ倒し、その上へ跨る。
「……ソフィ」
熱のこもった瞳が、私を見つめている。私は白いシャツへ手を伸ばした。ボタンを外しかけた――そのとき。
「待て」
「……え?」
不意に、手首を掴まれた。
「明かりを落とす」
カイル殿下は片手を伸ばし、ベッド脇のランプを消した。ふっ、と灯りが消える。けれど――。暗くはならない。
夏の夕暮れ。酒場の薄いカーテン越しに、西日が差し込んでいる。皇宮とは違い、ランプを一つ消したところで、部屋はまだ十分に明るかった。
カイル殿下が、わずかに戸惑ったように窓を見る。
「…………」
(……やっぱり)
最初は、ただ恥ずかしいだけだと思っていた。以前、肩口の傷を見つけたときも、騎士なら珍しくないのだろうと思った。
けれど。何度か身体を重ねるうちに――それだけではないような気がして、ずっと引っかかっていた。
「……ねえ」
「何だ?」
「前から、気になっていたんですの」
「…………」
「あなた、こういうときは必ず明かりを落としたがるでしょう?」
私の手首を掴んでいた指に、わずかに力が入った。
(やっぱり、何かあるのね)
私は彼を真っ直ぐ見つめる。
「せっかく恋人になったことですし――そろそろ、何か話すことがあるのでは?」
「…………」
カイル殿下は、何も答えなかった。ただ、じっと私を見つめている。しばらくの沈黙の後――深く息を吐いた。そして、手首を掴んでいた手を、ゆっくりと離した。
「…………」
私はもう一度、彼のシャツへ手を伸ばした。一つ。二つ。残ったボタンを外していく。彼は何も言わなかった。ただ、少しだけ身体を強張らせている。そして――。シャツが、肩から滑り落ちた。
「…………え?」
指先が止まった。西日が、剥き出しになった彼の身体を鮮明に照らし出す。引き締まった胸板。脇腹。そして肩――。白く引き攣れた古傷。深く抉られたような痕。何かに引き裂かれたような傷。数え切れないほどの傷跡が、鍛え上げられた身体の至るところに刻まれていた。
(……こんなに……?)
息が止まる。皇宮の薄暗い寝室で見た肩口の傷なんて――ほんの一部だったのだ。
「…………」
何も言えない。そのとき。
「……ソフィア」
顔を上げる。カイル殿下は、わずかに視線を逸らしていた。私の反応を恐れているような、ひどく不安そうな顔。
「……醜いだろう」
コメント
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もう第44話、読み終わりました……! もうね、酒場での「カップル」呼ばわりからのダンス、町娘への牽制キスの応酬、全部可愛くて胸がいっぱいになりました。特にカイル殿下が「俺の恋人だ」って平然と言い放ったところ、めちゃくちゃときめきました。でも最後の“西日で初めて見えた傷跡”には、本当に息が止まりました。あれだけ隠してたのに「醜いだろう」って言う声が切なくて……。ひよりさん、また心揺さぶる展開をありがとうございます。続きが待ちきれません🌷