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#文豪
アオ
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鈴 嶺
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千九百四十四年
「お姉ちゃん、どうしていつも雨のなかにいるの?」
幼い少年の声。
「わたくしは、そういう生き物だから、ですかね」
答える声は素っ気ない。
「お姉ちゃん、雨のこ?」
「まぁ、解釈によっては、そうですね」
「なまえは?お母さんは?」
質問に質問を重ね、更に少女を困らせる。
「………名前はありませんので、お好きに呼んでいただいて構いません。母親もおりません」
「へぇ~!ぼくはしょういち!たぶん、六さい!お母さんがいないのは、いっしょだ」
少年は楽しそうに話す。
「………そうですか」
「あのね!ぼく、お姉ちゃんになまえあげる!」
「名前を…?」
しょういちの、子供ながらの一言に、少女は驚きを隠せない様子だ。
「うん!え~っとねぇ……」
しょういちは考える素振りをする。少女は静かに続く言葉を待った。
「……さう!」
「さう…?」
子供が考えたとは思えないしっかりとした名前に、少女は再度驚く。
「さうっていうのは…」
少女は地面に落ちていた棒を拾い、土の上に文字を書き始めた。
「沙雨、と書くのですか?」
それは、何年生きているのか、もはや分からない彼女が蓄えてきた知識から導き出した文字だった。
「わかんない。いいかんじだったから、さう」
「え…意味なしですか…?」
その面食らったような少女―沙雨の顔に、しょういちは笑い転げた。何で笑うんですか、と沙雨は怒ったが、結局は一緒に、くすくすと笑ってしまった。
その後も少年は、ほぼ一方的に話し続けた。すると、何故わたくしにこれほど話しかけてくるのでしょう、と疑問だった彼女は口を開いた。
「………あの、しょういちさん。わたくしには構っていただかなくて結構ですよ」
下を向いたまま言う。
一人がいいから話しかけないで、などということは、流石に口に出さなかったが、しばらく待ってもしょういちが何も言わないので、沙雨は顔を上げた。
――わたくしが、何かしてしまいましたでしょうか…
「………お姉ちゃん、いまはじめてぼくのこと、しょういちって呼んだ!」
顔をぱっと輝かせて、その少年は嬉しそうに笑った。
「あ………確かに、そうでしたね」
沙雨は、自分のせいで泣いたりしていないことに、ほっと胸をなで下ろす。
「あのねあのね!」
しょういちはそんなことなど知らず、また元気に話し始めた。
それからというもの、しょういちは毎日のように、小鴨色の瞳をもつ沙雨に会いに来た。彼女が居るのは、必ず雨の日。二人は他愛のない会話をして過ごした。
沙雨の返事は素っ気ないままだったが、しょういちが笑えば、少女も無意識に笑う。
それは戦時中とは思えないほどの、平和そのものだ。
彼は、少女の初めての友達だった。
次に沙雨が目を覚ますと、辺りは変わり果てていた。周辺は焼け野原と化し、炭になった家屋の柱が点在している。
しかしどこか見覚えがあり、そこがしょういちと話した場所だということがすぐに分かった。
ふと、足下に人が倒れていることに気がつく。それが誰かは考えるまでもなかった。
――しょういち、さん。
沙雨は絶句する。昨日まで、彼は生きていた。
――昨日……?
いや、昨日ではない。京紫の髪を雨に濡らす少女は、そこでようやく、もう翌年になっていることを理解した。沙雨が眠っている間に、一年経ったのだ。
そのまま座り込み、静かに横たわる少年の手を、おもむろに握った。
――冷たい。
冷え切った彼の手が、命の灯火がずっと前に燃え尽きていることを物語っていた。
「しょう、いちさん」
呼びかけても、答えてはくれない。
――恐いとき、傍に居てあげられなくて、ごめんなさい。
「………しょういち、さん」
――一人にして、ごめんなさい。
「少し、お話ししませんか…?」
――わたくしとお友達になってくれて、ありがとうございました。
「苦しいですか…?怖いですか…?」
――名前をくれて、ありがとうございました。
「熱いですか…?痛いですか…?」
――また、会いたいです。
「わたくしもね、痛い、です」
少女の声は震え、悲しみなんて生温い言葉では表せない感情が滲んでいた。
「お嬢ちゃん、こんな所に居たら、死んじまうよう。お母さんは何処だい?」
その時、女性の声がした。
「幾つだい?」
その女性は、喜代と名乗り、沙雨に避難を促した。だが沙雨は、若竹色の着物の裾を泥で染めながら、それを拒んだ。
しょういちから離れたくなかったのだ。
――まだ、話したいことはたくさんあるのです。
すると突然、轟音が鳴り響いた。
空襲である。
喜代は、逃げるよ、と少女を連れて行こうとしたが、沙雨は居なくなっていた。
「ごめんなさい」
しばらくすると、雨が降り出した。火の海を、小さな滴が集まって鎮めていく。
「喜代さん…」
沙雨という少女が、一人の女性の名を呼んだ。
しかし沙雨は、その女性に自身の名を告げることはなかった。
この名前は、あの小さな少年がくれた名前だから、その少年が居ない今、名乗ることは許されない、そう思ったのだ。
少女は、友達を失った。