テラーノベル
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旅の余韻は、玄関のドアノブに触れた瞬間に霧散した。
指先に伝わる、鍵がかかっていない独特の軽い手応え。家を出る前、白と黒が競い合うようにして施錠を確認したはずの扉が、今は無防備に、ほんの数ミリの隙間を作って俺たちを待っていた。
「……待て。誰かいる」
俺の低い警告に、後ろでじゃれ合っていた二人の空気が一変する。白はピンクの鈴を「チリ……」と鋭く鳴らして身を固め、黒はボルドーの鈴の音を消すように息を潜めて、フードの奥の瞳を鋭く光らせた。
俺はドアを静かに押し開け、室内に滑り込む。玄関の鍵穴には、熟練の鍵師が開けたかのような、真新しいピッキングの痕跡が刻まれていた。
リビングを抜け、キッチンの角を曲がった時、その異様な光景に足を止めた。
開け放たれた冷蔵庫の冷気が、暗いキッチンに白く立ち込めている。その冷気の中に、ボロボロの布を一枚被っただけの一人の少女が膝を抱えて小さく座り込んでいた。
頭からぴょこんと生えているのは、白や黒のそれよりも毛足の長い、柔らかな茶色の耳。彼女は俺たちの帰宅に気づくと、肩を大きく跳ねさせ、持っていたハムの袋を床に落とした。
「……おい。そこで何をしている。その鍵、お前がやったのか」
俺の声に、茶色の耳が絶望したように伏せられる。少女はおずおずと顔を上げたが、その瞳は恐怖で激しく泳ぎ、唇は小刻みに震えていた。
「ご、ごめんなさい……。お腹が空いて、死にそうで……。ここなら、温かい匂いがしたから……アタシ、針金で……あけちゃって……」
彼女の首元には、震えに合わせて「カラ……カラ……」と乾いた不規則な音を立てる、真鍮の鈴が揺れている。目の前にいるのは、ただ生きるために独学で身につけた技術を振るい、他人の家に潜り込んだ、ボロボロの野良猫だった。
「ちょっと……。あんた、泥棒でしょう。お腹が空いてたからって、勝手に入っていいわけないじゃない」
白が一歩前に踏み出す。その声は鋭いが、どこか突き放しきれない温度を含んでいた。
眉を八の字に寄せ、困ったような、それでいて自分の居場所を汚されたことへの不快感を隠さない表情だ。いつもの愛想笑いを完全に消した彼女の顔は、静かな威圧感となって室内に満ち、茶々を追い詰めていく。
「ひぃっ……! ごめんなさい、すぐに、すぐに出ていくから……殺さないで……!」
茶々は、白の眼差しに怯え、床に頭を擦り付けるようにして縮こまった。白の瞳は、侵入者を厳しく咎めながらも、その惨めな姿にどこか毒気を抜かれたような色を混ぜている。かつての自分たちの姿を、どこかで重ねてしまったのかもしれない。
「⋯⋯ん。⋯⋯ダメ。⋯⋯アタシたちの、⋯⋯大切なお家。⋯⋯勝手に、⋯⋯入っちゃ、⋯⋯ダメ」
黒もフードを払い除け、じっと茶々を見つめる。彼女もまた、怒りというよりは、見知らぬ者が自分の聖域にいることへの強い警戒と、どう接していいか分からない戸惑いを滲ませて耳を深く伏せていた。
ピッキングの痕跡を見る限り、彼女の技術は素人のそれではない。おそらくどこかの「施設」から逃げ出してきたか、あるいは捨てられた個体だろう。追い出すのは容易いが、この雨の降り出しそうな夜に彼女を放り出せば、明日には組織か野犬の餌食になるのは明白だった。
「……名前は」
「……茶々、です……」
消え入りそうな声で、彼女は答えた。
「……白、黒。こいつをどうするかは、明日決める。今はとりあえず、そこのソファにでも寝かせておけ。汚れを落としたら、何か食わせてやれ」
「えっ……!? ご、ご主人様、本気……!? こんな、泥棒猫を家に入れるの……?」
白は信じられないといった様子で、目を丸くして驚きの声を上げた。 まさか俺がこれほど簡単に、しかも自分たちの領域を侵した他者を許すとは思わなかったのだろう。対する茶々は、助かったという安堵よりも、白と黒の二方向から注がれる不信と警戒の視線に顔を引きつらせ、ガタガタと震え続けていた。
「アタシ、悪いことはしないから……隅っこでいいから……置いてください……」
白は不承不承ながらも、驚きが冷めぬまま茶々を浴室へと促した。黒はその様子を無言で、だが一歩も引かずに監視している。
茶々が浴室へ消えた後、リビングには重苦しい沈黙が流れた。
「ご主人様、優しすぎだよ……。アタシたちの場所が、あの子に奪われたらどうするの?」
白が目を細め、静かに俺を問いただす。その瞳には、新参者への拒絶以上に、俺との関係性が変化することへの強い不安が渦巻いていた。
「……奪わせはしない。ただ、野良を一匹拾っただけだ」
俺の言葉に、黒が短く「ん……」と頷き、俺の服の裾をそっと掴んだ。
温泉旅行の熱い余韻が残る我が家に、震える茶色の火種が加わった。白の驚きと独占欲、黒の静かな監視、そして茶々の極限の怯え。
一つ屋根の下、三匹の猫娘と一人の男。
最も危うく、最も歪な共同生活の幕が、今静かに、けれど確実に上がり始めていた。
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