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茶々が浴室で汚れを落としている間、リビングには重苦しい沈黙が流れていた。
つい数時間前まで、温泉宿で甘い時間を過ごしていたはずの三人の間に、今は凍てつくような緊張感が漂っている。ソファの端に座る白は、濡れた髪を拭く手も止め、浴室のドアをじっと見つめている。その眼差しには、自分の「聖域」が侵されたことへの苛立ちと、得体の知れない新参者への強い警戒心が同居していた。
黒はダイニングテーブルの椅子に深く腰掛け、ボルドーの鈴を一度も鳴らさぬよう、置物のように静止して浴室の音に聞き入っていた。
「……あの子、あんなに震えて、普通じゃないよ」
白が、独り言のように、けれど俺に聞こえるように冷たく言い放つ。その指先はソファの布地を強く掴んでおり、感情の昂ぶりを物語っていた。
「⋯⋯ん。⋯⋯あの匂い、⋯⋯施設に近い。⋯⋯でも、⋯⋯すごく、⋯⋯怯えてる」
黒の指摘は鋭い。茶々の身のこなしや、追い詰められた時の過剰な反応は、かつて白や黒が身を置いていた「施設」――組織による過酷な管理下に置かれ、感情すらも制限されていた個体特有の怯えを感じさせた。
やがて、湯気を立てながら浴室から出てきた茶々は、白が貸し出したサイズの合わないブカブカのTシャツに身を包んでいた。白の白い肌とは対照的な、健康的ながらも少し日焼けしたような茶色の肌。洗われた茶色の耳は、驚くほど柔らかそうに垂れ下がっている。だが、彼女はリビングに足を踏み入れた瞬間、白と黒の鋭い視線に射抜かれ、顔を引きつらせて立ち止まった。
「あ……あぅ……その、お風呂、ありがとうございました……」
茶々は、床の模様を数えるように視線を落とし、廊下の隅っこでガタガタと震えている。首元の真鍮の鈴が、彼女の激しい鼓動に合わせて「カラ……カラ……」と乾いた音を立てる。
ふと、彼女の細い首筋や手首に、古い火傷のような痕と、何かを無理やり剥ぎ取ったような紋章の跡が見えた。それは、組織の中で「出来損ない」あるいは「失敗作」として虐げられてきた個体に刻まれる共通の傷跡だった。
「……それで。あんた、なんでここに来たわけ? 偶然入ったなんて言わせないわよ」
白の冷たい問いかけに、茶々は肩を震わせながら、途切れ途切れに話し始めた。
「……アタシ、施設から捨てられて……ずっと外を彷徨ってて。逃げても逃げても、怖くて……。どこに行っても、追い払われて……。そしたら、ここから……すごく懐かしい、でも温かい匂いがしたから……気づいたら、無我夢中で、施設で教えられた技術を使って入っちゃって……」
茶々は、組織の厳しい管理から「不要」として放り出されたものの、行く当てもなく、ただ本能的に「自分と同じ匂い」――白や黒が持つ、かつての同胞の残り香に導かれてこの家へ辿り着いたのだ。それは、捨てられた仔猫が、仲間の温もりを求めて彷徨うのと同じ、切実な本能だった。
「アタシ……ただ、一度だけでも、誰かと一緒に……温かいものが食べたかったの……。ごめんなさい……。すぐに、出ていくから……」
俺は適当にあり合わせの材料で、四人分の食事を用意した。
温かいスープと、旅先で買ってきたパン。本来なら旅の思い出を語り合いながら食べるはずだった食卓は、今や監視と告白の場と化していた。
「……食べなさい。毒なんて入ってないから」
白の促しに、茶々はおずおずとスプーンを手に取った。一口、スープを口に含んだ瞬間、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出し、スープの中に波紋を作った。
「お、おいしい……。アタシ、ずっと暗い部屋で、余ったご飯しか……もらえなくて……。外は、冷たくて、痛くて……。こんなに温かいの、初めて……」
茶々は泣きながら、必死にスープを啜り、パンを口に詰め込んでいく。彼女が語る凄惨な記憶。施設での「失敗作」としての扱いや、外の世界での絶望。その断片が、白と黒の心に複雑な波紋を広げる。自分たちも、一歩間違えれば、あるいはこの男と出会っていなければ、同じ道を辿っていたかもしれないのだ。
「⋯⋯ん。⋯⋯ゆっくり、⋯⋯食べればいい。⋯⋯ここは、⋯⋯痛くない。⋯⋯今は、ね」
黒がボルドーの鈴を小さく鳴らす。自分たちと同じ地獄を見てきた者だと理解した瞬間、黒の警戒心は、微かな同情へと塗り替えられていった。それでも、彼女が「敵」の差し金である可能性を捨てきれないのか、その瞳の奥にはまだ鋭さが残っている。
食後、茶々はリビングのソファの隅で、毛布を頭から被って丸まった。その姿は、外界からの攻撃を拒むための殻のようにも見えた。
俺が寝室へ向かおうとすると、白と黒が左右から俺の腕を強く掴んだ。
「ご主人様……。あの子のこと、放っておけないのはわかる。でも、まだアタシたちの仲間にしたわけじゃないから。もしあの子が何か企んでたら、アタシが……」
白の言葉には、新参者への拒絶以上に、自分たちの「日常」が変化することへの不安、そして俺の関心が他へ向くことへの強い独占欲が渦巻いていた。
「⋯⋯ん。⋯⋯アタシたちが、⋯⋯一晩中見張る。⋯⋯ご主人様は、⋯⋯ちゃんと寝て。⋯⋯病み上がりだから」
二人の猫娘は、俺を寝室へ送り出すと、リビングのソファを囲むようにして座り込んだ。
暗闇の中、白と黒の視線が、毛布の中で震えながらようやく深い眠りに落ちた茶々をじっと見守り続ける。
外では激しい雨が降り始めた。
温泉旅行の熱い記憶が、冷たい緊張感と過去の影へと塗り替えられていく。
一つ屋根の下、呼吸の数すら噛み合わない、歪な四人の夜が更けていった。