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スクリーンには
映画の広告が次々に映し出され
暗がりの中に
光の揺らめきが広がっていた。
場内の照明はすでに落ち
ポップコーンをつまむ音と
上映を心待ちにする
観客の囁き声だけが静かに響いている。
レイチェルは無言のまま
姿勢を整えるようにして
ゆっくりと足を組み直した。
その瞬間——
(⋯⋯ちっ)
ソーレンは、視線を慌てて逸らす。
だが
目の端にちらりと
映ってしまうのだ。
黒のロングスカート。
その深いスリットの奥
ふとした動作で
覗いてしまった太腿の肌。
映画館の暗さが
かえってそれを際立たせる。
(なんだって
そんなバックリ開いてんだよ⋯⋯!)
手に持っていた
ポップコーンのカップが
僅かにぐらついた。
ソーレンは咄嗟に膝で押さえ
深く息をつく。
レイチェルの方はというと——
横顔には
まるで何も気付いていないかのような
無邪気な表情が浮かんでいた。
けれど
彼女の視線は
しっかりと前を向いていても
意識の一部は
横に座る男の様子に向けられている。
(ふふっ!気付いた⋯ね?)
微かに笑みを堪えながら
レイチェルは
また足をゆっくりと組み直す。
わざとらしさのない自然な仕草。
それでいて、確実に視界に入る動作。
「⋯⋯くそっ」
ソーレンが
低く唸るように呟いたその声は
決して聞こえないほど小さくはなかった。
(あら?お耳、赤くなってるかも)
レイチェルは、なにも言わず。
なにも悟られず。
ただ、静かに
映画が始まるのを待っていた。
そしてソーレンは
どんどん集中できなくなっていく
自分に気付いていた。
「⋯⋯お前
館内の冷房、寒そうだな?
これ、掛けとけ⋯⋯っ」
耐えかねたソーレンは
深緑のライダースを脱ぐと
半ば無理矢理にレイチェルの膝に
放り投げた。
「⋯⋯え?あ、⋯ありがとね!」
(なにそれ、可愛くないっ!?)
レイチェルはソーレンのライダースを
丁寧に膝に掛ける。
ふわりと、彼の愛用の香水が香る。
始まる前から
別の意味で〝鼓動が煩い〟時間に
なりそうな上映前だった。
⸻
スクリーンには
今まさに殺戮の宴が
繰り広げられていた。
血の色は鮮烈な深紅。
肉が裂ける音が響き
観客席の息を呑む音が
次々と広がっていく。
惨劇の舞台は、廃病院。
くぐもった悲鳴と
湿った足音が薄暗い廊下に響く。
カメラが静かに進むたび
死体の欠片が床に転がっていた。
壁に張りついた血飛沫
無造作に引き裂かれた白衣
飛び散った臓器——
そのどれもが異様な光沢を放ち
リアルな生々しさで
視覚を責めてくる。
「⋯⋯ふん。
臓は、あんな感じじゃねぇよ」
ソーレンが、ぼそりと呟いた。
その視線は冷静だが
微かに眉を顰めている。
(⋯⋯そこにクオリティ求めても
解るのはソーレンくらいよね)
だが——
次のシーンで
彼の肩が僅かに揺れた。
病室に一人取り残された少女が
壊れたナースコールを連打する。
電気の明滅が空間を乱し
カメラが不意にズームインする。
⋯⋯静寂。
そして——
「いやぁあッ!!」
影から突如現れた、異形の女の顔。
少女の叫び声。
肉が崩れかけたような頬
目が潰れているのに
確実に此方を〝見て〟いるような感覚。
ぬるりと現れたその口が
異常に広がりながら笑った。
「きゃああああっ!!」
劇中の悲鳴が
スクリーンの奥で木霊する。
観客席では
何人かが身を震わせる中——
ソーレンも、ほんの一瞬
息を呑む音が喉を走った。
横で見ていたレイチェルは
その僅かな反応を見逃さなかった。
(⋯⋯今の、ちょっと肩が跳ねたわね)
彼女はポップコーンをつまみながら
微かに口元を緩める。
映画の中では
少女が悲鳴を上げて
逃げ惑っていた。
自動ドアの前に辿り着いた瞬間
——開かない。
ボタンを何度押しても
ドアはぴくりとも動かない。
そして背後から
粘つく湿気と共に
あの〝ナニか〟の気配が忍び寄る。
ぐちゅ⋯⋯ぐちゅ⋯⋯ずる⋯っ
聞こえるのは
濡れた布を引き摺るような音だけ。
カメラが少女の背後へと
ゆっくりパンすると
其処に⋯⋯〝いた〟
ぐちゃぐちゃに裂けた顔
皮膚の剥がれた腕
指の先端には
他人の目玉がぶら下がっている。
「⋯⋯チッ。やり過ぎだろ」
ソーレンは苦い顔をして
再び小さく呟いた。
けれど
レイチェルにはわかっていた。
彼がその時
ほんの僅かに肘を
自分の方に寄せていたことを。
(ふふ。かわいい)
レイチェルは何も言わず
スクリーンに視線を戻した。
ホラー映画は、まだまだ序の口。
けれど一番面白いのは
——隣の反応だった。
「⋯⋯お前、怖くねぇのかよ?」
低く押し殺したような声が
すぐ隣から漏れた。
スクリーンに映る惨劇の音が
一瞬だけ遠のいた気がして
レイチェルはそっと視線を横に向ける。
そこには
思いのほか近く寄ってきた
ソーレンの横顔があった。
ほんの指先ひとつ分の距離で
顔がこちらに傾いている。
その瞳は
映画の中の〝映像〟ではなく
今まさにレイチェル自身を映していた。
(⋯⋯びっくりした)
血よりも恐怖よりも
その距離感に心臓が跳ね上がった。
けれど
それを見せるのは少しだけ悔しい。
レイチェルは
唇を柔らかく引き結びながら
スクリーンへ視線を戻す。
「⋯⋯そりゃ、怖いわよ」
肩を竦めるようにして答えると
ソーレンは一度鼻を鳴らし笑った。
「はん。
なら⋯⋯
俺の腕、掴んでても良いんだぜ?」
その言葉に
レイチェルはぴくりと眉を上げた。
スクリーンでは
霊に追い詰められた少女が
スプリンクラーの水を浴び
冷たい光に濡れながら泣き叫んでいる。
けれど、それよりも今——
隣の男の方が
余程わかりやすく可愛いかった。
(ああ。
これ、多分⋯⋯自分が怖いのね)
幾人ものハンターを
容赦なく葬ってきた男がー⋯
まさか〝幽霊〟は怖いなんて。
一瞬だけ
レイチェルは
口元を覆って
笑いそうになるのを堪えた。
「⋯⋯じゃあ、掴んでもいい?」
小さく囁くように言うと
ソーレンはそっぽを向いたまま
無言で腕を僅かに寄せる。
レイチェルは
そっとその腕に指先を添えた。
彼の腕は
映画の中の死体よりも温かく
少しだけ震えていた。