レイチェルの細い指が
そっとソーレンの腕に絡んだ。
びくり、と
その体が僅かに強張るのが伝わる。
スクリーンの中では
暗闇の中で
少女が何かに呼ばれるように
足を踏み出し
ぬかるんだ地面に沈み込んでいく。
背後から現れた髪の長い影が
ぬっと姿を現し
カメラが急接近して
彼女の顔をぐしゃりと掴んだ。
——ドンッ!
爆音と共に
無数の手が画面いっぱいに伸びる。
観客が何人か
小さく息を呑む音が聞こえた。
「っ⋯⋯くそ⋯⋯」
ソーレンが、低く吐き捨てる。
横目で見ると
彼は表情を崩さぬまま
だがほんの少し脚が引けている。
(あ〜〜〜、やっぱり可愛い⋯⋯)
レイチェルは
心の中でそっと微笑んだ。
「ソーレン
手⋯⋯ぎゅって、していい?」
囁くように言うと
ソーレンは僅かに頷き
ぎこちなく指を絡めてきた。
「ちょ、っとだけだぞ⋯⋯」
「うん。ちょっとだけ、ね」
スクリーンでは
少女の頭が捻れるように折れ
静寂の中に水音が広がっていく。
だがレイチェルにはもう
恐怖の中心が映画にあるのか
自分の鼓動にあるのか分からなかった。
隣の男の体温と震えが
指先から心までじんわり伝わってくる。
(ほんとに⋯⋯可愛いんだから)
レイチェルは、ふわりと笑った。
けれど——
唇を噛んで、声は殺したままにした。
⸻
繋がれたままの手が
じんわりと温かい。
けれど
その温もりは既に馴染みすぎていて
二人とも気付かないふりをしていた。
スクリーンの中では
黒一色に
白字のエンドロールが流れている。
シアターの照明が
ゆっくりと灯りはじめ
場内に
「ご来場ありがとうございました」
と柔らかなアナウンスが響く。
「ふぅ〜⋯終わったぁぁぁ⋯⋯っ!」
レイチェルが
思わず大きく息を吐き出した。
「おいおい⋯今さら緊張解いてんのかよ」
「だって!
めちゃくちゃ怖かったんだもん。
顔が、もうっ⋯⋯ぐるんって!」
「⋯⋯あれはやりすぎだ。
臓物より顔が怖ぇって
どういう構成だよ⋯⋯」
文句を言いながら
ソーレンも安堵したように息をついた。
やがて人の波に流されるように
二人はシアターの外へ向かう。
手は——
まだ、繋がれたままだ。
指先の絡み方も、握る強さも
さっきと変わらない。
だがどちらからも
それに触れようとはしなかった。
「⋯⋯あ、ビール、ぬるくなってる」
「あー⋯、私のジュースも。
飲む暇も無かったね!」
そう言いながら
二人とも飲みかけのカップを
無言で飲み残し入れに流し
ゴミ箱に放る。
その手元はぎこちなく
だがまだ
互いの手は離さなかった。
通路の明かりが少しずつ濃くなり
出入り口が近づいてくる。
「なあ、お前⋯⋯」
ソーレンが、不意に口を開いた。
(あ⋯⋯気付いた?)
レイチェルは
心臓が跳ね上がるのを感じながらも
平然を装って笑った。
「ん?なに?」
「⋯⋯いや、別に⋯⋯」
(なんで今さら、気にしてんだ俺は⋯⋯)
言えなかった。
気付いてないふりをしていた時間が
長すぎた。
気付いていたと口にすれば
何かを壊してしまいそうで。
(⋯⋯ってか、別に嫌じゃねぇしな)
「なぁ?なんか、腹減ったな。
メシでも食ってくか」
「うん!
そうだと思って
近くの店チェックしておいたの。
ね、このレストランでいい?」
レイチェルが
とあるレストランの画面を
ソーレンに見せた。
「⋯⋯ったく。抜かりねぇな、お前」
「えへへ。ね、行こ?」
笑顔でソーレンを引っ張る手は
まだ、温かいままだった。
まるでそれが当然のように
二人は夜の街へと歩き出した。
⸻
テーブルには
キャンドルの淡い光が揺れていた。
店内は落ち着いた照明と
クラシックギターの柔らかなBGM。
席に着いたソーレンは
メニューを一瞥すると
即座にワインリストへと視線を移した。
「赤だな。重めのやつ、ボトルで」
「えっ、ボトルで頼むの?
飲む気満々ね?」
「おう。
さっきの映画で、変な力入ったからな。
喉乾いた⋯⋯」
「なるほど⋯⋯
ホラーって、体力使うのね」
レイチェルは
小さく笑ってメニューを覗き込む。
対するソーレンは
既にワインに合いそうな
前菜ばかりを注文していた。
「生ハム、チーズの盛り合わせ
オリーブ、アヒージョ、カプレーゼ⋯⋯」
「ちょっとちょっと
完全につまみオンリーじゃない!」
「何か悪いかよ?
ワインに合うもんが食いてぇんだ」
「ふふっ、じゃあ⋯⋯
私はラザニア頼んじゃおっと」
「それも一口くれよ?」
「もちろん、ワインと交換条件ね?」
グラスに注がれた深紅のワインが
キャンドルの光を受けて
赤黒く揺らめく。
ソーレンは一口
ゆっくりと味わったあと
目を細めた。
「⋯⋯悪くねぇな」
「わ!
なんか、ソーレンが大人に見える⋯っ!」
「なに言ってやがる。俺は〝大人〟だ」
「ねぇ、ソーレン?」
レイチェルが、小さく声を落とした。
「こうして一緒にご飯食べて
お酒飲んで
たわいもない話するの⋯⋯
すごく好きかも」
グラスを片手に
ソーレンがレイチェルを横目で見た。
その瞳には
いつものぶっきらぼうな硬さはなく
ほんの少しだけ——
照れくさそうな柔らかさがあった。
「⋯⋯そうかよ。俺も、嫌いじゃねぇ」
二人の間に、ふっと笑みが零れる。
そして、またグラスが傾けられた。
酔いはまだ浅く
けれど心だけは
ほんのり温かく火照っていく——
そんな夜だった。
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