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「先生、ゴロちゃんの様子が、おかしいそうです。今こっちに向かってます!」
辺りの空気が一度に緊張した。
皆が慌ただしく動き始めた。
れれが、僕の体をすっぽりと包むように抱きかかえ、そそくさと診察室のドアの向こうの待合室に移動した。
誰もいない待合室は、嘘のように静まり返っている。
れれは、僕を抱いたまま、窓ぎわに並んだ椅子の一つにゆっくりと腰をかけた。
それから、はっと気が付いたように、バッグの中の小さな電話機を取り出した。
「あ、もしもし、うん、私。今終わったんで、迎えにきてくれる? ……え? 大丈夫よ。まるちゃんは、大丈夫。……いや、あの後で話すから。とにかく迎えお願いね」
トーンを落として早口に喋るれれの声は、いつもと違う。
電話機をバッグにしまい、れれは僕の体をもう一度ギュッと抱きしめた。「前田さんには、家に帰ってからゆっくり連絡しましょうね」
ーああ、これから家に帰れるんだ。
僕は、嬉しくて喉をぐるぐる鳴らした。
ガラス越しに見る外の景色は、すっかり夜の闇に包まれている。
―色んなことのあった一日だった。
突然、車のライトが夜の闇をかき分けて建物の前に止まった。
バタンとドアの閉まる音がして、大急ぎでこちらにむあっかくる人影が二つ。
「すみません。こんな遅い時間に」
切羽詰まった様子で駆け込んできたのは、猫を抱いた男の子と、その子のお母さんらしき人間だった。
男の子の背は、お母さんの半分くらいしかないので、まだ子供なんだろう。
「大丈夫です。少しかけてお待ちください」
毛布にくるまれていて、男の子に抱えられている猫の姿は見えないが、毛布の下からは、黒と茶の縞模様の長い尻尾が力なく垂れ下がっている。
「急に苦しそうな息をし始めたんです。お腹が膨らんでいるんで、また腹水が溜まってきたのかもしれません」
少し離れた椅子からお母さんの声が聞こえた。
「わかりました。すぐ準備ができますから」
「ゴロちゃん、ゴロちゃん、しっかりして!」
男の子が、今にも泣きだしそうな声で呼びかけている。
「まるちゃんのお薬ができました」
れれが、僕を抱いたまま、ゆっくり受付に向かった。
男の子は、まるで今僕たちに気が付いた風に、はっとして顔を上げた。
二つの目が涙で光っている。
れれが申し訳なさそうに少し頭を下げながら、その前を通った。
毛布の中から、三角の黒い耳の先が見えた。
―どこかで会ったことがある。
とっさにそう思った。
―ノラ時代の仲間?いや、違う。
このオーラは、ずっと家猫として暮らしてきた猫特有のオーラだ。
どこで会ったんだろう。ゴロちゃんと呼ばれるこの猫と……。
れれは、受付で薬を受け取った後、ゆっくりと男の子に近づいていき、遠慮がちに隣の椅子に腰かけた。
男の子は、うつむいたまま、その小さな手で、毛布の中の猫の背中を懸命に撫でている。
そうすることで、旅立とうとする命を引き留めるかのように。
れれが、小刻みに揺れる男の子の小さな肩に、そっと手を置いた。
驚いて顔を上げた男の子の目から、こらえきれない涙の粒が一筋、静かに落ちていった。
男の子のお母さんが、静かに口を開いた。
「この子は赤ちゃんの時からずっとゴロちゃんと一緒に、まるで兄弟のように仲良く過ごしてきたんです」
れれが涙を拭いながら頷いた。
「いつだったか、ゴロちゃんの腎臓にガンが見つかったんです。時々入院して治療してもらっていたzんですが……歳も歳だし、無理はさせたくないんで、とにかく痛みをなくす治療に変えてもらっていたんです。家では、もう病気のことを忘れるくらい、元気に飛び回っていたんですが、二、三日前から急に元気が無くなって……」
お母さんは、なんどかハンカチで目頭を押さえた後、ふっと小さく息を吐いた。
それから男の子の頭にそっと手を置き
「ゴロちゃん、もうこれ以上頑張るのは大変そうよ」と呟くように言った。
男の子は何も言わず、激しく首を横に振った。
診察室からは、カチャカチャと準備の音が聞こえてくる。
―思い出した!
僕が初めてここに来た時、親切に声をかけてくれた、あのおじさんだ。
僕が、人間に食べられるとか、変なことを言って皆に笑われた時も、優しく話しかけてくれた、あの時のおじさんだ。
「おじさん、おじさん、ゴロちゃんという名前のおじさん!僕のこと覚えてる?汚いノラ猫だった僕のこと。足を怪我してここに来た時、人間に食べられるって、みんなに笑われた僕のこと。ねえ、おじさん僕だよ!」
僕は、れれの腕の中から、身を乗り出すようにして呼び掛けた。
毛布の中の耳が微かに動いた。
もぞっと動いた毛布の膨らみが、のろのろと僕の方に顔を向けた。
目が合った。
ーおじさん、やっぱりあの時のおじさんだ。
その瞬間、僕は意外なものを見たような気がして驚いた。
なんと、おじさんの目は、優しい光りで輝いていた。少なくとも、僕にはそう思えた。
ーキラキラと輝く目……。
初めは悲しみの涙に潤んでいるのかと思った。
が、それは違うと思った。それは幸せの輝きだと確信した。
この世に生を受けた瞬間から、愛され、受け入れられ、大切に育まれ、命いっぱい生ききったという満足感。自分の役割を果たし終えたという達成感。
命の終わりを受け入れ、静かに旅立とうとする者の安らぎと安心感。
僕は、胸がいっぱいになった。
ーおじさん、僕は、祝福を送るべきなんだね。
「ゴロちゃん、中に入ってください」
白い上着の人間が、診察室のドアから顔だけのぞかせて言った。
「では」と、れれの方に軽く頭を下げ、お母さんと子供が立ち上がった。
お大事に、と言ったれれの声が、微かに震えていた。
僕は、ドアの向こうに消えて行くおじさんを、すがりつくような目で追っていった。
おじさんも、ぎりぎりまで僕を見ていてくれた。
ーおじさん、ありがとう。最後に僕に会ってくれてありがとう。
僕は、おじさんの、そのキラキラ光る目を一生忘れないからね。
だけどおじさん、一つだけお願いがあるんだ。
たとえ遠い空の星になっても、その男の子のこと、ずっと見守ってあげてよ。
ずっとその子の心の中に、生き続けてあげてよね。