テラーノベル
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居室に戻ると、すでに終業時間が迫っていた。
「もう、こんな時間だったのね」
資料室に籠もっていたせいで、時間の感覚がすっかりなくなっていた。
デスクに着くと、朝倉くんはさっそく今回の案件について資料を提示してくれた。
「今回の案件は、お客様からお声がけをいただきまして……」
「お客様から?」
「はい。以前、僕が担当したお客様からのご紹介で――」
そのとき、朝倉くんのスマホが鳴った。
着信画面を確認した彼が、私を見る。
顧客からの電話だとわかったので、私は「電話に出て」と目で合図を送った。
「はい……ああ、黒川さんですね。どうなさいましたか?」
朝倉くんは私に背を向け、電話に出た。
その間、私は目の前の資料に視線を落とす。
数字を追いながら、思わず感心してしまう。
(確かに……これは大きな案件になりそうね)
顧客情報も、取引内容も、細かく整理されている。
新人とは思えないほど、資料の作り方も手慣れていた。
しばらくして、通話を終えた朝倉くんが振り返った。
「瞳子さん、すみません」
「ううん。顧客からなら仕方ないわ」
「今から仕事で外に出ます。とりあえず、この資料に目を通していただければ顧客情報は掴めますので。詳細はまた明日にお話しします」
「わかったわ。確認しておくわね」
「ありがとうございます」
朝倉くんが嬉しそうに笑った。
きっと、また優良案件なのだろう。
彼にとってはこういう仕事も日常のことなのかもしれない。
私はそれほど気に留めることもなく、資料を閉じた。
「気をつけてね」
「はい。では、行ってきます」
「いってらっしゃい」
朝倉くんは軽く頭を下げると、足取りも軽く居室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は資料にもう一度目を落とした。
(本当に、仕事ができるのね……)
そんな感想を抱いただけだった。
「牧野さん、まだ帰らないんですか?」
声をかけられて顔を上げると、水谷くんがコートを羽織りながら立っていた。
「あら、水谷くん。もう帰るの?」
「はい。今日はもう上がろうかなと。牧野さんも遅くまで大変ですね」
時計を見る。
すでに二十時を回っていた。
「残務を整理したら帰るわ。先に上がっていいわよ」
「はい。お疲れさまでした」
「お疲れさま」
#恋愛
水羽凛
229
#そっちと元サヤ?!
専業プウタ
295
夏目莉央
1,537
水谷くんを見送ったあと、私は残っていたメールの最終チェックを始めた。
一通ずつ内容を確認し、必要なものには返信をする。
ようやくすべてを終え、パソコンの電源を落とした。
「ふう……」
背もたれに身体を預けた、そのときだった。
スマホが鳴った。
画面を見る。
「……朝倉くんだ」
こんな時間に何だろう。
もしかして、さっきの案件のことだろうか。
「もしもし。朝倉くん、どうしたの?」
「瞳子さん、こんな時間にすみません」
「ええ。それはいいけど……」
電話の向こうから聞こえる声は、いつもより少し弱々しい。
「仕事は無事に終了したのですが……」
「何かあったの?」
心臓が、どきりと脈打つ。
まさか、仕事で何かトラブルがあったのだろうか。
「実は……」
朝倉くんが、少し間を置いた。
「瞳子さんに打たれた脛の痛みがひどくて、動けなくなりました」
「…………」
「迎えに来てもらえますか?」
ふっと、心臓が平常に戻った。
「…………なぜ?」
思わず、低い声が出てしまった。
「足が痛いからです」
「それは聞いたわ」
さっきまで仕事のトラブルを心配していた自分が、なんだか馬鹿らしくなってくる。
「でも、朝倉くん。あなた、さっき普通に歩いて出ていったわよね?」
「はい」
「しかも、ずいぶん足取りが軽かったように見えたけど?」
「……そうでしたか?」
「そうでした」
私は即答した。
電話の向こうで、朝倉くんが黙る。
「……でも、痛みます」
「本当に?」
「はい」
少し間を置いて、彼が続けた。
「どうしても、来てほしいんです」
私はスマホを持つ手を変えた。
そして、一つ息をつく。
「……あのね、朝倉くん」
「はい」
「こういう手を使って、女性を呼び出すのはよくないわ。あなたらしくないわよ?」
「……」
「さっきのことなら、もう謝ったでしょう? それに、あなた自身も大したことはないって言っていたじゃない」
我ながら、もっともな言い分だと思う。
けれど朝倉くんは、少しも怯まなかった。
「僕と約束しましたよね」
「約束?」
「傷が痛んだら、瞳子さんが手当てをしてくれるって」
「……」
確かに言った……ような気もする。
だけど、あの場の流れで、つい口にしてしまった言葉だ。
「だから、来てくれると信じて待ちます」
「困るわ、朝倉くん……」
「瞳子さんは、僕を裏切りません」
呆れるほどの私への信頼感。
先ほど、手を握られても強く叱らなかった。
あのとき、うやむやに対応してしまった私にも責任があるのかもしれない。
(調子づかせちゃったのよね……)
私は小さく息を吐いた。
「……わかったわ。傷を見に行く」
「本当ですか?」
「ええ。でも、手当てをしたらすぐ帰るからね」
「はい」
「それで、今どこにいるの?」
「繁華街の道元坂です」
「道元坂……?」
聞き覚えのある地名に、嫌な予感がする。
「はい。痛くて、道端に座り込んでいます」
「…………」
私は思わず、おでこを抱えた。
道元坂──。
そこは、有名なラブホテル街だ。
(そんな場所に、この時間に、上司を呼び出すとは……)
なんて大胆不敵なの!
私は軽く見られているのだろうか。
いや、きっと本人に悪気はない。
でも、この傾向はよくない。
部下と上司の距離感として、明らかに一線を越えかけている。
私はぐっと顔を上げた。
「なら、今から行くから待っていなさい!」
「はいっ!」
電話の向こうから、途端に元気な声が返ってきた。
「……本当に痛いのかしら」
「痛いです!」
即答だった。
「わかったわよ。そこで大人しく待っていなさい」
「はい。瞳子さんを待っています」
私は電話を切った。
そしてコートを着込み、バッグを手に取る。
「まったく……」
小さく呟きながら、足早に職場を出た。
向かう先は、朝倉くんのいる道元坂。
もちろん今回は、彼を思いっきり叱るために。
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