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アジェーリアの嫁ぎ先である隣国オルドレイまでは、往復で一か月半ほどかかる見込みだ。配分は、往路が一か月で、復路が半月。
往路は、旅慣れていない王女とティアの体調を考慮したものと、不測の事態に備えて、かなり余裕のある日数にしている。
不測の事態──敵国との婚姻を良しとしない者たちによって、いつ妨害を受けるかもしれないのだ。
この旅は非公開での行動となるため、グレンシスを含め、表向き王女を護衛する騎士は、10名程しかいない。
とはいえバザロフの指示で、既に危険が伴いそうな場所には兵が配置されているので、よっぽどのことがない限り、王女が危険な目にあうことはない。
実のところ、予備の日数を多く取ったのは、王女の気まぐれで時間を費やすことを懸念してのことだった。
ウィリスタリア国一の美貌を持つアジェーリアは、ウィリスタリア国一のワガママ娘でもある。
だから輿入れの旅路で、どんな無理難題を吹っ掛けられるか。はたまた、何か一つでも気に入らないことがあれば、王都に戻ると騒ぎ出しかねない。
グレンシスを始め騎士達は、戦々恐々としており、ティアもそう思っている。
出立前ならいっそ王女のワガママで、この任務がなかったことになれば嬉しいとティアは思っていたけれど、馬車が走り出してしまえばその考えは捨てた。
なにせティアは、娼館から半径1キロ以内でしか行動をしたことがないのだ。
王都内ならいざ知らず、王城も見えない村で放り出されてしまえば、無一文の自分の末路は、間違いなく野垂れ死となる。
そんな不安を抱えて出立し、半月以上が経つけれど、不気味なほど道中は平和である。
王城内で日常のひとこまであった、ワガママの数々……お茶がまずいと顔にぶっかけられることもない。食事が気に入らないと、皿をひっくり返されることもない。
道端に落ちている石を投げられ、訓練犬のように拾ってこいと言われることも無い。
この旅路の宿は、隠密での行動を余儀なくされている為、砦を仮宿としたり、庶民が使用する宿で泊まることすらあった。
絹のリネンしか使ったことがない王女にとったら、耐えがたい環境のはずなのに、アジェーリアは文句一つ言わなかった。
出された食事は綺麗に食し、粗末な宿を見ても不機嫌になることはない。
それどころか、馬車の中でティアに楽にしていいという勿体無い言葉まで掛けてきた。
これは、嵐の前の静けさなのだろうか。
それとも天変地異の前触れなのだろうか。
アジェーリアの気まぐれは、預言者であっても予測不能なこと。神のみぞ知る世界なのだ。
余談ではあるけれど、この旅路の間、雨は一度も降ることがなかった。
「───………わらわがあまりワガママを言わないもので、皆、怯えておるわ」
くすりと笑いながら呟いたアジェーリアの言葉に思わず頷きかけて、ティアは慌てて顎と首に力を入れる。
近くにいる騎士たちは王女の言葉に、ひくりと頬を引き攣らせた。
ここは、のどかな田園風景が続く街道のどこか。
初夏の風は気持ちよく、視界に映る畑は、まだ小さいキャベツが等間隔に並んでいる。
そして風に乗って、甘酸っぱい香りがここまで漂ってくる。グミの実だろうか。それとも、すももの実だろうか。
麗らかな光景の中、ティアが表情をこわばらせた途端、アジェーリアがくすりと笑った。
「ティア、無理に頷かないようにしなくてもよい。そっちのほうが、かえってバレバレじゃぞ」
しっかり思考を見抜かれてしまったティアは、もう、どんな顔をして良いのかわからず途方に暮れてしまう。
そんなティアを見て、アジェーリアは声を上げて笑うと、膝に置いてあったティーカップを持ち上げ、一口紅茶を口に含んだ。
今の時刻は、正午と夕方の間。
アジェーリアがあまりにワガママを言わないせいで、予定より往路が早く進み過ぎてしまっているのだ。
嬉しい誤算と呼んでいいのかわからないけれど、とにかくここまでは、大変順調に進んでいる。
ティア達は、大きな楡木の下で休憩を取っている。被毛の絨毯の代わりに敷かれたラグは、山吹色と紺色を織り交ぜた素朴な柄だった。
空いたスペースに焼き菓子や、サンドウィッチなどの軽食が木の皿に盛られ並べられている。
馬車と騎士達の馬は、少し離れた場所に停められて、馬はのんびり野草を食んでいる。
騎士達といえば全員、直立不動でティア達の周りに目を光らせているが、アジェーリアはまるでここが王城の一室であるかのように、くつろいでいる。
「なぁ、ティア、聞いてくれるか?」
ティーカップをソーサーに戻したアジェーリアは、ゆったりとティアを見つめ問いかけた。
「は、はい」
反対に、とうとう無理難題を吹っ掛けられる時が来たかと、ティアはこくりと唾を呑む。
けれど、アジェーリアの口から紡がれたものは全く別のものだった。
「ここだけの話……という前置きをすれば良いのかわからんが、わらわは、誰かに自分の気持ちを聞いて欲しいのじゃ」
「……はい。私でよければ」
何やら重大なカミングアウトが始まりそうだ。
でもアジェーリアは、自分のことを生き別れたリスの代わりとしか思っていない。アドバイスを求めているわけじゃないだろうし、黙って聞けばいいだけだろう。
ティアがこくりと頷くと、アジェーリアは、視線をキャベツ畑に移す。心の中で言葉を組み立てているのだろう。
アジェーリアが口を開いたのは、しばらく経ってからだった。
「……わらわは、ウィリスタリア国が好きじゃ。大好きじゃ。心から愛おしいと思っている。それ故、そこから離れたくはなかったのじゃ。」
「え?」
「生まれ育った、あの国が一等好きじゃ。他の所に嫁ぐくらいなら、いっそ城の塔に監禁されても良いと思えるほど。だから、思い付く限りのワガママを口にした。嫁にも出せない愚娘と烙印を押されたかったのじゃ」
「ええっ」
予想を超えるというか、斜め上のカミングアウトに、ティアは思わず声を上げてしまった。
けれど、アジェーリアは目を細めただけで、言葉を続けた。
「じゃが、王女として生まれたからには国の役に立たなければならない。姉上達も皆、そうしてきた。……父上はそんなわらわに、最高に役に立つ役目をあたえてくださった。だから、わらわは覚悟を決めた。……そして、覚悟ができれば、ワガママを言う理由も消えた。ただそれだけじゃ」
「……」
「だから、ティア。そんなおっかなびっくり、過ごさなくて良い。───……皆も聞いておるじゃろ?そういうことだ」
ティアから視線を外して警護に当たっている騎士たちをぐるりと見渡したアジェーリアは、からりと笑った。
憑き物が落ちたかのような、雨上がりの空のような笑みだった。