5
本署の裏口にて、成瀬は帰ってきたマンゴーを待ち受けた。
「どうだった?」
「つぼ浦も好きだって」
なんかモダモダしてたよ、と付け加える。成瀬は合点がいったとばかりに頷く。
「まあそりゃそうだと思ったけど、ならあとは…」
「デモいいのかな、俺らこんなコトして」
「逆にこのままこじれたときのほうがヤバいぜ?」
スマホをいじりながら成瀬はマンゴーに言い返す。
ただ三人一緒の空間になっただけで本音がこぼれ、客観的にも秘めた思いが見えるほど、というのはあまり状況としては良くないだろうなと成瀬は思った。
「確かに、悲しい気持ちにはなってほしくナイかな」
顔を曇らせた先輩のことを思い出し、マンゴーはポツリと言う。
「俺、つぼ浦のほうが心配だよ」
「お、奇遇だな。そう、らだおはまあどうでもいいんだよ。つぼ浦さんがなぁ、あんなに思いつめてると思わなかったぜ」
成瀬の声が固くなる。しかもその一端がおそらく自分たちである、ということが責任を感じさせる。
「まあ世話になってる先輩方に、花を持たせるってのも悪くないっしょ」
言いながら成瀬はスマホをトントンと操作した。
無視することはいくらでもできた。それでも放っておけないのは、二人にとってどちらも面白くて頼りになって面倒を見てくれる大事な先輩だったからだ。
「…もし失敗したらドウしようか」
マンゴーは少し弱気な声で呟く。
「そうだなあ、四人で溶鉱炉行くか一旦」
「エ、俺ヤダよ」
「俺だって嫌だから、成功してもらわないとな」
「ア、じゃあ上手く行ったらサ」
マンゴーはきらりと目を輝かせ、成瀬に耳打ちする。
「お、それいいな!今のうちに連絡しとくわ」
成瀬はスマホを操作し、ウキウキと電話をかけた。
*
数日後。つぼ浦は慣れないジャケットを羽織るとオレンジ色の愛車から降りた。
道の先には立派な構えのレストランがある。「たまに3人で飯食いに行ってるんすけど、つぼ浦さんも来ます?」と成瀬から誘いがあったのが昨日。アロハシャツは流石にまずいんで、と言われて無難に黒いジャケットに白いTシャツを選んできた。
思ったより格式高そうな店構えに少し緊張して怖じ気づく。一度は断ろうかとも思ったが、後輩の誘いを無下にするわけにもいかない。なにより青井と食事に行けるのは嬉しかった。一対一では心の準備ができないが、二人がいれば少しは落ち着いて話ができることを期待した。
ツタの巻き付く柱の陰に人影が見えた。つぼ浦の足音に気づいて顔を上げ、紺色の髪が揺れる。
「あ…アオセン?」
鬼の面を取った青井が、驚いた顔で立っていた。
「つ、つぼ浦、時間通りじゃん」
一瞬誰かと思って驚いたが、柔和そうな顔に黒縁の眼鏡をかけている。職場ではほとんど見ない素顔と、もっと見たことのないオフの姿に胸がどきりと鳴った。
青井は灰色のジャケットに濃紺のワイシャツだった。自分の格好はカジュアルすぎたのではないかと不安だったが、青井もノーネクタイだったのでつぼ浦は胸を撫で下ろす。
日は随分と傾き、弱まる残照と入れ違いにオレンジ色の街灯がつき始める。不思議そうな顔で二人を見つつ先に入っていく他の客のために道を開け、微妙な距離感で二人は後輩たちを待った。
「成瀬が予約してくれたんだけどさぁ、……遅いなあ」
何度見ても進みは同じなのに、青井は腕時計をしきりに見る。つぼ浦も落ち着きなく特に用もないのにスマホを取り出した。その画面に不意にメッセージが飛び込んでくる。マンゴーからだ。
「アオセン、猫くんお腹痛くなったらしくて」
スマホから顔を上げると青井もスマホを睨んでいた。
「……成瀬も持ち前の持病が悪化したらしくて」
二人は顔を見合わせた。形容しがたい空気が流れる。
「ど、どうします?帰りますか?」
つぼ浦におずおず言われて青井は我に返る。
「そうだね、キャンセル料とかは払ってあるらしいから…まあ、俺らも帰るのは店に悪いか」
「そうっすね、ハイ」
責任感が保身を上回り、二人は渋々店に入ることに決めた。
(成瀬が変なこと言うから)
(猫くんが変なこと言うから)
どうすんだよ…と顔に書いたままドアを開ける。
ただでさえ気まずいのに、先日した会話をそれぞれ思い出す。背中だけを押されたせいで気持ちだけがつんのめる。
天井が高く、落ち着いた照明の店内には華美になりすぎないテーブルが並んでいて、穏やかなクラシックが流れている。
成瀬の名前を告げればすぐに席に案内された。奥まった窓際の席からは中心街の夜景が見えた。見慣れたビルの光も店の雰囲気に飲まれたせいか、星もかくやとばかりに輝いて見える。
机に置かれたガラスの容器の中で蝋燭の炎がゆらめいている。その温かな光が並べられた銀のカトラリーに反射する。いわゆるテーブルマナーの要求されるタイプのコース料理だ、と気づいてつぼ浦は不安になる。
「これ、マジなやつっすか」
「いや他の人の雰囲気的にそんなにマジじゃないと思うよ、…多分」
上の空で答えながら、青井だけはハッピーセットとかいうゴキゲンなあだ名の後輩たちの意図に薄々感づいていた。
なにもないのに成瀬が青井の惚気話を聞きたがるわけがない。きっとこれは二人からの気遣いだ。だがお膳立てがあったとしてもなにか行動するのは自分なのだ。雰囲気のいい店で、上手くいきっこない片思いの人と二人きりにしてくれた感謝、よりも悩みと迷いのほうが前に出る。
まさか青井がそんなことで悩んでいるとは思いもせず、つぼ浦はテーブルマナーのほうに頭を悩ませていた。
見様見真似で青井がやるとおりにナプキンを広げて膝の上に置く。落ち着かずに店内をきょろきょろ見回すと、他の席からは無遠慮な大声も聞こえてくる。ドレスコードも厳しくないことから青井の言うようにそこまで格式張った店ではなさそうで胸を撫で下ろす。
そんな自分とは裏腹に、ドリンクを聞かれてなにやら注文している青井の姿はスマートで、そういえばこの人はだいぶ歳上なのだということを思い出す。実際は細かいことを考える余裕がなく、店員の言う通りに適当にうなずいていただけということをつぼ浦は知るよしもない。
「アオセンって、眼鏡なんすね」
料理が運ばれてくるまでの間、沈黙に耐えかねてつぼ浦は当たり障りのない話題を選ぶ。
素顔の青井とこんな距離で、しかも二人きりで会話をしたことはない。
秀麗な顔立ちは眼鏡をかけていると甘さが増して、端的に言うとずるいなとつぼ浦は思った。この顔に見惚れた人は一人や二人ではないのだろう。そして自分もまたその一人、大勢のうちの一人だった。
「ああ、普段は危ないからコンタクトなんだけど、非番のときはね」
「へぇー、似合いますね」
「そ、そう?」
なんの気なしに返した言葉が衝突した。うかつに褒めてしまったことと、軽はずみに喜んでしまったことで、隠れた恋心が見えはしまいかと不安になって二人はサッと目をそらす。
気まずい空気の中、いつの間にかワインが注がれ前菜が運ばれてきた。大きな皿とは不釣り合いなほど小さい料理をソースや花が彩っている。
「……なにこれ、なんて言ってた?」
ウェイターはなにか説明をしていたが、二人とも緊張して何も聞いてなかった。
「菜の花となんかの…なんか横文字だったな。見た目的に煮こごりじゃないっすか?」
「まあ煮こごりではないか、フレンチだし」
煮こごりと言われた途端になんとなく残念な気持ちになるが、菜の花の緑と黄色い花を閉じ込めたゼリーは蝋燭の炎できらめいている。
二人は芸術のようなそれにナイフをいれる。オレンジ色の部分はウニだった。おそらく美味しいのだが、緊張のせいで脳が味を受け止めない。青井はワイングラスに手を伸ばし、すでに半分以下になっていることに気づいて驚いた。無意識に飲んでいたらしいが記憶がない。
不器用な晩餐は無言で続く。
「……ごめんね、つぼ浦って俺のこと苦手だよね」
ため息混じりに青井は沈黙を破る。崩したゼリーの破片がフォークからするりと逃げた。
好きな相手の時間を独占できる幸せよりも、嫌いな自分と席を共にさせる罪悪感のほうが強い。自分の存在がきっとトゲであることを自覚して気分が重くなる。
「あぁ?」
「目が合うたびに小言ばっか言ってるからさ、いつもうるさいでしょ。そんな先輩と二人きりで食事、ってのもさ」
青井が謝罪する意味がわからずつぼ浦は呆気にとられた。それは全てこの身のちっぽけな幸せだったからだ。
こんなに口から出す一言に慎重になったこともない。不用意なことを一つも言えない。あてどなく言葉を探しながら、つぼ浦は食べていいのかわからない付け合せの花と葉っぱをとりあえず皿の端にどかす。
「う、うるさいなんて思ってないっすよ!俺が言わせるようなことしちまうんだし」
「でも実際言ってるのは俺だよ、本当嫌われて当然だよね。……いやこうやって謝ってるのもズルいか」
「俺の方こそいつも手間ばっかかけて、その……スイマセン」
自己完結する自己嫌悪には言葉を挟む隙がない。それでもなんとか謝罪を差し込んだ。自己満足だとしても言わずにはいられなかった。
絵画のように芸術的だった皿は、フォークまで迷ったせいで美しさの影もない。お通夜のほうがまだ思い出話に花が咲くだろう。
付き合ってもいないのに別れ話のような雰囲気を悟ってか、ウェイターは静かに説明して次の料理を置く。白アスパラのポタージュ。わかりやすい料理名に二人は胸を撫で下ろす。
ほのかに黄色がかった白いスープにやはりなにかの葉っぱが乗っている。つぼ浦はまずそれをどかすが、ふと青井の皿を見るとどこにもなかった。食べていいやつだったのか、と慌てて食べるが妙に爽やかで隠れることのない苦みが口に広がって顔をしかめた。
単体で食べるものではない。緊張の中、味らしい味として初めて自覚したのが謎の葉っぱであることが恨めしく、口に残った苦味を強引にスープで流し込んだ。
相手とペースを合わせて食べるのがマナーなら、つぼ浦はまるで0点だった。とっくに食べ終わったつぼ浦の前で無言で黙々とスープを口に運ぶ青井の所作は綺麗で、普段は同じ目線に立ってくれるが年長者としての経験値を感じる。
一方青井も脇目も振らず豪快に食べ尽くすつぼ浦の姿を盗み見て、内心では嬉しかった。
成瀬も予約するならこんな肩肘張った店ではなく、居酒屋でもよかったのにと心で愚痴る。それでも上品な店内で落ち着きなく座るつぼ浦はいつもの破茶滅茶具合からは程遠く、がんばって背を伸ばす姿は可愛らしかった。
会話もないままに皿が下げられ、次の皿が運ばれてくる。オマール海老のテルミドール、という料理名の通りチーズをたっぷり乗せられこんがりと焼かれた半身のエビに、色とりどりの野菜が添えられている。赤いカブのようなものや知らない形のキノコなど、見慣れぬ中に普通のブロッコリーを見つけてつぼ浦は少しホッとした。
「なに、テルミドールってなんなん」
「チクショウ、クーデターしか知らねぇな」
「え、逆にそれは何」
「アー、フランス革命っすよ」
「そっちのほうがわからん。……お前そういうとこ急にかしこいよな」
久しぶりにした会話がこれだった。新しい料理が運ばれてこなければ会話すらもたない。
つぼ浦は強くないのに断る余裕がなく注がれてしまったワインに口をつける。青井が選んだワインはブドウの味が強くて口当たりが軽く、酒に弱いつぼ浦でも飲みやすかった。
青井はとっくにアルコールが回っていて、葛藤をぶつけるようにホワイトソースとチーズにまみれた海老の身に強くフォークを刺す。
「……成瀬たちもいればな」
落ちてきた眼鏡を押し上げ、青井はポツリと呟いた。つぼ浦の胸がズキリと痛む。
「そう、っすよね、二人きりってのはやっぱアレだよな、ハハ」
「ああいや、そういうわけじゃ……いやどういうわけって話だけど、その」
青井は大変な誤解をさせたことに気づくが、その誤解を解くこともきっとまた別の誤解を呼び込む。迂闊な独白を挽回しようと視線をさまよわせる。
「いやほら、こんなに美味しいならみんなで食べたかったねって」
「ああ…確かにそうっすね」
どうにか納得したつぼ浦を見て胸を撫で下ろす。確かにこの空気に耐えかねて友人の助け舟を望む気持ちもあったが、それは決して二人きりが嫌という意味ではない。
「アオセン、いつも色んな人たちに囲まれてますからね」
つぼ浦は案外食べるところが少ない海老の身をフォークで探って口に運ぶ。かかっている赤い粉末は辛そうなのに辛くなく、むしろなんの味もしないことを訝しむ。
「カニくんや猫くんなんてアオセンのことすごい信頼してるし」
「でも今はお前と二人で話せて嬉しいよ」
「だけどいつも一緒にいるじゃないっすか。三人で」
つぼ浦は強く言った。その声にただならぬ濁りを感じて青井は目を見開く。
少し酒が回っているのだろう、自制が緩んでいるのは語気の強さからも明らかだった。
責めるようなその声は青井には向いていない。もっと後ろを睨みながらつぼ浦は深く息を吐いた。
「俺もあの二人くらい信用……いや、それは無理か」
声はどんどん小さくなる。なけなしの信用はとっくにすり潰され、足元には草一本もない荒野しかない。
「……俺がもしカニくんみたいに気が利いて、猫くんみたいに可愛げがあったら」
フォークを握る手に力が入る。到底及ばない後ろ姿が脳裏をよぎった。ぶつけても仕方のない感情で心がかき乱される。
「そしたら俺も、アオセンの横にいられたんすかね」
つぼ浦は泣きそうなくらい眉をひそめ、アルコールで浮いた目で青井を見た。
青井を慕う二人をどれだけ貶めても、自分の立ち位置は一つも上がらない。それどころか呪うたびに罪悪感ではち切れそうになる。
届きようのない憧憬と、わずかでも慈悲を乞う言葉だった。
「ふ、お前じゃ無理だろ」
青井は諌めるように軽く笑った。
今日初めて見た笑顔がこれだった。頭をガツンと殴られたような衝撃で、つぼ浦は呆然と口を開く。
「お前はあいつらの代わりになんかなれないよ」
殻だけになったエビの乗る皿を見ながら青井はため息混じりに言った。
「そ、っすよね、はは」
つぼ浦はひどく乾いた笑いをあげた。皿に置いたフォークがガチャンと大きな音を立て、グラスに少しだけ残ったワインが揺れる。
誰にもぶつけまいと思っていた闇が形を成してしまいそうになる。青井以外の全てに爪を立て、他のすべてを更地にすればいいと騒ぎ始める。つぼ浦匠ならそれが許される───混沌と爆弾で構成された自分なら、すべてを破壊してもきっと青井以外気にも止めない。
目の前がぐるぐると回るのは酒のせいだけではない。手が届かない絶望で視界が暗くなる。
呆然と俯く間に次の皿が運ばれてくる。完全にわからない横文字の料理名が耳を素通りする。焼けた脂の美味しそうな香りにももう興味はわかず、ナイフにも手が伸びなかった。
名前のわからない肉には位置さえも計算された美しいソースがかかっていて、付け合わせのグリルされた野菜も芸術的なバランスで配置されている。
渾身の一皿も作り物のゴムのように味気なく見えた。青井が簡単に吐き出した拒絶の言葉は、つぼ浦を信じられないほど深く突き刺していた。
絶望するつぼ浦の様子を察することもなく、青井は行儀悪くテーブルに肘をつく。
「あのなぁ、だってお前すぐどっか行っちゃうでしょ。どれだけ俺が追いかけてもさあ」
だいぶ酔いが回っており、すわった目のまま肉を切り分けたナイフでそのままつぼ浦の顔を指してみせる。先程までの丁寧なふるまいはどこへやら、不遜な態度で半ば独白じみた言葉を吐く。
「危ないことしてないか、ヤバいやつに絡まれてないか、怪我してないかどこかでダウンしてないか……でも、お前本当にどこまででも行っちゃうから」
列挙すれば自然なのに、ただ心配したいだけの愛情は口から出ると全部トゲに変わってしまう。ただ、今だけは飾らない本音が漏れた。
「……お前だけだよ、こんなに追いかけるのは」
自分の不甲斐なさに歯ぎしりし、深い深いため息とともに青井は本音を吐き出した。
「しかも追いつけないんだよ」
言いながら切り分けた肉を口に運んだ。柔らかく甘い脂はとろけるように消えていく。30を越えると脂が段々しんどくなってくるが、高級なだけあってすんなり腹に収まる。
こんなに近くで話しているのに、少しも心が近づけた気がしない。近づけたとしてもそこからどうしたらいいのかわからない。あきれるほど遠い距離に青井は何度目かわからないため息をつく。
その様子をつぼ浦は呆気にとられてただ見ていた。闇に溺れてしまった頭では青井の言葉が理解できず、必死で岸に手を伸ばす。
「追いかけてた?アオセンが、俺を?」
「そうだよ。……まあ伝わるわけないよな」
嘆きながら姿勢を戻して青井は残りの肉にナイフを入れた。つぼ浦も我に返って肉を攻略しにかかる。
投げ続けたトゲだらけの言葉の裏には常に愛情があった。しかし同時に自己満足という毒が横たわっていた。伝わるどころかむしろ伝えるつもりさえないような振る舞いは、ただただ溝を作っていた。
「お前があいつらの代わりになれるわけがないんだよ。絶対無理じゃん、ちょっと可愛げとかあったとしてもさ。だってつぼ浦じゃん」
「ど、どういう意味っすか」
真意を測りかねてつぼ浦は聞き返す。少し怒ったような目で青井はつぼ浦をじっと見た。
「お前、足を止めないだろ?……横にいてほしいのはこっちの方だよ。……ああ、駄目だ、なんでいつもあんなことしか俺は……」
最後の方はモニャモニャと言いながら青井は残りの肉を飲み込み、ナプキンで口元を拭くと椅子に深く寄りかかった。
自分が囚われそうになった闇は存在しなかったことに気づき、つぼ浦は言葉を失う。飲み込んだ肉はまた緊張でなんの味もしない。今まで勘違いしていた誤解の根本が見えそうで、距離を詰めるために口を開いた。
「お、俺だって、アオセン来てくれるのが嬉しくって」
それを言うだけで頬が赤くなるのを感じた。恥ずかしさからうつむくつぼ浦を見て、青井はゆっくり体を起こす。
「俺が何してもアオセンだけは見捨てねぇで来てくれるから、だから何でもできて」
「あんなに口うるさい、小言ばっかりじゃん」
「そりゃ悪いことしたら当然っすよ」
「……ダルいことしか言ってなかったよね」
湿った声で青井は言った。つぼ浦は悲痛な眼差しで言葉を続ける。
「でもキャップが来ねぇときだってアオセンは来てくれるじゃないっすか。俺がどんだけ爆発させても来てくれて、その時だけは一緒にいられて、……怒られても嬉しくて」
とてもではないが恥ずかしい本音がこぼれ出た。その向こうにどんな感情が潜んでいたとしても、まっすぐ向き合ってくれた青井の存在がどれほどありがたかったか、どうしても伝えたかった。
「……すんません、甘えてました」
頭を下げるつぼ浦を青井は驚いた顔で見ていた。投げ続けたトゲが非難ではなく、まさか受け入れられていたとは思っていなかったのだ。
しかも言葉だけを聞くと、叱られるのが嬉しかったとしか受け取れない。傷つけたと思っていたのにそうじゃなかった、という事実をじわじわと理解する。
「一緒にいたかった、ってこと…?」
「そう……なりますね、ハイ」
つぼ浦はうつむいたまま小さく頷いた。
利害が一致していたことに気づき、青井も顔に熱が集まるのを感じる。絶対に酒のせいだけではない。
誤解が解けるとそこに残っていたのはいびつになってしまった「ただ一緒にいたい」という思いだけだった。
たくさんの人から信頼され、花束をもらい続けていた青井が、必死で自分に花を渡そうとしていたことに気づいてつぼ浦は何も言えなくなった。
自分では渡すことができないと諦めていた花を、相手も渡そうと苦心していたのだ。信用のない自分とは比べ物にならないほどのたくさんの花束に埋もれながら、それでも一輪、渡そうとしてくれていた意味が胸を鋭く打つ。
「え、じゃあもしかして俺の存在がロケラン撃たせてたってこと?やったら俺が来るからって」
「いや、いなくても撃ちます」
「撃つんだよ」
急に我に返った青井に問われ、即答するつぼ浦に青井は諦めの視線を送る。
「そう、撃つんだよね。あ〜、つぼ浦らしいわ。……追いつけないわけだ」
完敗、の2文字を顔に浮かべて青井は眉間に手を当てた。
長かったコースもようやく最後、デザートにたどり着いた。大きなイチゴの乗ったミルフィーユだ。パリパリのパイ生地にはみ出さんばかりのクリームが挟まれていて、中にもいくつもイチゴが入っていた。
つぼ浦は恐る恐るナイフをいれる。割れたパイ生地があまりにも大げさに飛び散った。きれいに整っていた形も崩れそうで、焦りながら青井を盗み見るとさっさと横に倒して小さく切り分けていた。倒すのありなのかよ!と内心絶叫しながらつぼ浦もそれに習う。
サクサクのパイ生地とクリーム、甘酸っぱいイチゴが見事なバランスで口の中で合わさり溶ける。つぼ浦は先ほどの絶対に美味しかったはずの肉の記憶があやふやなことを少し恨んだ。それでもこの絶妙な甘さは最後を彩るにふさわしい。
利害が一致していた事を知って少しだけ心が軽くなった。しかし隠し持った恋心を出すきっかけを掴めず、二人とも黙々とミルフィーユを食べ進める。
つぼ浦は考える。青井もつぼ浦に横にいてほしいと思っていたという。それはきっとあの二人のように、どこでもついていくことなのだろう。
「……もし闇落ちして、ギャングになるときはついてきますよ、俺も」
転落にも簡単に付き合えると言い切れる二人が羨ましかった。勇気を出したつぼ浦の申し出を、しかし青井は笑って拒絶する。
「なんでだよ、お前は来んなよ」
「な、なんでですか」
硬質な音を立ててフォークが皿にぶつかった。簡単に跳ね除けられて胸がキリキリと痛む。
「……やっぱ俺は駄目なんすか」
一致したはずの感情が、やはり思い込みだったかもしれないと思い詰める。その様子に今度はちゃんと気づいて青井は首を振った。
「違う違う、成瀬やマンゴーはきっと疑わずについてきちゃうからね。みんなも警察の闇落ちなんて見飽きてて…」
そこで言葉を切る。少し言い回しを考えるが、最初に思いついたことを口にした。
「止めるんだよ、その時は」
澄んだ空色の目がつぼ浦を真っ直ぐ捉えた。
「そんなことありえないけどさ、でもお前、許さないだろ?絶対に」
強く言うと形の良いイチゴをフォークで突き刺し、口に運ぶ。茫然とするつぼ浦に青井は言葉を続ける。
「信頼してるよ。お前は絶対に揺らがなくて……だから俺はどこにも行かないし、戻ってこれるんだよ」
そして優しく微笑むとつぼ浦を見た。
その顔と、言葉が胸に染み込む。思わず目頭が熱くなって、こらえるようにイチゴを頬張る。
「信用…してないんじゃないんっすか?」
「ははっ、確かに信用はないなぁ。でも信頼してるよ」
「信用してないのにっすか」
最後までこびりつく疑念に足を捕まれ、泣きそうな顔でつぼ浦は青井に縋った。
その顔を見て困ったように眉をひそめ、軽く笑うと青井は告げた。
「そうだよ。お前、どこまで行ってもつぼ浦匠だろ」
信頼という名の花が、唐突にぽんと渡された。
信用は過去の実績、信頼は未来への期待だ。ならば0の信用しかないはずなのに100の信頼を簡単に差し出せるのがどういう意味か。
「…………ハイ」
じんわりと視界が潤んでつぼ浦は俯いた。
成瀬やマンゴーのいる場所はいつまでも遠く、どうやっても届かなかった。
しかし青井の中で自分の収まっている場所がその二人とは全く違うことをつぼ浦は悟った。肩を並べるのが戦友なら、戻るべき場所には別の名前がつくだろう。
望んでも最初から届くはずがなかったのだ。言外の強い思いを受け取り、つぼ浦は涙がこぼれないようにぎゅっと目を閉じた。
*
とっくに酒は抜けていたが、二人はフワフワした足取りで店をあとにした。
わだかまっていた長年の誤解を解くことができた安堵が二人の間にあった。青井は今までの懺悔ができてホッとしていた。愛情の裏返しをぶつけ続けていたことと、それが好意的に受け止められていたという事実で口が緩む。
そしてそれは自分がつぼ浦には嫌われていなかった、ということだ。当初の思い込みとはだいぶ話が変わってきて戸惑う。
つぼ浦は都合よく受け取れてしまう青井の言葉に困惑していた。成瀬とマンゴーの言葉が脳裏をよぎる。
お互いに「もしかして」の入口まで来ているのに決定打がない。浮つく足取りで駐車場に向かい、それぞれの車に別れようとしたところで青井のスマホが鳴った。
「事件っすか?」
「いや、成瀬からなんだけど…」
メッセージにはそろそろ合流できそうだけどそっちの様子はどう?といった内容が書かれていた。
「なんだよ、成瀬たち来れるのかよ。食べ終わるの見計らいやがって」
やはり仕組まれていたことに気づいて青井は歯噛みする。そんなことはつゆほども知らないつぼ浦は、なにか返信をしようとする青井を見てゾワッと総毛立った。
心の中の独占欲が、言い方を変えれば嫉妬が大きな波を立てる。
自分はきっと青井の中で一人しか収まれない場所に収まっていて、それは何よりも得難いことなのだろう。しかし今止めないと成瀬たちが来て、また青井が取られる。決して綺麗ではない感情が背中を突き飛ばした。
「い、い、嫌だったらぶん殴って煮るなり焼くなり好きにしてください」
「へ?」
青井が振り向くよりも先に、つぼ浦はその背中にぎゅっと抱きついた。
心臓がバクバクと鳴る。必要以上に呼吸が早くなり、顔が焼けるように熱い。きっと服越しに自分の鼓動は伝わっているだろう。だがどう思われても構わない。今退けば一生後悔する。
「は……?」
「そ、その……」
「ど、どうしたの急に、こんな」
震える声で青井は言った。つぼ浦は急いで言葉を探す。
「……い」
胸に回した手に伝わる鼓動も、自分と同じかそれ以上に早いことに気づく。この熱が逃げていかないようにとつぼ浦は腕に力を込めた。
「行かないで…ください」
まっすぐな本音が、まったくの本心が、思考よりも先に言葉が出た。前で強く息を吸う音が聞こえた。
「駄目だよ、駄目だってつぼ浦」
しばしの無言のあと、青井が焦ったように言う。その拒絶の言葉に手が緩む。
「あ、す、すいませ…」
「つぼ浦なんか好きになった時点で人生詰んだと思ってたのに」
「な、何だよその言い草はァ?!……え?」
青井は乱暴に手を振りほどいて振り向くと、つぼ浦を見上げた。手から滑り落ちたスマホが地面に落ちる。責めるような強い目に胸が痛むが、青井も耳まで真っ赤になっていることに気づく。
何より不意に放たれた「好き」という言葉が脳内をこだまする。それを理解するより先に青井はつぼ浦の手を強く掴んで引き寄せた。身体がぶつかり、驚くほど顔が近づく。思わず身を逸らそうとする背中に手を回し、逃さぬようにぎゅっと抱きしめた。
「……ねえ少し図に乗っていい?」
「な、なんすか」
「お前も、俺のこと、好きって思っていい?」
どくん、と心臓が高鳴った。青井は少しも目をそらさずにつぼ浦を見つめていた。
これはただのうぬぼれで、純粋なつぼ浦の心を引きずり捻じ曲げるかもしれない。それでも構わないと激情が叫ぶ。ここまで来て手を離せない。青井はその先にある痛みも覚悟してつぼ浦の言葉を待つ。
つぼ浦は荒い呼吸のまま口をぱくぱくさせる。こみ上げる思いは熱く、嵐のように全身を激しく打つ。苦しみなど一つもないはずなのに喉が詰まって声が出ない。
「わ……わかんねぇ、レンアイとか。でもアオセンのこと、……渡したくねぇ」
つぼ浦も青井の背中にそっと手を回す。恋愛の意味を知らないつぼ浦の精一杯の声だった。
その声を聞いて、微笑みながら青井はつぼ浦の真っ赤な頬に手を添える。
「わかってんじゃん。それが恋愛じゃなきゃなんなんだよ」
近くで見つめられ、つぼ浦の中でなにかがストンと腑に落ちた。糸で結ばれたように今までの物事が繋がっていく。
恋愛とは激情の海で、儚く獰猛で、誰にも渡したくないと吠える怪物だ。それは今まさにつぼ浦の足元を濡らし牙を剥いていた。
爆発させなくてもそばにいて、信用がなくても信頼をくれる、そんな青井に答える言葉は一つしかない。
「これが恋愛ってやつなら、俺、アオセンのこと、好きだ」
瓦礫の荒野にやっと咲いた一輪の花が、ついに想い人の手に渡る。
つぼ浦は泣きそうな顔を青井の肩にうずめた。
6
翌日。出勤してきた二人は駐車場の階段の上で鉢合わせた。
「お、おはようございます」
「ああ、うん、おはよう」
目があった途端にどちらともなく顔を逸らす。昨日確かに思いが通じ合ったはずだが、本当に付き合ったのか?夢だったのではないか?などなど、帰宅してからも現実を受け入れられないまま夜が明け、そしてもう再会してしまった。
身体はふわふわと浮ついたまま、会話のきっかけが掴めない。
「「あの」」
そして勇気を出した第一声がぶつかった。真っ赤になってそっぽを向いた瞬間、植え込みの影から人影が現れた。
「おはよー、じゃこたち」
「おはようっす、元気そうじゃん」
マンゴーと成瀬がひょっこり顔を出す。おどけたペンギンマスクとシャープな猫のマスクが二人を見る。
「おはよう。ど、どうしたの?」
「猫くんもそろって、どうしたんだ?」
「はいこれ。俺たちからのプレゼントな」
「二人とも、おめでトウ」
困惑する二人に、二人は背中に隠していたものを差し出す。
それは大きな花束だった。白を基調に青いバラや、オレンジのチューリップがはち切れんばかりにあつらえられている。青とオレンジの花が多いが、その色の意味は察するまでもない。
「は?え?!なに、どうしたの成瀬?!」
「みなまで言わせるなよ、なったんだろ?恋人」
「な、なんで…?!」
「ッ~~?!」
臆面もなく言われてつぼ浦は卒倒しかける。倒れる前にマンゴーに花束を渡された。思ったよりも大きく、ふらつく手をとっさに青井が支えて二人で花束を抱える。
「ちょっと、どういうこと?」
「さぶ郎に頼んで作ってもらったんすよ。二人のためならって張り切ってたぞ」
「スゴイきれいだよね、間に合ってよかったネ」
「いやそうじゃなくて、なんなん…なんなんだよ!」
青井はモゴモゴと口ごもる。問いたいことが多すぎて言葉が出ない。
「カニくん…いや、二人とも、もしかして……見てた、のか?」
「いやあ?双眼鏡はなんでか知らないけど聞こえない音まで聞こえるとか、関係ないよな。なあ、マンゴー」
「そだね、スマホカメラで拡大するとスゴイ大きく見えるとか、関係ないよネ」
「ウッ」
飄々としらばっくれる二人の前でつぼ浦は心停止しかかる。青井は成瀬のことをわりと本気で何度か殴るが、二発目以降は軽く避けられた。
昨日の会食が二人にセッティングされたものだと青井は気づいていた。他にも成瀬と会話して自分の恋心を整理することができたのも確かだ。
つぼ浦も成瀬に背中を押され、マンゴーに話を聞いてもらったからこそ一歩踏み出すことができた。
つまり、そんな二人にここで祝福されるのは当然の帰結だ。しかしなんなら告白したときよりも小っ恥ずかしくてつぼ浦は顔がくしゃくしゃになる。
「つぼ浦、らだおも、今すぐ退勤するんだヨ」
「そうそう。ま、そんなデケェ花束持って歩きてぇならどうぞ出勤しやがれや」
しっしと追い払うように手を振られ、二人は顔を見合わせる。
だから一人で持つにはかさばるほどデカいのか!とさらなる配慮を見せつけられ、つぼ浦は思わず目を閉じる。
「……なんだよ、やっぱり敵わねぇじゃないか」
聞こえないように小さく呟いた。青井にとって唯一の存在になったとしても、二人は届かない別の場所でやはり輝くことには変わりがない。
だがかきむしるような嫉妬よりも晴れやかな、感謝の気持ちが胸を満たす。
「二人ともありがとうな、マジで」
「……ありがとね」
つぼ浦に続いて青井も苦々しげに感謝を告げた。
「それで、ど、ど、どうしますかこれ」
「ええっと…お、俺の家に置く?今から行こうか?」
「アオセン、の、家?!」
その前に踏むはずの段階をすっ飛ばしていきなり好きな人の家に行く、というRTAばりのショートカットを決めていくがテンパる青井はそのヤバさに気づいていない。つぼ浦もいい感じに丸め込まれ、二人は花束を抱えながら駐車場への階段を降りていった。
瑞々しい花の香りだけがあとに残る。初々しいやり取りを成瀬とマンゴーは微笑ましく見送った。
後輩二人が嫉妬するほどの、他人では到底及ばないほどの愛に至るには、この恋はまだ始まったばかりだ。
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友達と恋人は収まっている棚が違うだけで同じくらい大事だよね。
ピュアすぎるので家に行っても特に何もなくお茶飲んで帰ってくると思う
リクエストありがとうございました…!どっちも初々しい二人で書いてみました。せっかくだからくっつくところまで書かねば!と思ったらすごい長さに…
コメント
13件
今回は流石に『エンダァァア!!』と叫ばせていただきます。本当にありがとう……抱きしめも達成してくれて感謝の念が絶えません🙏 張り込み班の🦀くんと🥭も盛り上がってくれてたらいいな… 緊張で二人とも全然料理を味わえてなかったので、記念日とかまた二人でここのレストランに食べに来て、あの時の自分たちを話の種にでもしながら美味しい料理を堪能してほしいです! 素敵なお話をありがとうございました!
すごくすごく最高でした…! いい感じにすれ違っていい感じに傷ついて…そこからハッピーエンドに至るまでの流れが完璧すぎて思わず悶えてしまいました。 ハッピーセット同士の絡みと、後輩・🏺の絡み、どちらも強い関係値が文章中に沢山現れていて、「憎めない…誰も憎めない……!」と読んでる側も非常に苦しかったです(笑) これからも何度も見返しに来ようと思います。素敵な作品をありがとうございました!
ずっと砂場さんの作品を読んできましたが、今回の描写も最高でした……! 🟦の「撃つんだよ。」というツッコミ、うわ〜解釈の一致だ!と悶えました。確かにあの状況なら🟦は「撃つの!?」とは言わないよな、と。 ところどころに掛け合いのようなことをする二人のやりとりがとてもリアルで読んでいて楽しいです✨ これからも応援します!!