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第十三話 それはまるで
甘噛み一つでつく傷。
手の甲から赤い血が伝い、床に水溜りをつくっていった。
自由になるためならばこんなの痛くもない。
今までされてきたことに比べれば。
朝の礼拝堂は冷える。
石の床から這い上がってくる冷気が、素足の裏にじわりと染みてくる。けれど、この静けさは嫌いじゃない。誰もいない時間、誰にも見られていない時間だけは、少しだけ呼吸が楽になる。
祭壇の前に膝をつく。
どうか。神のご慈悲を──
指先がひりついた。
夜のうちにつけた浅い傷が、乾ききらずに突っ張っている。
ちゃんと傷になる。ちゃんと“綺麗じゃなく”なる。
正しいことではないことはわかっている。
それでいい。
あの人のそばに置かれるには、私は綺麗すぎる。
綺麗だから、磨かれる。
整っているから、直される。
価値があると思われるから、手をかけられる。
なら、穢れてしまえばいい。
そう思っただけだ。
背後で、空気がわずかに揺れた。
足音はほとんどしない。それでも分かる。この気配を、私は嫌というほど覚えている。
振り向く前に、声が落ちてきた。
「ウラシェル」
肩が勝手に跳ねた。
「……アディポセラ様。おはよう、ございます……」
視線を上げる。いつも通りの顔。柔らかくて、穏やかで、疑いを知らない目。
その視線が、私の手で止まった。
次こそは。
「その手は、どうしたのです」
「……問題ありません」
また少し拍を置いてみる。
彼女の眉がきゅっと寄る。
これで嫌いになったか?
「問題ない、で済ませてよいものではありません」
怒っているわけじゃない。
責めているわけでもない。
ただ、本気で心配している声。
胸の奥がざわつく。
また、自由になれなった。
違う。そうじゃない。
心配させたいわけじゃない。
ただ穢らわしいと妬み嫌うだけでいいのに。
あなたの性格なら容易いことだろうに。
「部屋へ戻ります。手当てをしなければ」
手首を取られる。
強くない。逃げようと思えば逃げられる力。
でも、振りほどく理由が見つからなくて、そのまま立ち上がった。
部屋の中は暖かい。
椅子に座らされ、手を取られる。薬の匂いが近づく。
「少し、染みますよ」
細い指が、傷の上をなぞる。
浅い。大したことない。痛みなんて、ほとんどない。
いよいよ手段がなくなってきた。
数十個も考えたのに、全て空振りだった。
逆に、ますますアディポセラ様との接触が深まることばかりだった。
──もう残された手段は一つしかなかった。
できる限りしたくなかった。
アディポセラ様と同格にはなりたくなった。
そんなことを考えているうちに手当ては終わっていた。
アディポセラ様は棚から箱を持ってきた。
中から出てきたのは、柔らかそうな革の手袋。
「これは、私が昔使っていたものです」
胸がひくりとした。
「傷が治るまで、これを使いなさい。これ以上、手を傷つけないように」
逃げ道を塞がれた気がした。
なんでお前のものを使わなければならないのだ。
俺は前世で何か悪いことをしたのか?
見るだけで鳥肌が立つ。今すぐにでも投げ捨てたい。
「……ありがとうございます」
できるだけ無機質な声で言ってみるが、無論反応はない。
手袋は少し小さい。指先がきゅっと締め付けられる。
まるで、
あなたの手はもう私のものとでも言われたみたいだ。
「怪我には気をつけましょう」
子どもに言い聞かせるみたいな声。
最悪だった。
「お勉強しましょう」
机に本が広げられる。
文字が並んでいるだけなのに、鎖みたいに見えた。
逃げられない時間。
アディポセラ様の隣に座り、本を手に取る。革手袋越しに紙の感触が遠い。
「異教の話ではありますが、教訓として学ぶ価値はあります。私のお母様がこの宗教の国の人でしたので、書物が残っているのです」
アディポセラ様が読み方を教え、私が読み上げる。
低い声が部屋に落ちていく。
イカロス。
父に作られた翼。
迷宮からの脱出。
読みながら、胸の奥がじわりと冷えた。
イカロスは日の光に翼を溶かされ、落ちてしまう。
今の私にぴったりだった。
アディポセラが日。
私の自由という名の翼をもがいていく。
手どころか、自由どころか、人格どころか、魂さえも縛っている。
それはまるで。
人の魂を喰う化け物のように。
用無しになればそのまま捨てる。
喰い散らかす。
政と同じだ。
昔、奴隷として買われたからわかる。
政のように。
今すぐにでもここをおさらばしたい。
もう、私は。
あの手段を使うしかないのだろうか。