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風呂場のドアを開けると、ふわりと湯気と一緒に入浴剤の香りが鼻をくすぐった。
ドラッグストアで売っている、ごく普通の市販品だが、私が昔から気に入っている香りだ。ストックを切らさないように、安売りの時に箱ごと買っておいたはずだ。
一人で入る時は、順序など一切気にしない。
真っ先に浴槽へ飛び込み、しばらく浸かってからのそのそと体を洗う――それがいつもの流れだった。
だが今日は、沙耶が一緒だ。
多少は「女子」らしく、先に体を洗ってから浴槽に浸かることにしよう。せめて形だけでも。
問題は、どちらが先に洗うか、だ。
「お姉ちゃん、先洗う?」
「うーん。沙耶が先で」
「いや、ここはお姉ちゃんが――」
譲り合いの精神という名の、不毛な押し付け合いが始まる。
年長者らしく、ここは沙耶の意見に従うべきか――と考えあぐねていると、沙耶がぱっと顔を上げて、妙案でも思いついたように言った。
「あっ! 洗いっこすればいいんじゃない!?」
「……その手が! じゃあ先に沙耶が洗われる側ね」
「えっ、あ、うん……」
最後に一緒に風呂に入った時も、確か互いに洗い合っていた。
ならば今回も問題はない――はずだ、多分。
私は沙耶を風呂椅子に座らせ、シャワーの温度を確かめてから、彼女の髪にそっと湯をかける。
「かけるぞー」
「事後確認じゃん……やっぱり自分で洗おうかな……?」
「たまにはいいじゃん」
「……うん」
沙耶の長く伸びた髪が、湯気と共にしっとりと濡れていく。
手に取ったシャンプーをよく泡立てて、指の腹で頭皮をマッサージするように、ゆっくりと洗っていく。
こうして髪に触れていると、遠い記憶が自然と引き出されてくる。
「確か昔、沙耶はシャンプーハットが無いと頭洗えなかったよね……」
「いつの話してるの! いっ、今はちゃんと洗えるし!」
「はははっ、そうだね」
慌てた声が、シャワーの音に混じって跳ねる。
高校三年にもなってシャンプーハットを愛用していたら、さすがに姉として色々と心配するところだったが、その点は杞憂で済んだようだ。
「流すよー」
「はーい」
泡を丁寧に洗い流し、髪全体にトリートメントを馴染ませる。
回帰前はシャンプーだけで終わり、なんて雑な洗い方しかしていなかったので、こうして一手間かけるのは少し新鮮だ。
馴染むまでの時間を使おうと、私はボディタオルを手に取って沙耶の背中を洗い始めた。
「そういえばさ、揉まれると大きくなるってネットで見たけど自分で揉んだんじゃ意味ないそうなんだよねー……」
「…………」
沙耶の背中をこすっていた手が、ぴたりと止まる。
爆弾、投下。
いや、爆弾というか、地雷というか、色々とアウトな話題というか。
……つまり、それは遠回しに「誰かに揉んでほしい」と言っているのか?
いや、いくらなんでも考えすぎだろう。たまたま見かけた情報を口にしただけかもしれない。
――ただ、一応、確認だけはしておきたい。
「もっ、揉もうか……?」
「ふぇっ? あ、え、お願いしマス……?」
軽い冗談半分で言ったつもりが、まさかの了承が返ってきた。
冗談とはいえ、引っ込めたら余計気まずくなりそうだし、言い出したのは私だ。
責任を取る、というのも変だが、とりあえず洗う手を止め、そっと脇の下から腕を回す。
「ひゃっ!? あっ……おねぇ、ちゃん……」
びくん、と沙耶の肩が跳ねる。
耳まで真っ赤になっているのが背中越しに分かる。
私はあくまで「洗い」の延長のつもりで、必要以上に長くならないよう注意しつつ、ある程度のところで区切りをつけることにした。
……つもりだったのだが。
気付けば、予想以上に時間が経っていたらしく、沙耶の膝がかくかくと震え始めたところで、ようやく我に返る。
「悪かったね、沙耶……」
支える力を緩めると、沙耶は力なくこちらに寄りかかってきた。
涙目で、精一杯の抗議の視線を向けてくる。
嗜虐心、というものはこういう時に芽生えるのかもしれない――などとふざけたことを考えつつも、さすがにやり過ぎた自覚はあるので、おとなしく頭を下げる。
「……今日中にぜっっっっっったい仕返しするから覚悟しててね……お姉ちゃん?」
「ははは……今度はちゃんと体を洗ってあげるから許しておくれ……」
「えっ? きゃっ!」
寄りかかっていた沙耶の姿勢を正し、片腕でしっかり支え直す。
今度は真面目に、背中から腕、肩、足まで、泡を転がすように丁寧に洗い上げていく。
「お姉ちゃん、そんなに力あったっけ?」
「ははっ、姉たるもの妹ぐらい支えられないとね」
「いや、そういうことを聞いてるんじゃなくって……」
危ない。
能力値の上昇によって、日常生活での出力も上がっている事実を、すっかり忘れていた。
適当に笑って誤魔化すしかない。
洗い終えた泡やトリートメントを流すため、シャワーの温度をもう一度確かめてから、ざぁっと湯をかける。
観念したのか、沙耶はもうされるがまま、目を細めて気持ちよさそうにしている。
「よし、完了!」
「わーい……」
返ってきたのは、元気があるのかないのか判別のつかない声だった。
トリートメントもコンディショナーも終え、ようやく一段落だ。
……自身が女体だと、こういう「役得」もあるのか、と、ほんの一瞬だけ邪な考えが頭をよぎるが、それ以上深く考えないようにして、自分の髪を濡らそうとシャワーに手を伸ばした――ところで、横からそれを奪われた。
「――――次は、お姉ちゃんの番だよね」
ぞくり、と背筋が冷える。
――忘れていた。
さっき決めたのは「洗いっこ」だったことを。
光の灯っていない瞳で、沙耶は静かに宣告する。
「えっ、あっ、ちょっと待とう、沙耶? ね?」
命乞いに近い言葉を並べてみるが、当然止まるはずもなく――その後、私がどうなったかというと。
全身、文字通り「隅から隅まで」洗われた。
やったことは倍返し。弱いところも、こそばゆいところも、容赦なく責められた結果――。
『愛の神が貴女たちを祝福しました』
視界の端に青い画面が浮かんだところで、ようやく正気を取り戻した。
画面を消し、浴室の床にひっくり返っている自分の姿に気付く。
経験のない感覚に晒され、途中からは情けなく「もう勘弁してくれ」と懇願する羽目になっていたのを、鮮明に思い出して、頭を抱えたくなった。
何より――仕返しをしている沙耶の表情が、途中から妙に楽しそうだったのが忘れられない。
間違いなく、姉をいじり倒すのを満喫していた。
「もうだめだぁ……およめにいけないなぁ……」
行く予定もない「お嫁」を嘆いてみる。
沙耶からの返答は、一切の言葉ではなく――頭の上から、冷水がざばっと降ってくる形で返ってきた。
なるほど、頭を冷やせということか。
火照り切った顔を冷ますのには、ちょうど良かった。
立ち上がれる程度には回復した私は、ちらりと浴槽を見やる。
広々とした浴槽の真ん中を陣取り、鼻歌交じりに歌を歌っている沙耶がいた。
すっかり機嫌は戻っているらしい。
私もそろそろ浸かるか、と無言の圧力を込めて浴槽の横へ立つ。
この浴槽は、一人で入る分には足を伸ばしても余裕がある広さだが、二人で入るとなると、誰かが少しは遠慮しないといけない。
ほんの少し膝を曲げて前に詰めてくれれば、私も余裕で浸かれるはずなのだが――沙耶はちらりとこちらを見ただけで、ぴくりとも動かない。
なるほど。そう来るか。
「下敷きにしていいということだね」
「あーっ! だめだめ!! ちゃんと退くから!!」
わざとらしく足を上げてそのまま入ろうとした瞬間、慌てて前にずれる沙耶。
空いたスペースに、私がどっぷりと腰を沈める。
結果として、私を背もたれにして、沙耶が前に座る形になった。
湯の温かさと沙耶の体温が、じんわりと背中からも伝わってくる。
「あ゛ーー…………」
「お姉ちゃん……そのおっさんみたいな声どっから出してんのさ」
「風呂は染みるねぇ……」
思わず漏れた声に、沙耶が呆れたような、しかしどこか楽しそうな声で突っ込んでくる。
やはり風呂はいいものだ。
過去に戻る前は、ほとんどダンジョンの中で過ごしていた。
身だしなみは最低限、体を拭くかシャワーを浴びるだけで済ませる日々。
湯船に浸かる、なんて贅沢をしたのは、何年前だったろうか。
こうして腰まで湯に浸かるのは、回帰前から数えても、数年ぶりかもしれない。
「ふかふか……」
「沙耶も柔らかかったよ」
何が、とは口に出さない。
沙耶の後頭部が、私の胸にぴったりと寄りかかっていて、その度にふに、と押される感触が伝わってきている。
「違うんだよ、お姉ちゃん。私のも柔らかいかもしれない。だけどね、違うんだよ」
「何が違うの……」
「量。そして質。あと、自身の胸には寄りかかれないでしょ?」
「あっ、はい」
妙に説得力のある説明に、思わず素直に返事をしてしまう。
――だからね、と、沙耶は湯船に浸かったまま、胸についての持論を延々と語り続けるのだった。