テラーノベル
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その日は、俺__神嵜 宵瓈、十六歳__にとっては、過去一番の厄日だったように思う。
「うるさいな……しばらくすれば帰るって言ってるだろ。それじゃ。」
鼻息も荒く親からの電話を切って、苛立つ感情をベンチにぶつける。生温い風が頬を撫でた。
ごちん、と対して大きくもない音と、手首の痛みだけが残って、思わず顔を顰める。『格好悪いな』とつい、自分の行動を『俯瞰』してしまう。どうやら、これは昔からずっと俺の悪いクセらしい。
だがそんな馬鹿馬鹿しい行動なんて信じられないぐらい、夏祭りの屋台が撤収済みの稲荷神社は静謐で。同じ深夜でも新年じゃないってだけでこんなに人がいないもんなんだな……と、特に意味のない思考を転がす満月の夜。
俺は月が好きだけど、月が嫌いだ。冷たくて鋭いから。暖かみが無いから。まぁ、かといってこうも暑いのは勘弁だけど。
夏。夏。夏。夜だってのにこんなにも暑い。足元から頭のてっぺんまで、蒸し器の中に突っ込まれたみたいな気分だ。それかサウナ。買ったばかりの甚兵衛が肌に張り付いて、少しだけ気持ち悪い。思わず「はぁ」と重たい溜息が一つ、俺の口からこぼれて落ちた。
夏祭りに行けなくなった、それはまだ良い。でもそれならもう少し、早いうちに言っておいてほしかった。俺、結構頑張って誘ったんだけど。最大の敵が恋のライバルとかじゃなくて夏期講習って、本当になんなんだ。
そんなどうしようもない不平不満を抱えて、かと言って具体的に何かをするでもなく、ただぼんやりと物思いに耽って。どうしようもない事は理解している。それでも鬱屈とした気分のまま、俺はまた一つ、本日37回目の溜息を吐く。
ずぶずぶと、地面に足が沈んでいくような感覚。ベタつくような生温い風が頬を撫でるけど、当然のように爽快でもなんでもない。むしろ不快だ。ゴミ箱が近いせいかは知らないが、何となく生臭い気すらする。
へいへい、どうせ俺なんてどうでも良いと思われてますよーだ。
あーあ、厄日厄日。
投げやりな気分で、また一つ溜息を吐く。幸せが逃げる?知った事か。ほんの数時間前まで楽しげにパンパンと破裂していた火の華だって、とっくのとうに終わっている。
気が狂いそうな、永い永い静寂。
___でも、静寂はいつか終わるもの。
ただただ何もせずに佇んでいると、段々と感覚が過敏になり始める。特に顕著なのが聴覚で、普段なら雑音として聞き落とすようなものまで聞こえてしまう。
僅かに揺れる木々の騒めき、相手を求めるセミの声、ゴミ箱を漁る鴉の羽音、耳周りを飛ぶ蚊の厭な音___俺が聞いた“ソレ”は、間違いなく、そんな日常に紛れていた。
それでも、“ソレ”は夏の喧騒の合間を縫って。結果的に俺の耳は、呻き声のような、はたまた啜り泣くような___何とも言えない、“声”のようなものを、拾ってしまった。
「……神社の奥、か?」
何となく口に出して、好奇心のままに音の方向へと向かう。警鐘をならす『俯瞰』を、どうせ酔っ払いの声が聞こえただけだ、なんて適当な理屈と興味だけで黙らせる。
そうして、ひょっこりと角を曲がって覗いた先には。
到底見た事も無いような、異形の化け物が佇んでいた。
以前テレビ越しにみたコールタールよりも真っ黒な液体がドロドロと垂れて地面に落ちているのに、地面は全く汚れていない。
辛うじて“ヒトガタ”に見えない事もないのに、顔のパーツらしきものはあり得ない所についている。目は複数あるが、どれも瞼が無く、焦点も合っていない。
顔面らしき場所を裂くように取り付けられた唇のない縦向きの大きな口からは、鋭い牙と赫いエキタイが覗いていた。黒い液体とは違って、ソレは明確に地面に点々とした滲みを作っている。
異様に長い手足のようなパーツは絶えず枝分かれと収束を繰り返しており、人間の感じる“不気味”を集めて作られた、泥人形の様だった。
空気が固体になっている。足が竦んで、立っている事すら侭ならない。ここにいる俺は声が出せないのに、どこか遠くで、誰かが叫んでいるような気がした。いや、違う。普段聞き慣れないような大声だったから分からないだけだ。
つまり、この絶叫は___
俺の、声。
『あぁ、本当によくある話だ。』と、頭のどこかで俺らしきものが囁いていた。
目を逸らしたい、動けない、逃げたい、逃げられない、ヤバい、何だこれ、何だこれ何だこれ何だこれ何だこれなんだこれなんだこれなんだこれ___それ以外を考える事が、その一瞬だけできなくなって、ただただ思考が空騒ぎする。
足元をセメントで塗り固められたみたいで、一歩たりとも動けない。膝が笑って立っていられない。カクン、という間抜けな音と共に腰が抜けて、地べたにしゃがみ込んでしまう。
心拍数が上がっているのが目に見えて分かる。冷や汗がドッと吹き出して、不快指数が上昇する。
ゆっくりと、異形の化け物がこちらを振り向く。手足の先が収束するとき、何か別のものに一瞬変わっていたような気がした___が、それが何かは思い出せないし、認識もできない。醜さが脳そのものを襲ってくるような、暴力的な視覚情報。
それでもなお、俺の頭のどこかには冷静さが戻ってきていた。それは『あぁ死ぬな』という実感で、『これで終わりか』という諦観だった。
肉体と思考が乖離している。今この場には存在しない窓の向こうから、天井の上から、地面の下から___俺が、俺を見つめている感覚。そいつらは好き勝手に、『そういえばこのヒトガタって影がないんだな』だとか、『何か変な匂いがするな』だとか言っていた。
あぁ、やっぱり月は嫌いだ。こんな風な、『どうにもできない』って『俯瞰』が似合いすぎる。そう言えば、いつかの___祖父が出て行った夜も、満月だった。
見上げた満月に耐えきれずに、異形のヒトガタから目を逸らして地面を見ると、ぐちゃぐちゃになった塊が転がっている。
気づいてしまうと、今まで気にしていなかったのが信じられないぐらいに鉄錆臭かった。何かの肉、何かの死体だ。腐りかけている。当たり前のように蝿が沸いていて、血が目的なのか蚊も集っている。だが___死体に群がる蟲たちは、異形に近づいた途端、腐って地面に堕ちた。
元々は白かったらしいシャツの切れ端と、傍に転がるビールの空き缶。赫の斑点がついた青色のネクタイも、視界の端に映る。
そうなるともう、“ソレ”がなんだったのかも容易に想像できてしまって___思わず、吐き気が込み上げた。
ゲーゲーと吐き出した、ついさっきまで胃の内容物だった食べ物の慣れの果て達。その中に、嫌いだからと噛まずに飲み込んだ焼きそばの紅生姜がそっくりそのまま入っていた。
それを見て、なんだか少しだけ愉快な気持ちが込み上げてきてしまう。場違いな感情を、どうにも抑える事ができない。
「鮟醍・馴嚏縺具シ」
ヒトガタの声らしきものが耳に届く。意味が分からない。あぁ、そう言えば。俺、最後の親との会話が「うるさいな」で電話切っておしまいって事になるんだよな。
あぁ___最悪じゃないか、本当に。
別段親に悪いと思ってるわけじゃない。ただなんとなく嫌な気分がするってだけ。死んでも死にきれないってレベルでもない。なんであんな事言ったかな、とか、せいぜいそんな感じだ。まぁ、苛立っていたから以上の何物でもないんだけど。
どうしようもない状況に陥ると、人間の思考はあちらこちらに散らかるらしい。やっぱり俺は、そんな風に俺を『俯瞰』していた。
逃げようという気すら、もはや起きない。目を瞑って震える事しかできないのに、どうでも良い考えばかり、目の前の状況をどうにかできるハズもない考えばかり、プカプカと浮かんでは消えていく。ちょうど今日、ヤケ酒代わりにしこたま飲んだラムネの二酸化炭素みたいだ。
目の前に迫る異形のヒトガタ。嗤っているのかもしれない。哭いているのかも知れない。怒っているのかもしれない。何一つとして分からない。ただ異様に長い枝分かれの内一つが、俺を殴って吹き飛ばした。腹に一撃目、頭に二撃目、足に三撃目。殴られた瞬間だけ、体内で何かがズレた気がした。骨なのか、臓腑なのか、あるいはもっと根源的な感覚なのか___それは今の俺にはまだ分からない。ただ現象として肌は裂けたし、吐き気の原因と同じ赫いエキタイが甚兵衛を汚した。『買ったばかりなのにな』と、壊れたレコードが俺の声で何かを再生した。
殴られた所からは、ジュクジュクと厭な匂いがする。あの蟲たちと同じく、腐っているみたいだ。信じられないぐらい痛い。痛みで思考が埋め尽くされる。それでもやっぱりどこかで俯瞰している自分自身に、また別の俺が呆れている。いっそ狂ってしまえれば、何も感じなくて済むというのに、俺は理性を手放せない。
ゴロゴロと転がる砂とゲロに塗れた俺をたくさんの目が一斉に見つめて、愉快そうに牙を口内に収めた。
すぐに食う気は無いって事か。明らかな雑魚だって、俺には何もできないって、こいつには分かってるんだ。だから遊ばれてるんだな。
あぁ、死にたくない。何も分からないまま死にたくない。何もしないまま死にたくない。そんなの絶対に、もう金輪際ごめんだ。
そんな内心とは裏腹に、依然として俺には何もできない。それは、俺も理解していた。ただ風のざわめきが、蝉の声が、鴉の鳴き声が、蚊の羽音が___いかにも夏らしい喧騒が___聞こえていた。
でも、今はなぜかそれだけじゃなかった。遠くから、何かが聞こえる。
___鈴の、音だ。シャラン、シャラン、シャラン___一定のリズムで、こちらに向けて近づいていた。
涼やかな音が、今までよりよっぽど大きく響く。化け物が一歩、後ろに下がったような気がした。
満月の光量が上がった___もちろん、実際にはそんな事はありえない。でも俺は今、それを確かに感じている。無かったはずのヒトガタの影が、月下で縮こまったその刹那。
たった一つだけ、俺の目の前に別の影が映る。
鈴の音と共に現れたのは、縁日のくじ引きで手に入れられそうなチープな日本刀を携えた紺の浴衣の少女だった。
長い黒髪をポニーテールにまとめていて、満月を背負った彼女が一歩、また一歩と進むごとに、シャラン、シャラン、とお面についた鈴が揺れる。だがそのお面も、別に格好良い物じゃない。これまた縁日で売られていそうな、プラスチック製のチープなヤツだ。
「其処のオマエ。ワザワザ蹲ってナニしてんだ。サッサと立て。そして退け。帰れ。」
凛とした声と共に、玩具を抜く。微かに見えた刀身は案の定プラスチックで、あんな異形の化け物に対して、ダメージを与えられるハズもない。
でも、どういうわけだか___彼女はそのプラスチックの塊でもって、眼前の異形の、俺に向けて伸びていた枝分かれを切り裂いた。
あぁ、蝉の声がする。満月の光が冷たい。
「疾く終わらせるぞ。」
この攻撃がどういう絡繰だかは、正直なところ全くもって分からない。ただ美しくて、月下で煌めいて、どこか安直でチープだった。それでいて、少女が刀を抜く度ごとに、世界そのものが寸刻みにされていくような___薄気味の悪い“異常”だった。
「【天音一絶】___。」
彼女が刀を抜いた途端、化け物は崩れ落ちて消えた。泡沫の夢のように、瞬きの間すらもなく、ただ消えて、無くなった。
その一方で、ただ地面に転がる赤黒い塊と、そこから漂う屍肉の匂いは、依然としてバケモノの実在を証明している。
「人を喰った割には弱過ぎる。精々が肆級か。」
カチリ、とプラスチックの鞘にプラスチックの刀身を納める音だけが境内に響く。
相も変わらずガタガタと震えるゲロ塗れの俺の目の前に悠然と立って、少女は一つ言い捨てた。
「……? 何故ボーッと蹲った侭なんだ、オマエ。帰れと言ったのが聞こえなかったのか?」
今何をしたんだ、とか、この死体どうするんだ、とか、聞きたい事は山ほどあった。
俺が知らない“異常”、俺が知らない筈の“異常”、俺が知るべきじゃない“異常”、俺が知ってしまった“異常”___。
黒いヒトガタが目の前にいた時みたく、パニックになったわけじゃない。それでも聞きたい事は溢れて止まなくて、何をしたら良いかすらも分からない。
ただ、敢えて言うとするなら___どうしようもなく、気になったのだ。
目の前の少女がなんなのかが。さっきの化け物は、どういう風に産まれるのかが。
純粋に、ただ知りたいと願ってしまった。
気付けば体の震えも収まっていて、体の痛みも失っていた。たらりと垂れる赤黒いエキタイを拭う。放物線のてっぺんまで辿り着いた冷たい月光が、ベールのように辺りを包んでいる。月下を背負って涼やかに佇む少女に呼びかける。
「聞いても良いか。あんた___」
一体、何なんだ?
生温く重たかった境内の風は、いつの間にか身を斬る様な鋭くて冷たい風に変化していた。
ビュオオ、と木々が騒めく。ミンミン、と蝉が鳴く。鴉の羽音はうるさいし、蚊は死体に群がっている。そのどれもが異常なぐらいにうるさくて、今までよりもずっとずっと、夏の喧騒が深まっている。脳内で反復された音そのものが鼓膜を殴りつけてくる。断絶が深まる。先程のヒトガタへの攻撃が、そのまま世界すら斬り裂いたようだった。脳髄が、何かで痺れている。
そして___そんな感覚を、案の定滑稽だと思っている俺が、月夜には存在しないはずの天井の梁で笑っていた
コメント
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うわああ……世界観好きです!! 表現がかっこいいですね…私もこういう文書いてみたい…