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第一章 春の朝に
朝の風が、やわらかく頬を撫でた。
桜の花びらが風に乗って舞い、ゆっくりと地面に降りていく。
一枚一枚がまるで時間そのもののように、ゆっくりとしたリズムで世界を染めていった。
バス停の屋根の下で、田嶋彩音は小さく息を吐いた。
白いブラウスの袖口がまだ少し長く、手の甲を包む。
母が「来年も着られるように」と言って、少し大きめを選んだ制服だった。
スカートのプリーツが朝の風に揺れる。
足元のローファーは新品の匂いがして、まだ硬い。
舗装された道路の向こう側には、畑と民家が続く。
低い石垣の上に、タンポポの黄色い花がひっそりと咲いている。
遠くでは、通学路を歩く小学生たちの声が響いていた。
「おはよう!」と弾けるような声が風に乗って届く。
その明るさが、少しだけ眩しかった。
彩音は、自分の胸のあたりをそっと押さえた。
新しい制服の布地の下で、鼓動がわずかに速くなっている。
「高校生」――その言葉の響きに、まだ心がついていかない。
中学の卒業式から、まだ一か月も経っていない。
けれど、世界は驚くほど違って見えた。
朝の空気の匂いも、同じ町並みも、どこか遠く感じる。
まるで、自分だけが知らない国に来てしまったようだった。
胸ポケットの中のスマホが小さく震えた。
取り出して画面を開くと、「おはよう!」というメッセージが一件。
送り主は――里奈。
彩音の胸がきゅっと縮んだ。
たった四文字のメッセージなのに、息が詰まる。
返信を打とうとして、指が止まった。
何を返せばいいのか、わからなかった。
「……おはよう」
ひとりごとのように呟いて、画面を閉じる。
思い出すのは、中学最後の放課後だった。
夕陽が差し込む教室で、里奈が言った。
「私、隣町の高校、受かったよ」
その声は嬉しそうで、まっすぐだった。
だけど、彩音は笑顔を作るのに少し時間がかかった。
「すごいね。おめでとう」
「ありがとう。彩音も受かったじゃん。高校、違ってもさ……またすぐ会えるよ」
その「すぐ」が、どれくらいの距離なのか。
彩音には想像できなかった。
電車で二駅。
でも、見慣れた風景の外側。
それだけで、世界がぐんと広くなった気がした。
春休みの最後の日、ふたりで見た桜並木のことを思い出す。
風が吹くたびに、花びらが肩や髪に落ちた。
里奈は笑いながら、「桜って、散るときが一番きれいだね」と言った。
その横顔が、今も彩音の心に焼きついている。
バスのエンジン音が、遠くから近づいてくる。
ディーゼル特有の低い唸り声が、静かな朝に響く。
彩音は背筋を伸ばし、制服の裾を整えた。
ガラス窓に映る自分の顔が、少し緊張して見えた。
バスが停まり、ドアが開く。
運転手が軽く会釈した。
「おはようございます」と小さく挨拶して乗り込む。
シートの布の感触が少し湿っていて、朝の冷たさが残っている。
窓際の席に座り、バッグを膝に置いた。
エンジンが再び唸りを上げ、バスが動き出す。
窓の外の景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
畑、電柱、古い商店の看板。
どれも変わらないのに、見え方が少し違う。
窓に映る自分の顔が、少し大人びて見えた。
――これが、「変わる」ってことなのかな。
ふと、里奈のことを思い出す。
「彩音ってさ、すごく静かに笑うよね」
そう言われた日のこと。
教室で何気なく笑った自分に、そんな言葉をかけてくれた。
「静かに笑う」――それが褒め言葉だったのか、今もよくわからない。
でも、あのときの里奈の声は、優しかった。
彩音は頬杖をついて、窓の外を見つめた。
春の光はやわらかく、どこか頼りなげだった。
風に乗って、遠くの方から踏切の音が聞こえる。
この町には、いつも風が吹いている。
春は桜の匂いを運び、夏は草の匂いを、秋は乾いた空気を、冬は雪の匂いを。
風の中に、季節が全部詰まっている。
――もし、声にもそんな力があったらいいのに。
自分の声を、誰かに届ける風のようにできたら。
そんなことを思ったのは、このときが初めてだった。
バスが坂を登りきると、校舎の屋根が見えた。
白い壁に、朝日が反射して眩しい。
校庭の桜の木がゆっくりと風に揺れている。
バスが止まり、ドアが開く。
降りる瞬間、春の空気が一気に身体を包み込んだ。
彩音は深呼吸をして、空を見上げた。
雲ひとつない空。どこまでも澄んでいる。
――今日から、私はこの町の高校生になる。
その言葉を心の中で繰り返した。
少しだけ背筋が伸びた気がした。
校門をくぐると、風がまた吹いた。
花びらがひとひら、彩音の髪にとまる。
そっと指で取ると、それはすぐに風にさらわれた。
春の風が頬を撫で、スカートを揺らす。
その風が、「いってらっしゃい」と言っているように感じた。