テラーノベル
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#ドライ
#地雷系
尾津嘉寿夫 ーおづかずおー
1,395
第4話:交錯する現実
閃光が、美術室の空間を白く焼き払う。
紫電が爆ぜ、視界を断ち切るように大鎌の残光が走った。
「ッ……!」
一瞬遅れて押し寄せた衝撃波が、凪の冷え切った頬を強く叩く。切り離された影は言葉にならない悲鳴を撒き散らし、黒い霧となって空気中に弾け飛ぶ。
あとに残されたのは、重く立ち込める埃の匂いと、床で静かに肩を上下させる女子生徒の姿だけ。背中を這い回っていたあの気味の悪いモヤは、跡形もなく消え去っている。
凪は床にへたり込んだまま、荒い息を吐き出すことしかできない。膝が笑い、立ち上がるどころではなかった。
メアリは大鎌を空気の中に溶かすように消し去ると、無機質な足音を立てて生徒の元へ歩み寄り、首元に指先を添えた。
「……息はあるわ。核が定着する前で助かったみたいね」
「……助かっ、た……?」
掠れた声を絞り出す凪に、メアリの射ぬくような冷たい瞳が向けられる。
「人間の感情の澱から生まれる黒いモヤ――それが『影』よ。寄生された人間は心を蝕まれ、放置されれば自我を失う」
淡々とした言葉が、重い鉛のように凪の胸の底へ落ちていく。
「見ないフリをしたツケは早く来るものよ。一人だったら、あなたも今頃そうなっていたわ」
見ないフリ。確かに自分はそうやって生きてきた。
――けれど、脳裏に焼きついて離れないのは、昨夜見つめた母親の背中だ。衣服越しに蠢く、あの淡い黒い靄。
(もし……あれが今日みたいに、膨れ上がったら……?)
すっと背筋を伝う冷や汗。喉の奥がくっと収縮する。
もう「見えないフリ」をしてやり過ごせる段階は、とうに過ぎていた。
◇
放課後。夕暮れの街を歩く二人の影は、影絵のように細く伸びていた。
気を失った生徒を保健室へ運び終えたものの、凪の頭の中は過熱したままだ。歩道を行き交う人々は穏やかな日常を生きており、あの旧校舎を支配していた狂気など知る由もない。
けれど、凪の網膜に映る景色は、いつもとまるで違っていた。
すれ違うスーツ姿の男の肩口、暗がりになった街角の陰――あちこちに、あの気味の悪い黒いモヤが蠢いている。世界のあちこちに亀裂が走り、そこから黒い脂が滲み出しているかのように。
酷い生唾を飲み込み、乾いた喉を鳴らす。凪は視界を遮るように、前を歩くメアリの真っ直ぐな背中だけを必死に追った。
雑踏を離れ、路地裏の狭間にひっそりと佇む一軒の喫茶店。
古びた真鍮の看板には『微睡(まどろみ)』と刻まれている。
ドアを押すと、カランと高く澄んだ鈴の音が響いた。
瞬時に鼻腔をくすぐる深煎り豆の香ばしい匂いと、低く心地よく流れるチェロの音色。足元から忍び寄っていた不穏な気配が、潮が引くように遠のいていく。
「おや、メアリさん。お帰りなさい」
カウンターの奥から、仕立てのいいエプロンを着た老紳士――蓮見が、深みのある穏やかな声で迎えてくれた。
「蓮見さん、ハーブティーを二つ。彼、頭を冷やさせる必要があるから」
促されるまま、凪は深く革張りのソファへ身を沈めた。
間もなく運ばれてきたカップから、柑橘系の爽やかな湯気が揺らめき立つ。一口含めば、熱がじんわりと喉を通って落ち、こわばっていた体幹の芯が少しずつ解けていくのが分かった。
「……なぁ、メアリ」
自分の吐息に混じるように、凪はぽつりと口を開く。
「さっきの……影はどこから来るんだ。あんたたちは、何をしてる」
「影は、人の抑圧された感情から生まれて表層へ滲み出てくるの。それを刈り取り、世界の均衡を保つのが……私達『調律者』の役目」
「……調律者」
淡々と告げられた異質な現実に、持ち上げたカップの手元がかすかに震えてしまう。
「……俺はさ。昔からあの黒いモヤが見えてて……でも誰にも言えないから、ずっと見えないフリをしてきた」
胸の奥に溜まっていた熱い澱を吐き出すと、呼吸がわずかに浅く、軽くなる。
「けど……昨日の夜、おふくろの背中にあいつがついているのを見た。今日のやつみたいになったらって思ったら……怖くてたまらなかったんだ」
「日向さん」
蓮見が、すべてを受け止めるような温かなトーンで語りかける。
「『視える』資質を受け入れるかどうかは、あなた自身の問題です。このドアを出て、すべてを『見なかったこと』にして生きていく道も、まだ残されていますよ」
目の前に突きつけられた選択肢に、凪は言葉を詰まらせた。
特別な力もない自分が異形と戦うなんて、想像するだけで足が竦む。今すぐここから逃げ出したい。
けれど――あの薄暗い部屋で息を潜めながらあの時のモヤを放置して、もし母親に何かあったら?
「……もう少し時間をくれ」
凪は弱々しく首を振った。カップの底で、琥珀色の液体が揺れる。
「怖いし……何をしていいかもわからない。でも……」
指先に力を込め、陶器の温もりを強く確かめるように握りしめた。
「おふくろの背中にあったやつが何なのか……それだけは知りたい。見ないフリをして後悔するのだけは、絶対に嫌だから」
決断と呼ぶにはあまりに頼りなく、震える一歩。
それでも確かに「逃げること」を拒んだ少年に、メアリは短く息を吐き出す。
「いいわ。焦って答えを出されても足手まといだし」
メアリは自分のカップを持ち上げ、静かに口を湿らせる。
「まずは知ること。自分がどんな世界の淵に立っているのか……それを理解してから逃げても遅くないわ」
温かなハーブの香りが穏やかに漂う店内で、境界線の上に立つ凪の「見極めるための時間」が静かに動き始めた。
コメント
1件
うわ、めっちゃ世界観が動いた回でしたね。影が人の感情から生まれて、刈り取るのが「調律者」……って設定、すごく好みです。特に「見ないフリ」をしてきた凪が母親の背中に影を見てしまってから逃げられなくなる流れ、じわじわ怖かったです。そして喫茶店「微睡」の空気感がいいなと。ああいう退避地点があると話に厚みが出ますよね。決心しかけてる彼がどうなるか、続き気になります。