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第十二話「佳?」
土曜日。
「……行ってきます」
玄関でそう言ったとき、高橋佳はいつも通りだった。
いつも通り、少しだけ眠そうで。
いつも通り、軽く手を上げて。
「おう、行ってこい」
それだけ。
(……ほんとに普通)
だからこそ、少しだけ拍子抜けする。
もっと何か言うと思ってたのに。
止めるとか、聞くとか。
(……まぁ、いいか)
そう思って、家を出た。
⸻
待ち合わせ場所。
「山本さん」
小太郎が手を振る。
「ごめん、待った?」
「全然。じゃあ行こっか」
自然な流れ。
ぎこちなさも、あまりない。
(……ちゃんとしてる人だな)
第一印象は、それだった。
⸻
喫茶店。
落ち着いた雰囲気の店内。
「ここ、結構好きなんだ」
「いいね、静かで」
向かいに座る。
少しだけ緊張していたけど——
話しているうちに、だんだんほぐれていく。
「山本さんって、結構明るいよね」
「よく言われる」
「でも、ちゃんと周り見てる感じする」
「なにそれ」
くすっと笑う。
会話はスムーズで、居心地も悪くない。
(……いい人かも)
素直に、そう思った。
⸻
「……あ」
ふと、視線が逸れる。
窓ガラス。
その向こう。
少し離れた場所。
(……え)
一瞬、息が止まる。
はっきり見えるわけじゃない。
でも——
(……佳?)
分かる。
間違えるわけがない。
あの立ち方。
あの雰囲気。
何年も一緒にいたからこそ、分かる。
(なんで……?)
ここにいるはずがない。
だって、何も言ってなかった。
⸻
目を凝らす。
少しだけ、よく見える。
そして——
(……なに、あれ)
違和感。
明らかに、様子がおかしい。
壁に手をついてる。
体を支えてるみたいに。
(え……?)
さらに——
咳。
大きく、体が揺れる。
(……うそでしょ)
見たことない。
あんな姿。
今にも倒れそうな。
息が苦しそうな。
(なんで)
(なんであんな……)
⸻
「山本さん?」
目の前から声。
「……あ、ごめん」
慌てて意識を戻す。
「大丈夫?」
「うん、ちょっとぼーっとしてただけ」
笑ってごまかす。
でも——
頭の中は、完全にそっちに持っていかれている。
⸻
(……見間違い?)
いや、違う。
あれは佳だ。
間違いない。
(でもなんで)
(なんであんなことになってるの)
⸻
それでも。
「でさ、この前——」
会話は続く。
不思議と、普通に返せている自分がいる。
笑えている。
ちゃんと話せている。
(……なんで私、普通にしてるの)
頭の中では、佳の姿がずっと浮かんでいるのに。
さっきの咳き込んでる姿。
苦しそうな顔。
通りすがりの人に声をかけられていたところ。
全部。
消えない。
⸻
(……大丈夫なの?)
その疑問だけが、何度も浮かぶ。
⸻
でも。
(……聞けない)
帰ったとしても。
そのことを。
直接。
(だって)
もし本当に何かあったとして——
佳は、言わない。
絶対に。
あの人は、そういう人だ。
(……大丈夫、だよね)
自分に言い聞かせる。
(言わないってことは)
(言う必要がないってことだよね)
そう思おうとする。
でも——
(……ほんとに?)
小さな不安が、消えない。
⸻
「今日はありがとう」
店を出るとき、小太郎が言う。
「ううん、こっちこそ」
「またよかったら」
「……うん」
返事はする。
ちゃんと。
でも——
どこか、上の空。
⸻
帰り道。
さっきの光景が、何度もフラッシュバックする。
壁に手をついてた姿。
咳。
苦しそうな呼吸。
(……あんなの、見たことない)
ずっと一緒にいたのに。
知らない姿。
⸻
家。
ドアを開ける。
「……ただいま」
「おかえり」
リビングから聞こえる声。
その一言で——
胸が、ぎゅっとなる。
⸻
佳は、ソファに座っていた。
いつも通り。
本当に、何事もないみたいに。
「どうだった?」
「……普通」
「そっか」
それだけ。
変わらない会話。
(……なんで)
さっきの姿と、今の姿が繋がらない。
⸻
「……佳」
「ん?」
「今日、何してたの」
「家でゴロゴロ」
「……ずっと?」
「ああ」
即答。
(……嘘)
分かる。
でも——
「そっか」
それ以上、何も言えない。
⸻
視線が、どうしても向いてしまう。
体。
顔色。
呼吸。
全部。
(……普通に見える)
でも。
(……ほんとに?)
疑問が消えない。
⸻
「……どうした」
「え?」
「なんか変だぞ」
「……別に」
目を逸らす。
(言えない)
(聞けない)
怖いから。
もし——
本当に何かあったら。
⸻
「……疲れてんのか」
「……そうかも」
「じゃあ早く休め」
「……うん」
優しい声。
いつも通りの。
それが——
逆に苦しい。
⸻
部屋。
ベッドに座り込む。
「……なんなの」
小さく呟く。
誰もいないのに。
⸻
(……大丈夫)
(きっと大丈夫)
何度も繰り返す。
でも——
さっき見たものが、離れない。
⸻
(……私)
(なんか、見ちゃった気がする)
知らなくていいはずのもの。
気づかない方がよかったもの。
⸻
胸の奥が、重い。
理由は分からない。
でも——
確実に。
何かが、崩れ始めている気がした。
⸻
その夜。
美憂は初めて——
“知らない佳”に、触れてしまった気がしていた