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第十三話「不安の正体」
夜。
「……風呂、先入るわ」
高橋佳がそう言って立ち上がる。
「……うん」
山本美憂は、少しだけ間を置いて頷いた。
ドアが閉まる音。
水の音が、微かに聞こえてくる。
家の中は、静かだった。
⸻
(……なんか、落ち着かない)
さっきからずっと。
胸の奥がざわついている。
理由は、分かっている。
——昼間の、あの光景。
壁に手をついていた佳。
苦しそうな呼吸。
咳き込む姿。
(……大丈夫、なわけない)
そう思っているのに。
何も聞けない自分がいる。
⸻
「……」
気づけば、立ち上がっていた。
足が、勝手に動く。
向かう先は——
佳の部屋。
⸻
ドアの前で、止まる。
「……ダメでしょ」
小さく呟く。
勝手に入るなんて。
そんなこと、したことない。
(でも)
手が、ドアノブに触れる。
(……知りたい)
その気持ちが、止められない。
⸻
——カチャ。
静かに、扉を開ける。
⸻
部屋の中。
いつもと同じ。
少し散らかった机。
ベッドの横に置かれた、お揃いのぬいぐるみ。
「……」
胸が、少しだけ締め付けられる。
(……普通、だよね)
見えるものは、全部いつも通り。
でも——
(なんか、違う)
分からない違和感。
⸻
ふと、視線が下に落ちる。
ゴミ箱。
そこに——
一枚の紙。
くしゃくしゃに丸められている。
(……なにこれ)
ただの紙。
なのに、やけに気になる。
⸻
「……やめとこ」
一歩、下がる。
見ちゃダメだ。
そんな気がする。
(でも)
足が、止まらない。
⸻
ゆっくりと近づく。
手が、伸びる。
ゴミ箱の中の紙を——
拾い上げる。
⸻
「……」
くしゃくしゃのまま、握りしめる。
開けば、何かが変わる。
そんな予感がする。
(……ダメ)
(やめなきゃ)
分かってるのに。
⸻
指が、動く。
少しずつ。
紙を、広げていく。
⸻
——カサッ。
音がやけに大きく感じる。
完全に開いた、その瞬間。
⸻
「……え」
思考が、止まる。
⸻
そこに書かれていた文字。
理解したくないもの。
見たくなかったもの。
⸻
——肺がん。
——余命。
⸻
「……っ」
息が、止まる。
視界が、揺れる。
(……なに、これ)
(なにこれなにこれなにこれ)
頭の中が真っ白になる。
でも——
文字だけは、はっきりと読めてしまう。
⸻
(……嘘でしょ)
そんなわけない。
だって——
佳は、普通だった。
昨日も、一昨日も。
一緒に遊んで。
笑って。
隣にいて。
⸻
——フラッシュバック。
少し優しかった日。
無理に笑っていた瞬間。
咳を誤魔化していた仕草。
昨日の遊園地。
今日のゲーセン。
そして——
昼間の、あの姿。
⸻
「……あ」
声にならない声が、漏れる。
同時に——
涙が、溢れる。
止まらない。
⸻
(……全部)
(全部、繋がる)
点と点が、一気に線になる。
今までの違和感が。
全部。
⸻
(……なんで)
(なんで言わなかったの)
問いが浮かぶ。
でも——
すぐに、答えも分かる。
⸻
(……言わないよね)
あの人は。
そういう人だ。
全部、一人で抱える。
何も言わない。
⸻
「……っ」
紙を握りしめる。
涙が、落ちる。
文字が、滲む。
⸻
その時。
——ガチャ。
風呂場のドアの音。
水音が止まる。
⸻
「……っ!」
ハッとする。
現実に引き戻される。
⸻
(やばい)
(戻らなきゃ)
慌てて、紙をくしゃくしゃに戻す。
元の形に、できるだけ近く。
ゴミ箱に、戻す。
⸻
袖で、涙を拭く。
呼吸を整える。
顔を、必死に作る。
⸻
(……平然)
(いつも通り)
それしかない。
⸻
部屋を出る。
ドアを閉める。
足音を抑えて、リビングへ戻る。
⸻
数秒後。
「……あがった」
佳の声。
「……おかえり」
振り返る。
笑う。
いつも通りに。
⸻
でも。
視界が、少し歪む。
⸻
(……聞けない)
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
⸻
(聞きたい)
(なんでって)
(どれくらいって)
(どうしてって)
⸻
でも。
⸻
(……言わないってことは)
(言ってほしくないってこと)
⸻
それが、分かってしまう。
⸻
「……どうした」
「え?」
「なんか変だぞ」
「……別に」
首を振る。
笑う。
ちゃんと。
⸻
(……崩れるな)
(ここで)
必死に、自分を抑える。
⸻
「……そっか」
佳はそれ以上聞いてこない。
いつも通り。
⸻
(……なんで)
(そんな普通でいられるの)
⸻
胸が、痛い。
さっき知った事実と。
目の前の“いつも通り”が。
噛み合わない。
⸻
その夜。
美憂は——
“知ってしまった”。
もう戻れない場所に、足を踏み入れてしまった。
それでも。
何も知らないふりをすることを、選んだ。
⸻
——それが、佳の望みだと分かっているから。