テラーノベル
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燃え盛る禁忌の森の中心で、私は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしていた。
視界を埋め尽くす赤黒い炎と、舞い上がる火の粉。
その地獄のような光景の中で
目の前にいるのは、灰色の毛皮に覆われた巨大な狼ではなかった。
月光を透かし、残り火に照らされて銀色に輝く髪。凛々しく
けれどどこか捨てられた子供のような悲しげな光を宿した瞳。
そこには、一人の美しい青年が立っていた。
「ルーク……王子?」
震える声でその名を呼ぶと、彼はかつて鋭い牙が覗いていた口元を、不器用そうに綻ばせた。
その表情はあまりにも脆く、そしてこの上なく愛おしそうに眉を下げていた。
「……ルークでいい。お前にそう呼ばれるのが、この十五年で唯一、心地よい響きだった」
呪いは、本当に解けたのだ。
家を、父を、そして彼を救おうとした私の覚悟。
そして、自分を犠牲にしても私を守ろうとした彼の献身。
打算のない純粋な想いが重なり合い、絶望の鎖を断ち切る奇跡を起こしたのだ。
変わり果てた、けれど正当なる主の姿を前に
先ほどまで殺意を剥き出しにしていた騎士たちは一斉に剣を引き、雪が崩れるようにその場に跪いた。
「……ルーク殿下! 我ら、真実を知らず……無礼の数々、何卒お許しを! この命、殿下の御心のままに!」
それから、事態は濁流のように急速な収束へと向かった。
本物の王子の出現により、場を支配していた空気は一変した。
騎士団によって、腰を抜かしたまま動けないバルサス叔父様とその配下たちは一人残らず拘束され
冷たい鎖に繋がれて王宮へと連行された。
十五年前の凄惨な政変の真実、そして王子を呪い
奈落へ陥れた卑劣な罪は、今度こそ公の場で裁かれることになるだろう。
森を焼き尽くそうとしていた火は、騎士たちの懸命な消火作業によってようやく消し止められた。
けれど、ルキウス様が孤独の中で愛し続けたあの石造りの館は
その美しさを無残に損ない、半ば焼け落ちてしまっていた。
「……済まない。お前が魂を込めて綺麗にしてくれた床も、今は灰と煤だらけだ」
静まり返った館の、焼け残った図書室。
月明かりだけが差し込む瓦礫の中で、ルキウス様は膝をつき、寂しげに呟いた。
人間の姿に戻った彼は、狼の時よりもずっと繊細で
以前よりも深く、重い孤独をその身に纏っているように見えた。
「……いいえ。また磨けばいいんです。何度でも、あの日みたいに」
私が隣に寄り添い、優しく微笑むと
彼は弾かれたように驚いて目を見開いた。
その琥珀色の瞳が、微かに潤んでいる。
「……ベル。お前、…俺と一緒に、王宮へ来るか?」
「え……?」
「……俺は、十五年ぶりに、あの冷え切った王宮へ戻らねばならない。父上に拝謁し、この国の正当な後継者として、背負うべき責務を果たさなければならないんだ」
「……!」
「……だが、俺は……人間に裏切られ、孤独に慣れすぎた。お前のいない世界は、俺にとってあまりに冷たく、耐えがたい」
ルークさんは、私の両手を温かな掌で包み込み、壊れ物を扱うような慎重さで握り締めた。
「……ベル。俺の隣で、俺を支えてくれないか。…お前の作るあの温かいスープが、俺の心にはどうしても必要なんだ」
それは、国を統べる王子としての命令ではなかった。
ただ一人、愛する女性に縋らずにはいられない
一人の男性としての切実な願いだった。
(お父様……)
私は、村で私の帰りを待つ父のことを思った。
ルキウス様の薬で父は元気になった。
けれど、私が王宮へ行けば、父をまた一人にしてしまうことになる。
私の葛藤を察したのか、ルークさんは聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「……分かっている。お前のお父上も、共に王宮へ招こう。没落貴族とはいえ、かつては誠実に国に仕えた御仁だ。父上も、再会を喜び、厚遇してくださるはずだ」
「……本当ですか?!お父様も一緒に?」
「……ああ。…それに、お前のスープを俺だけで独占するのは、王の慈悲に反するからな。国民にも少しは自慢したいが……やはり、一番の特等席は俺のものだ」
ルキウス様が茶目っ気たっぷりにニヤリと笑った。
その少し意地悪で、けれど深い愛情を感じさせる笑顔は
森で出会ったあの不器用な狼さんのときと、少しも変わっていなかった。
それから月日は流れ
一ヶ月後───
窓の外には、新緑が眩いばかりに輝き、鳥たちの囀りが響く季節が訪れていた。
私は今、絢爛豪華な王宮の片隅にある、私専用の小さなキッチンで大鍋をかき混ぜていた。
コトコトと軽快な音を立てて煮込まれる、色とりどりの野菜と柔らかな肉。
黄金色の湯気と共に、あの森の館で二人で囲んだ
温かくて懐かしいスープの香りが部屋いっぱいに広がっていく。
「……ふむ、いい匂いだ。待ちきれなくなりそうだ」
背後からそっと抱きしめられ、耳元で低い声が響く。私は驚いて小さく声を上げた。
「……ルークさん! もう、驚かせないでください。お仕事は終わったのですか?」
王子の正装を完璧に身に纏ったルークさんは
私の肩に顎を乗せ、猫のように幸せそうに目を細めていた。
「……最速で終わらせてきた。お前の作るスープが、一滴でも冷めないうちにと思ってな」
「ふふ、もう。お父様も、別室で首を長くして待っていますよ。今日はお父様の大好物の香草も入れたんですから」
「……ああ、義父上の分も分かっている。だが、その前に……」
ルキウス様は、私の体をゆっくりと自分の方へ向けさせると
燃えるような琥珀色の瞳で私の瞳をじっと見つめてきた。
「…一ヶ月前の朝、森の境界で交わした約束。…スープの礼を、まだしていない」
「え……?」
問い返す暇もなかった。彼の手が私の頬を優しく包み、そのまま唇が塞がれた。
それは、かつて恐れていた獣の牙などではなく
血の通った人間の、温かくて、羽のように柔らかな、慈しみに満ちた唇だった。
「……ベル…俺と出逢ってくれて、ありがとう」
「…もう、大袈裟なんですから!でも…とびきり美味しいやつを、一生分作りますから。……私の隣に、ずっと居てくださいね」
かつて森を去る時に交わした、あの日。
今度は、二度と離れないという誓いの言葉として、彼の胸の中に深く、静かに響き渡った。
没落貴族の娘と、呪われた狼の王子。
一週間という短い時間で紡がれた
歪で、けれど誰よりも純粋だった絆は、森を越え
王宮の壁を越え、二人の運命を、そしてこの国の未来を鮮やかに変えていった。
これが、私たちの「最後の恋」が
永遠の物語として色づき始めた、本当の始まりの物語だ。
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