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rain
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### 『君が笑う、その隣で』
土沖|ひまわりの約束
夏の夕暮れは、どうしてこうも人の心を緩ませるのだろう。
昼間の熱をまだ抱えたアスファルトから、ゆらゆらと陽炎が立ち上っている。遠くの空は薄い橙色から淡い紫色へと溶け合い、町の輪郭をひとつずつ柔らかく染めていた。風に揺れる街路樹の葉が、さわさわと控えめな音を立てている。
真選組屯所の縁側で、土方十四郎は煙草をくわえたまま、ぼんやりと空を眺めていた。
隣には、沖田総悟がいる。
いつものように気だるげな顔をして、膝を抱えるように座っている。隊服の袖から覗く指先は白く、膝の上に置かれた手は、何かを考えるように時折、きゅっと握られては開かれていた。
「……何ぼーっとしてんですかィ、土方さん」
「別に。お前こそ、仕事はどうした」
「終わりやした。土方さんの机に積んであった書類も、ついでに半分くらい燃やしておきやしたぜィ」
「それを終わったとは言わねぇんだよ。今すぐ拾ってこい」
「やだ」
「総悟」
「やだって言ってんでしょうが」
いつも通りのやり取りだった。
憎まれ口を叩いて、睨み合って、どちらともなく鼻で笑う。傍から見れば、今日も今日とて仲の悪い副長と一番隊隊長にしか見えないだろう。
けれど、土方は知っていた。
沖田が本当に機嫌の悪いときは、こんなふうにくだらない冗談を言わないことを。
沖田がひどく疲れているときは、わざわざ自分の隣に座ったりしないことを。
そして、沖田が何かを言いたいときほど、いつも以上に口が悪くなることを。
「……何だよ」
「何がですかィ」
「さっきから、こっちばっか見てんだろ」
「自意識過剰でさァ。誰も見ちゃいませんぜ」
「じゃあ、俺の顔の向こうに何が見えるんだよ」
「墓場」
「縁起でもねぇこと言ってんじゃねぇ」
沖田が、くすりと笑った。
その笑い声が、妙に小さかった。
土方は煙草を指に挟んだまま、隣の横顔を盗み見る。
沖田の睫毛には、夕陽が薄く差していた。いつも人を食ったような笑みを浮かべる口元は、今だけは不思議なほど穏やかで、どこか遠くを見ているようだった。
その表情に、土方は覚えのない不安を覚えた。
こいつは時々、ひどく遠いところにいる。
すぐ隣に座っているはずなのに、手を伸ばしても届かない場所で、ひとりきりで何かを考えている。
沖田総悟という男は、誰かに頼ることが下手だ。
痛いときほど笑う。苦しいときほど冗談を言う。寂しいときほど、誰にも気づかれないように姿を消す。
そして、そんな自分の不器用さを、まるで誇りのように抱えて生きている。
土方は、それがずっと気に食わなかった。
気に食わなかったはずなのに。
「……土方さん」
「ん?」
「明日も、ここにいますかィ」
あまりにも唐突な問いだった。
土方は一瞬、返事に詰まった。
「は? 何だよ、急に」
「いや、別に。聞いただけでさァ」
「いるだろ。仕事があんだから」
「明後日も?」
「……ああ」
「来年も?」
「当たり前だろ」
「十年後も?」
そこで初めて、土方は煙草を持つ手を止めた。
沖田は、こちらを見ていなかった。
ただ、夕焼けの向こう側に何かを探すように、じっと空を眺めていた。
「……何だよ、総悟」
「別に」
「お前な」
「……いや」
沖田は小さく息を吐いた。
「何でもねぇです」
その言葉のあとに落ちた沈黙は、ひどく柔らかくて、ひどく寂しかった。
土方には、沖田の問いの意味がわからなかったわけではない。
むしろ、わかってしまったからこそ、何も言えなかった。
明日も、明後日も、十年後も。
そんな未来を、当たり前のように約束できるほど、自分たちは平穏な場所に生きていない。
明日の任務で命を落とすかもしれない。次の瞬間には、隣にいる人間がいなくなっているかもしれない。
この世界では、ありふれた約束ほど、ひどく難しい。
それでも。
「……いるよ」
気づけば、土方はそう答えていた。
「明日も、明後日も。十年後だって、ここにいる」
沖田が、ゆっくりとこちらを向いた。
「……そりゃ、ずいぶん大きく出やしたねィ」
「うるせぇ。お前が聞いたんだろ」
「へえ。じゃあ、約束ですかィ」
「……ああ」
土方は煙草を灰皿に押しつけた。
「約束だ」
沖田は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を細めて、困ったように笑った。
その笑顔を見た瞬間、土方は胸の奥がひどく痛んだ。
どうして、こいつは。
どうして、こんなにも簡単に人を大切にするくせに、自分が大切にされることには慣れていないのだろう。
どうして、そんな顔をするのだろう。
まるで、叶わない夢がひとつだけ叶ったみたいな顔を。
*
沖田総悟は、愛情というものがよくわからない。
正確に言えば、誰かを愛することはわかる。誰かのために怒ることも、誰かのために笑うことも、誰かがいなくなるのを怖いと思うことも。
それらは、いつの間にか自分の中にあった。
ただ、それをどうやって相手に伝えればいいのかが、わからない。
好きだと口にするのは、なんだかひどく恥ずかしい。大切だと伝えるのは、まるで自分の弱みを差し出すようで落ち着かない。
だから沖田は、代わりに土方の煙草を取り上げる。
身体に悪いから、と素直に言えないので、一本くらい吸わなくても死にやせんでしょう、と憎まれ口を叩く。
土方が遅くまで仕事をしていれば、たまたま通りかかったふりをして茶を置く。
夜の巡回から戻ってこなければ、眠れない理由を自分でも知らないまま、廊下の足音に耳を澄ませる。
土方が怪我をして帰ってくれば、普段よりもずっと乱暴に包帯を巻く。
痛ぇ、と文句を言われれば、黙ってりゃ治るんでさァ、と返す。
それだけだ。
それだけのことしか、できない。
けれど、沖田にとっては、そのひとつひとつが、どうしようもなく大切なことだった。
土方が朝、屯所の廊下を歩いている。
土方が食堂で眉間に皺を寄せながら飯を食っている。
近藤に手を焼き、山崎に書類を押しつけ、沖田の悪戯に本気で腹を立てている。
そういう、どうしようもなくくだらない日常。
昨日と変わらない今日。
明日もきっと、同じようにやってくると思える時間。
沖田は、それらをひとつずつ、胸の中にしまっていた。
いつか失くしてしまうかもしれないから。
いつか、思い出にするしかなくなる日が来るかもしれないから。
だからせめて、今だけは。
土方が隣にいる、この何でもない時間を、覚えていたかった。
何年先も、何十年先も。
できることなら、土方の隣で。
同じ景色を見て、同じようにくだらない喧嘩をして、同じ場所へ帰ってきたい。
それが沖田の、誰にも言えない願いだった。
大きな夢ではない。
天下を取るわけでも、誰かを救う英雄になるわけでもない。
ただ、隣にいたい。
土方が年を取って、今より少しだけ皺が増えて、煙草を吸うたびに咳き込むようになって。
自分もそれなりに年を取って、今より少しだけ人間が丸くなって。
それでもきっと、土方さん、と呼べば、うるせぇ、と返ってくる。
そんな未来が欲しかった。
どうしようもなく、欲しかった。
けれど、それを口にする勇気はなかった。
もし、土方が同じことを望んでいなかったら。
もし、自分の気持ちが重すぎて、あの人を困らせてしまったら。
そう考えるたびに、胸の奥にしまった言葉は、またひとつ深いところへ沈んでいく。
だから、沖田は今日も笑う。
いつものように、意地悪く。
何でもないことのように。
まるで、自分の心なんて、どこにもないみたいに。
*
その日の夜、土方は珍しく眠れなかった。
理由はわかっていた。
夕方の沖田の顔が、頭から離れなかったのだ。
明日も、明後日も、十年後も。
あいつは、いったいどんな気持ちで、あんなことを聞いたのだろう。
土方は布団の中で寝返りを打った。
障子の向こうには、月明かりが淡く滲んでいる。庭の木々は夜風に揺れ、葉の擦れる音が、遠い波のように聞こえていた。
枕元の時計は、とうに日付が変わったことを告げている。
明日も仕事だ。朝になれば近藤に呼び出され、隊士たちの訓練を見て、溜まった書類を片づけなければならない。
いつもと同じ一日が始まる。
そう思うのに、どうしても目を閉じられなかった。
ふと、思い出したのだ。
少し前、任務で怪我をしたときのことを。
大した傷ではなかった。腕を少し切っただけで、放っておいても治る程度のものだった。
それなのに、沖田はひどく怒った。
医務室までついてきて、傷の手当てをする山崎の横で、ずっと不機嫌そうに腕を組んでいた。
『お前、いい加減機嫌直せよ』
そう言った自分に、沖田は答えたのだ。
『土方さんが自分の体大事にしなかったのが悪ィ』
あのときは、いつもの嫌味だと思った。
何を馬鹿なことを、と笑い飛ばした。
けれど。
あれは、本当にただの嫌味だったのだろうか。
土方は、ゆっくりと目を開けた。
考えれば考えるほど、思い当たることばかりだった。
自分が疲れているとき、いつの間にか机の端に置かれている茶。
任務から戻ったとき、誰よりも早くこちらの顔色を確かめる視線。
夜更けに廊下ですれ違ったとき、眠そうな顔をしながらも、必ず「おかえりなせぇ」と言う声。
そのくせ、自分のこととなると、何も言わない。
寂しいとも、怖いとも、そばにいてほしいとも。
何ひとつ言わないまま、ただ、そこにいる。
まるで、そばにいられるだけで充分なのだとでも言うように。
「……馬鹿野郎」
土方は、誰もいない部屋で小さく呟いた。
自分は、何を見ていたのだろう。
ずっと隣にいた。
毎日のように顔を合わせて、くだらないことで喧嘩をして、何度も互いの命を心配して。
それなのに、自分は、あいつが差し出してくれるものを受け取るばかりだったのではないか。
沖田が自分を大切にしてくれていることは、知っていた。
けれど、その大切さが、どれほど深いものなのか。
自分の知らないところで、どれほどの言葉が飲み込まれ、どれほどの願いが胸の奥にしまわれてきたのか。
そんなことを、考えたこともなかった。
あいつは、いつも隣にいたから。
明日もきっと隣にいると、疑いもしなかったから。
その当たり前が、どれほど幸せなことなのか。
自分は、何ひとつわかっていなかった。
土方は布団から起き上がり、障子を少しだけ開けた。
夜の空気は冷たく、遠くで虫の声が響いている。
庭の片隅には、昼間の熱を失った石畳が月明かりを受けていた。
何でもない夜だった。
特別なことなんて、何も起きていない。
それなのに、土方は初めて、自分の手の中にある幸せの形を知ったような気がした。
誰かが自分を思ってくれること。
自分の帰りを待ってくれること。
何年先も隣にいたいと、願ってくれること。
そして、自分もまた、その人がいない未来を想像できないということ。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
ああ、そうか。
あいつは、ずっとこうしてくれていたのか。
不器用なやり方で。
下手くそな言葉で。
それでも、真っ直ぐに。
だったら。
「……次は、俺の番だろ」
誰に聞かせるでもなく、土方は呟いた。
受け取ってばかりではいけない。
あいつがくれた温もりを、当たり前のものにしてはいけない。
沖田が自分の隣にいてくれることを、ただの習慣にしてはいけない。
いつか、あいつが振り返ったとき。
自分も同じだけの愛情を返してやれるように。
お前がいてくれてよかったと、何度でも伝えられるように。
今度は自分から、手を伸ばそう。
あいつが言葉にできないものを、ひとつずつ拾い上げて。
あいつが気づかないふりをしてきた寂しさを、少しずつ埋めて。
いつか、沖田が自分の隣で、何の心配もなく笑えるように。
そう思ったら、不思議と眠れなかった夜が、少しだけ優しいものに感じられた。
*
翌朝、屯所の庭には、昨夜の雨の名残があった。
濡れた石畳に朝日が反射して、ところどころに小さな光が浮かんでいる。空気は澄み、夏の草木の匂いが、開け放たれた廊下から流れ込んできていた。
沖田は縁側に座り、湯呑みを片手にぼんやりと庭を眺めていた。
昨夜、あんなことを聞かなければよかった。
今さらながら、そう思う。
十年後もここにいるか、なんて。
まるで、自分がそれを望んでいることを、土方に悟らせてしまうような問いだった。
いや、悟られたところで何が変わるわけでもない。
自分たちは恋人同士なのだから、隣にいたいと思うことくらい、何もおかしくはないはずだ。
それでも、どうしても恥ずかしかった。
愛している。
そんな、たった五文字の言葉が。
土方の前では、どうしようもなく難しい。
「……何やってんだ、総悟」
背後から声がして、沖田は肩を揺らした。
「うわ、出た」
「人を幽霊みてぇに言うな」
「朝っぱらから顔がうるせぇんでさァ」
「お前の寝起きの顔よりマシだ」
「喧嘩売ってんですかィ」
「買いてぇなら売ってやるよ」
いつものやり取り。
いつもの声。
それなのに、土方が隣に腰を下ろしたとき、沖田はなぜか落ち着かなかった。
距離が近い。
いや、普段と何も変わらない。
肩が触れるか触れないか、そのくらいの距離。何度も並んで座ったことがある。任務の合間に眠ったことだって、背中を預け合ったことだって、一度や二度ではない。
なのに、今日に限って、隣にいる土方の体温がやけにはっきりと感じられた。
「……何ですかィ」
「何が」
「いや、何か用でもあるのかと思って」
「別に」
「じゃあ向こう行ってくだせぇ。狭いんで」
「お前が端に寄れ」
「嫌でさァ」
そう言いながらも、沖田はほんの少しだけ場所を空けた。
土方はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
代わりに、手に持っていた湯呑みを沖田の前へ差し出した。
「ほら」
「……何ですかィ、これ」
「茶」
「見りゃわかりまさァ。何で俺に」
「余った」
「嘘つけ。今、淹れたばっかでしょうが」
「うるせぇな。いらねぇなら返せ」
「誰もいらねぇなんて言ってねぇです」
沖田は湯呑みを受け取った。
指先に、ほんのりと温かさが移る。
何の変哲もない茶だった。
いつもの茶葉を使って、いつもの湯で淹れた、どこにでもある茶。
けれど、土方が自分のために淹れてくれたのだと思った途端、胸の奥が妙にくすぐったくなった。
沖田は湯呑みを両手で包み込んだ。
「……土方さん」
「ん?」
「今日、何か変じゃありません?」
「どこがだよ」
「いや、何となく」
「気のせいだ」
「ふうん」
沖田は湯呑みに口をつけた。
茶は、少しだけ熱かった。
その熱さを誤魔化すように、彼は視線を庭へ向ける。
すると、土方の手が、そっと自分の頭に触れた。
「……は?」
思わず声が出た。
土方の大きな手が、髪をひと撫でする。
乱暴でもなく、からかうようでもなく。
まるで、そこにいることを確かめるような、ひどく優しい触れ方だった。
「……何してんですかィ」
「別に」
「別に、で人の頭撫でる奴がいますかィ」
「ここにいるだろ」
「いや、そういう問題じゃ……」
言葉が続かなかった。
土方はすぐに手を離した。
それから、何でもなかったように庭を眺め始めた。
けれど、その耳がわずかに赤くなっていることに、沖田は気づいてしまった。
何なんだ、今日は。
どうして、そんな。
どうして、そんなに優しくするんだ。
いつもなら、殴り合いになるような言い合いをして、最後にはどちらかが悪態をついて終わるのに。
今日は、まるで。
まるで、自分が大切にされているみたいじゃないか。
そんなの。
そんなの、嬉しいに決まっている。
嬉しくて、どうしようもなくて。
胸の奥がいっぱいになって、何か言わなければと思うのに、いつものような軽口ひとつ出てこない。
沖田は俯いた。
「……気持ち悪ィ」
「何がだよ」
「土方さんが」
「てめぇ、今すぐ茶返せ」
「やだ」
「総悟」
「やだって言ってんでしょうが」
いつもの言葉だった。
けれど、今度は土方が笑った。
声を立てて笑うほどではなかったが、口元を緩めて、目を細めて。
その笑顔を見た瞬間、沖田は自分が何年先も見ていたいものが何なのか、改めて思い知らされた。
ああ。
この人の、こういう顔だ。
自分に向けられる、何でもない笑顔。
いつも仏頂面で、怒鳴ってばかりで、煙草臭くて、マヨネーズが好きで。
どうしようもなく不器用で、優しさを優しさとして渡すことすら下手くそな男。
それでも、たまに。
ほんのたまに、自分にだけ見せる、こんな顔。
ずっと、見ていたい。
明日も、明後日も。
何年先も。
できることなら、最後の日まで。
「……土方さん」
「何だよ」
「明日も、ここにいてくだせぇよ」
口に出してから、沖田はしまったと思った。
まただ。
また、こんなことを言ってしまった。
自分はいつも、伝えたいことの半分も言えないくせに、時々、どうしようもなく本音が零れてしまう。
取り消そうと思った。
いつもの冗談だと笑って、誤魔化してしまおうと思った。
けれど。
「……お前もな」
土方が言った。
「え?」
「明日も、ここにいろよ」
沖田は顔を上げた。
土方はこちらを見ていなかった。
少しだけ気まずそうに、けれど、確かな声で続けた。
「明日だけじゃねぇ。明後日も、その先も。……俺の隣にいろ」
風が吹いた。
庭の木々が揺れ、濡れた葉から雫がひとつ、石畳へ落ちた。
その音が、やけにはっきり聞こえた。
「……何ですかィ、それ」
沖田の声は、思ったよりも小さかった。
「聞こえなかったか」
「聞こえやしたけど」
「じゃあ聞き返すな」
「……土方さんって、たまに頭おかしくなりやすよねィ」
「お前ほどじゃねぇよ」
土方が、ちらりとこちらを見た。
「……嫌か?」
その問いに、沖田は息を止めた。
嫌なわけがなかった。
嫌なわけが、あるはずもなかった。
ずっと欲しかった言葉だった。
何年も、何年も、胸の奥にしまい込んできた願いだった。
それなのに、いざ差し出されると、どうしてこんなにも、泣きそうになるのだろう。
沖田は唇を噛んだ。
泣くなんて、柄じゃない。
こんなところで、土方の前で、そんな顔をするなんて。
絶対に嫌だった。
だから、いつものように笑おうとした。
いつものように、意地悪く。
いつものように、何でもないことのように。
「……嫌なわけ、ねぇでしょうが」
けれど、声が少しだけ震えた。
土方は何も言わなかった。
ただ、沖田の手元に視線を落としたあと、そっと、その手に自分の手を重ねた。
湯呑みを持つ手ではないほう。
膝の上に置かれていた、沖田の手。
指先が触れ、掌が重なり、ゆっくりと絡まる。
それだけのことだった。
たった、それだけ。
なのに、沖田はもう、どうしようもなかった。
「……土方さん」
「ん」
「……俺、」
言葉が喉に詰まった。
好きだと。
愛していると。
何年先も隣にいたいと。
その全部を、伝えたかった。
けれど、どうしても上手く言えなかった。
代わりに、沖田は土方の手を、ほんの少しだけ握り返した。
それが、今の自分にできる精一杯だった。
土方は、その小さな力を確かに感じ取った。
そして、思った。
ああ、そうか。
こいつは、ずっとこうして、自分に手を伸ばしてくれていたのだ。
言葉にできないぶんだけ、行動で。
笑って誤魔化すぶんだけ、そっと隣にいることで。
不器用な愛情を、惜しげもなく差し出してくれていたのだ。
だったら、もう。
気づかないふりをするのはやめよう。
受け取るだけで満足するのも、やめよう。
今度は、自分が伝える番だ。
「……総悟」
「……何ですかィ」
「俺は、お前がいてくれてよかったと思ってる」
沖田の指が、ぴくりと動いた。
「……は?」
「何度も思ってる。お前が隣にいることも、お前が帰ってくることも、お前がくだらねぇこと言って笑ってることも」
土方は、ゆっくりと言葉を選んだ。
慣れないことだった。
誰かに自分の気持ちを伝えるなんて、ましてや、こんなにも大切な相手に、自分の弱いところを見せるなんて。
どうにも照れくさくて、落ち着かなくて、今すぐ煙草に火をつけたくなる。
それでも、言わなければならなかった。
この男が、ずっと自分にそうしてくれていたように。
「お前がいなくなったら、俺はきっと、今までと同じようには生きられねぇ」
「……」
「だから、これからも隣にいてくれ。俺のためだけじゃねぇ。……俺も、お前の隣にいたいんだ」
沖田は、何も言わなかった。
ただ、重ねた手を、ぎゅっと握った。
その力は、驚くほど強かった。
まるで、絶対に離さないとでも言うように。
土方は、そんな沖田の横顔を見つめた。
目元が少し赤い。
それでも、沖田は泣かなかった。
泣く代わりに、いつものように口元を歪めて、ひどく不格好な笑みを浮かべた。
「……ずりぃなァ、土方さん」
「何がだよ」
「そんなこと言われたら、俺が離れられなくなるでしょうが」
「最初から離す気ねぇよ」
「……ははっ」
沖田は笑った。
今度は、さっきよりも少しだけ、本当に嬉しそうに。
「……じゃあ、責任取ってくだせぇよ」
「何の責任だ」
「俺の人生、これから何十年も、土方さんに付きまとってやるって話でさァ」
「上等だ。好きなだけ付きまとえ」
「飽きても知りませんぜ」
「飽きるかよ」
その言葉は、あまりにも自然に零れた。
土方自身、口にしてから少し驚いた。
けれど、不思議と後悔はなかった。
沖田も、何も言わなかった。
ただ、繋いだ手を離さないまま、ゆっくりと肩を寄せてきた。
土方は、その重みを受け止めた。
朝の光が、二人の影を縁側に落としている。
庭の木々は揺れ、鳥の声が聞こえ、どこかで隊士たちの騒がしい声がした。
何も特別なことは起きていない。
世界が変わったわけでもない。
明日になれば、きっとまた喧嘩をする。
仕事を押しつけ合い、くだらないことで怒鳴り合い、どちらかが悪態をついて終わる。
それでも。
その何でもない一日を、二人で迎えられること。
それが、どれほど幸せなことなのか。
土方は、ようやく知った気がした。
*
それから、土方は少しずつ変わった。
劇的な変化ではない。
朝起きたら、必ず沖田の姿を探すようになったとか。毎日、愛していると囁くようになったとか。そんな、誰が見てもわかるような変化ではなかった。
ただ、ほんの少し。
ほんの少しだけ、手を伸ばすことを覚えた。
沖田が任務から帰ってきたとき、以前よりも長く、その顔を見るようになった。
いつもなら「遅ぇぞ」と怒鳴るところを、「怪我はねぇか」と尋ねるようになった。
沖田が眠そうにしていれば、隣に座って肩を貸した。
沖田が何も言わずに茶を置いていけば、次の日には、沖田の好きな菓子を机の端に置いた。
どれも、ほんの些細なことだった。
けれど、そのひとつひとつが、土方なりの愛情だった。
言葉にするのが苦手なのは、自分も同じだ。
好きだと伝えるのは、照れくさい。
大切だと口にするのは、どうにも落ち着かない。
それでも、伝えなければ。
いつか、伝えられなくなる日が来るかもしれないから。
明日が必ず来るとは限らない世界で、自分にできることは、今日、目の前にいる人間を大切にすることくらいなのだから。
ある日の夕方。
沖田が縁側で昼寝をしているのを見つけたとき、土方は思わず足を止めた。
柔らかな西日が、沖田の頬を淡く照らしている。
普段は鋭い目元も、眠っているときだけは不思議なほど幼く見えた。少し開いた唇から、穏やかな寝息が漏れている。
膝の上には、読みかけの本。
その隣には、冷めかけた湯呑み。
何もかもが、いつも通りだった。
土方は静かに隣へ腰を下ろした。
沖田の肩に、自分の上着を掛ける。
起こさないように、そっと。
すると、沖田が小さく身じろぎをした。
「……ん、」
「起きたか」
「……土方さん?」
「ああ」
沖田は目を擦りながら、ぼんやりと土方を見上げた。
「……何してんですかィ」
「見りゃわかるだろ。休憩だ」
「へえ。副長殿は随分と暇なんですねィ」
「誰のせいだと思ってんだ」
「さァ」
沖田は小さく笑った。
それから、肩に掛けられた上着に気づいて、少しだけ目を丸くした。
「……これ、土方さんの」
「他に誰のがあるんだよ」
「いや、寒くねぇですかィ」
「お前が寒そうだったんだよ」
「……俺、寝てたんですけど」
「知ってる」
「……ふうん」
沖田は、上着の端を指でつまんだ。
何か言いたそうに口を開いて、結局、何も言わずに閉じる。
その仕草を見て、土方は少しだけ笑った。
「……何ですかィ」
「いや。お前、案外わかりやすいなと思って」
「はァ? 喧嘩売ってんですかィ」
「売ってねぇよ」
土方は、そっと沖田の頭を撫でた。
今度は、沖田も避けなかった。
むしろ、ほんの少しだけ、手のひらに頭を預けた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
愛情というものは、きっと、こういうことなのだろう。
大きな言葉を並べることでも、特別な場所へ連れていくことでもない。
寒そうだから上着を掛ける。
眠そうだから、そっとしておく。
疲れているようなら、何も聞かずに隣にいる。
相手が差し出してくれたものを受け取り、自分もまた、同じように手を伸ばす。
そうして、ひとつずつ。
ひとつずつ、二人の間に温もりを増やしていくこと。
それが、今の土方にできる、精一杯の愛し方だった。
「……土方さん」
「ん?」
「……あんた、最近ちょっと優しすぎやしません?」
「そうか?」
「そうでさァ。何か企んでんじゃねぇかと思うくらいには」
「失礼な奴だな」
「だって、気持ち悪ィですもん」
「じゃあやめるか」
「……それは、嫌です」
ぽつりと零れた言葉に、二人とも黙った。
沖田は、自分が何を言ったのか理解した途端、勢いよく顔を背けた。
「……今のは忘れてくだせぇ」
「嫌だね」
「土方さん」
「忘れねぇよ」
土方は笑った。
沖田はしばらく黙っていたが、やがて、諦めたように小さく息を吐いた。
「……本当、性格悪ィ」
「お互い様だろ」
そうして、また沈黙が訪れる。
けれど、今度の沈黙は寂しくなかった。
隣にいる。
ただ、それだけでよかった。
土方は、沖田の頭に置いた手を、もう一度だけ優しく動かした。
沖田は何も言わず、目を閉じた。
西日が、二人を包んでいる。
明日もきっと、こんな日が来る。
くだらないことで笑って、些細なことで喧嘩をして、何でもない時間を重ねていく。
その先に何が待っているのかは、誰にもわからない。
けれど、わからないからこそ。
今、この瞬間を大切にしたかった。
*
何年か先のことを、土方は時々、考えるようになった。
十年後。
今よりも少しだけ白髪が増えて、煙草の量も減って、昔ほど無茶ができなくなっているかもしれない。
沖田は相変わらず口が悪くて、相変わらず人をからかうのが好きで、相変わらず自分のことを土方さんと呼んでいるだろう。
きっと、今と大して変わらない。
朝になれば喧嘩をして、昼になれば仕事をして、夜になれば同じ屋根の下へ帰ってくる。
それでも、十年という時間は、きっと長い。
今は当たり前にできることが、いつかできなくなる日も来るだろう。
隣を歩く歩幅が変わるかもしれない。
昔のように走れなくなるかもしれない。
互いの顔に、今はない皺が増えるかもしれない。
それでも、土方は思う。
そのときも、自分はきっと、沖田の手を握りたい。
何も言わずに隣へ座って、同じ景色を眺めたい。
そして、もし沖田がふと不安そうな顔をしたら。
あの日、縁側でそうしたように、何度でも伝えよう。
ここにいる、と。
隣にいる、と。
お前がいてくれてよかった、と。
沖田は、きっとそのたびに、うるせぇだの、気持ち悪ィだのと悪態をつくだろう。
それでも、ほんの少しだけ笑うはずだ。
あの、夕陽の中で見せたような。
自分にしか見せない、あの笑顔で。
それを思うと、土方は胸の奥が温かくなった。
何年先も。
何十年先も。
いつか、二人がそれぞれの歩幅で歩かなければならない日が来たとしても。
その先で、また隣に並べたらいい。
もしも遠く離れることがあったとしても、互いに過ごした日々が、いつか帰る場所を教えてくれるように。
そうして、何度でも。
何度でも、隣に帰ってこられるように。
沖田がくれた愛情は、いつの間にか、土方の中でそんな願いに変わっていた。
受け取るだけだった温もりを、今度は自分から返していきたい。
お前がくれたものを、ひとつも無駄にしたくない。
お前が自分を大切にしてくれたように、自分もお前を大切にしたい。
そして、いつか。
沖田が人生の終わりに振り返ったとき。
自分と過ごした日々を、少しでも幸せだったと思ってくれたなら。
それだけで、充分だった。
*
夏が終わる頃、二人は久しぶりに休みを合わせて、町外れまで出かけた。
大した理由はない。
沖田が非番の日に、珍しく遠出をしたいと言い出したのだ。
どこへ行きたいのかと尋ねても、本人は「別に、どこでも」としか答えない。
結局、土方が適当に選んだ道を、二人で歩くことになった。
町を抜け、緩やかな坂を上り、川沿いの細い道を進んでいく。
空は高く、雲はゆっくりと流れていた。
川面には陽光が散らばり、風が吹くたびに、水の表面がきらきらと揺れる。
道端には、季節の終わりを告げる花々が咲いていた。
その中に、少しだけ遅咲きのひまわりがあった。
背の高い茎の先で、大きな花がひとつ、太陽の方角を向いている。
夏の盛りに咲く花ほど鮮やかではない。
花びらの端は少しだけ色褪せていて、葉にもところどころ傷があった。
それでも、花はまっすぐに空を向いていた。
沖田は、足を止めた。
「……ひまわり」
「ん?」
「いや。まだ咲いてんだなと思って」
土方も、隣に並んで花を見た。
「そうだな」
「……何か、あれみてぇですねィ」
「何が」
「……いや、何でもねぇです」
沖田は笑って、再び歩き出そうとした。
けれど、土方はその手を取った。
「……総悟」
「何ですかィ」
「手、繋いでいいか」
沖田は、ぽかんとした顔で土方を見た。
「……は?」
「聞こえなかったか」
「聞こえやしたけど。何ですか、急に」
「嫌ならいい」
「……嫌とは言ってねぇでしょうが」
沖田は顔を背けた。
耳が赤い。
それを見て、土方は思わず笑った。
「何笑ってんですかィ」
「いや。お前、ほんとわかりやすいな」
「殺しやすよ」
「怖ぇ怖ぇ」
そう言いながらも、土方は手を離さなかった。
沖田も、振りほどかなかった。
指と指が重なり、掌の温もりが伝わってくる。
それだけのことが、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。
土方は、繋いだ手を少しだけ握り直した。
「……なあ、総悟」
「……何でさァ」
「これからも、こうして歩こうぜ」
沖田は、黙っていた。
「くだらねぇ話しながら、喧嘩しながら。たまにはこうやって、どこかへ出かけたりしてよ」
「……」
「年取って、今みてぇに歩けなくなっても。ゆっくりでいいから、隣を歩いてくれ」
土方は、ひとつ息を吐いた。
「……俺は、お前とそういう時間を、ずっと過ごしていきてぇんだ」
風が、二人の間を吹き抜けた。
ひまわりの花びらが、さらりと揺れる。
沖田は俯いたまま、繋いだ手を見つめていた。
やがて、ぽつりと呟いた。
「……ずりぃですぜ、土方さん」
「またそれかよ」
「だって……」
沖田は、困ったように笑った。
「……俺が言いたかったこと、全部先に言っちまうんですもん」
その声は、いつもよりずっと素直だった。
土方は目を見開いた。
沖田は顔を上げないまま、続ける。
「……俺だって、ずっと一緒にいたいんでさァ」
「……総悟」
「明日も、明後日も。来年も、十年後も。……土方さんがじじいになって、今よりもっと面倒くせぇ男になっても」
「おい」
「最後まで、隣にいてやりますよ」
沖田は、ようやく顔を上げた。
その目は、少しだけ潤んでいた。
それでも、泣かなかった。
代わりに、ひどく不器用な笑顔を浮かべた。
「……だから、あんたも、ちゃんと俺の隣にいてくだせぇ」
土方は、返事の代わりに沖田の手を握った。
強く。
けれど、痛くないように。
まるで、そこにある温もりを、ひとつも取りこぼさないように。
「ああ」
それから、ゆっくりと笑った。
「約束だ」
沖田も笑った。
今度は、隠すことも、誤魔化すこともなく。
ただ、嬉しそうに。
不器用な二人だった。
愛していると伝えるのにも、何年先も一緒にいたいと願うのにも、随分と遠回りをした。
もっと上手な伝え方があったのかもしれない。
もっと素直になれる方法が、きっとあったのだろう。
けれど、二人は二人のやり方でしか、愛することができなかった。
憎まれ口を叩いて、手を握って。
心配して、怒って、時々笑って。
何でもない日々の中で、何度も何度も、相手を選び直していく。
明日も、この人の隣にいたい。
明後日も、その先も。
それが、二人にとっての約束だった。
ひまわりは、夏の終わりの風に揺れていた。
いつか花が散っても。
季節が巡り、景色が変わっても。
今日という日が、いつか遠い思い出になったとしても。
きっと、二人は覚えている。
川沿いの道を歩いたこと。
遅咲きのひまわりを見つけたこと。
少し照れくさそうに手を繋いだこと。
そして、何年先も隣にいたいと、初めて素直に伝えられたこと。
土方は、隣を歩く沖田を見た。
沖田は、繋いだ手を離さないまま、何でもないような顔をして前を向いている。
その横顔が、どうしようもなく愛おしかった。
だから、土方はもう一度、手を握った。
「……総悟」
「何ですかィ」
「愛してるよ」
沖田の足が止まった。
「…………は?」
「聞こえなかったか」
「いや、聞こえやしたけど……っ、あんた、こんな道の真ん中で何言って……!」
「言いたくなったんだよ」
「……っ、馬鹿じゃねぇの……」
沖田は顔を真っ赤にして、土方の手を握り返した。
そして、小さな声で。
聞き逃してしまいそうなくらい、かすかな声で。
「……俺も。」
土方は、笑った。
沖田も、少し遅れて笑った。
二人の影が、夕暮れの道に長く伸びていく。
その歩幅は、昔からちぐはぐだった。
土方は歩くのが早く、沖田は気まぐれに立ち止まる。土方が先を急げば、沖田はわざと遅れて歩き、沖田がふざけて走り出せば、土方は怒鳴りながら追いかけた。
それでも今日だけは、二人の歩幅が、不思議なほど自然に重なっていた。
手を繋いで、同じ方向を向いて。
何年先も、こうして歩いていけると信じながら。
土方は思った。
これからは、自分が愛情を注ぐ番だ。
沖田がくれた温もりを、今度は自分から届けていこう。
明日も、明後日も。
嬉しい日も、悲しい日も。
何もない、退屈な一日でさえ。
お前が笑ってくれるなら、それだけで、今日という日は宝物になる。
だから。
どうか、これからも。
俺の隣で、笑っていてくれ。
そして、いつか二人が長い長い年月を歩き終える、その日まで。
何度でも、手を握らせてくれ。
何度でも、好きだと言わせてくれ。
何度でも、君を大切にすることを、教えてくれ。
夕陽が沈み、空に淡い星がひとつ灯った。
二人は、帰り道を歩いていく。
いつもの屯所へ。
いつもの日常へ。
そして、きっと明日もまた、隣へ。
――君がくれた幸せの意味を、今度は俺が、君に返していくから。
繋いだ手の温もりを確かめながら、土方は静かにそう誓った。
何年先も、何十年先も。
その隣に、沖田総悟がいてくれることを願いながら。
おしまい。
コメント
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リオンです。第2話、読み終えました。 土方と沖田、お互いに「明日もここにいる」という約束を交わす場面が印象的でした。特に、土方が沖田の頭を撫でるところ——あれ、普段の彼らしい照れ隠しと優しさが同居していて、じんわりきました。不器用な愛情のかけ方しかできない二人が、少しずつ手を伸ばし合う距離感がとても繊細に描かれていて、読みながら何度も目頭が熱くなりました。 続きが待ち遠しいです。