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若くして命を落とした少女の痛みを和らげるような優しい雨が前夜から降り続き、いつまで降っているんだと声を潜めてシスター達が語り合っている午後も遅く、リオンはマザー・カタリーとブラザー・アーベルの依頼を受け、憔悴しきっているがそれでも気力で何とか持ちこたえている様子のゾフィーとともに総ての手続きを終えた彼女の身体が還ってくるのを孤児院のリビングで待っていた。
昨夜微睡んでは目覚めてしまうような浅い眠りしか訪れなかったリオンは、静かな寝息を立てているウーヴェを起こさないよう急いで支度をし、眠っているウーヴェの頬にキスとサイドテーブルにメモを残して家を出たのだが、その後マクシミリアンから携帯に連絡が入り、職場に顔を出して今回の事件について事務的な質問にいくつか受け答えをし、昨日の出動の報告書を手早く纏めてつい先程ホームにやってきたのだ。
事情をヒンケルから聞かされたからだろうか、努めて冷静にだがリオンにだけは理解出来る悲哀を滲ませた声で問いかけてくるマクシミリアンに感謝の思いを込めて肩を抱き、ダニエラにも自分が知る限りの彼女の暮らしぶりを伝え終えると、ダニエラが痛ましそうに目を細めてリオンの背中を抱きしめた。
言葉に出さずとも心を理解してくれる同僚達の顔を思い出したリオンだったが、ゾフィーが蒼白な顔色のまま立ち上がった事に気付き、煙草を灰皿に押しつけて同じように立ち上がる。
孤児院の窓から見える教会の前に車が止まり、数人の男性が車から棺を取り出し、礼拝堂から出てきたマザー・カタリーナに何やら語りかけてドアの中に進んでいく。
「・・・ゾフィー、行くぜ」
「・・・ええ」
幾度となく経験している葬儀だがやはり気分が重くなると溜息を零したゾフィーが今にも倒れそうな顔で頷くが、そんな彼女を見かねたのかリオンが肩に手を回して身体を支えるように歩き出す。
「今倒れてどうすんだよ。しっかりしろよ、ゾフィー。ノーラが笑ってるぜ」
「・・・!」
いつも腰に手を当てて人を睨み付けて怒鳴っているイメージがゾフィーにはあるが、こんなに憔悴しきっている姿をノーラが見ればデート相手の天使と一緒に腹を抱えて笑うと苦笑し、ゾフィーがじろりとリオンを睨み付けた時、廊下の先から青白い顔のブラザー・アーベルが二人に気付いて微かに笑みを浮かべながらやってくる。
「リオン、仕事は良いのですか?」
「ボスが休んでも良いって言ってくれたし、みんなも分かってるってさ」
良い同僚を持ったと肩を竦め、ゾフィーが自分で歩けると手をリオンの身体に宛がった為に彼女の意思を尊重するように手を引いて頭の後ろで組んで伸びをする。
「ノーラが帰ってきた」
「そう・・・ですか。マザーはどちらに?」
「さっき礼拝堂にいた」
三人揃って若くして命を落とした少女が帰ってきた礼拝堂に入り、溜息をついたばかりのマザー・カタリーナが視線を向けた為にゾフィーが小走りに彼女の傍に近寄り、ノーラの葬儀に必要なものの手配をする段取りを悲しみを薄れさせるように始めるのを尻目に、男二人が一段高い場所に安置されている棺の左右に立って小さな溜息を零す。
「ノーラの最期の言葉を聞きましたか?」
「・・・・・・聞いてねぇ」
出来ればそんなものは聞きたくないと叫ぶ己と、最期までしっかりと聞き届けて見届けろと毅然と顔を上げる己が腹の奥で鬩ぎ合っている事を舌打ちで表現したリオンは、煙草を取り出して火をつけると、彼女が眠っている棺を中心に左右に並ぶ長椅子に足を組んで腰を下ろし、天井に向けて煙をぷかりと浮かせることで腹の奥底で低く沸騰している何かを堪える。
彼女の死を上司のヒンケルから伝えられた時からリオンの中に静かに溜まり続けるものがあり、最期の言葉を聞けばそれが一気に噴き出してしまう恐怖から出来れば聞きたくないと小さく呟くが、ブラザー・アーベルがゆっくりと顔を左右に振った為に舌打ちをし、平静さを装った目で彼を見つめて先を促す。
「リオンに会いたかったがそこまで贅沢は言えない、ありがとう。それが彼女の最期の言葉だ」
自分の境遇を振り返れば贅沢なことなど何一つ無い筈なのに、そう言い残して満足そうに笑って逝きましたと、ブラザー・アーベルが棺の蓋を撫でながらぽつりと呟く言葉尻に長椅子を殴る大きな音が重なり、少し離れていた場所で打ち合わせをしていた彼女達が驚いたように身体を竦めて音の発生源であるリオンを見つめて固唾をのむ。
「リオン・・・?」
「それの何が贅沢なんだよ・・・!アイツはもっと幸せを望んでも良いはずだろうが・・・!」
最期に自分に会いたいが贅沢だと笑ったらしい少女の顔を思い描こうとするが、痣が浮いた顔しか思い浮かばない事に舌打ちをしたリオンは、苛立ちを押さえきれない顔で髪を掻きむしり勢いよく立ち上がって棺の蓋に握りしめた拳を押しつけて歯を噛み締める。
何も大それた事を夢に見ていた訳ではなく、ただ同年代の少年少女のように毎日を楽しく面白おかしく、時には思うままにならない苛立ちを感じるような日々を過ごしたいと思っていたはずだった。
それなのに、守るべきはずの大人が彼女から金銭をむしり取るだけではなく、最期にリオンに会いたかったとのささやかすぎる願いが本人にとってはとても贅沢なことに感じるような心を育ませたのだ。
色々気に掛けてはいたが結局何も出来なかった自分もそんな大人達と同類だとの思いが暗い水面から立ち上る水泡の様にふわりと沸き起こり、胸の高い場所を目指して昇ってきた刹那、音もなく弾けてその痛みにリオンが握った手に力を込める。
歯軋りを繰り返すリオンをただ見つめるしか出来なかったブラザー・アーベルは、礼拝堂のドアが静かに開いて三人の男女が入ってきた事に気付き、驚きと隠しきれない嫌悪感を滲ませた目で男女の顔を睨むように見つめる。
「ここで葬儀を行うのかね?」
初老の男性の声にリオンが勢いよく顔を上げて声の主を睨み付け、だったらどうしたと喧嘩腰に声を放つと、ブラザー・アーベルの手と駆け寄ってきたゾフィーの手が爆発してしまわないようにリオンの身体を軽く押さえる。
「落ち着きなさい、リオン」
「ここで葬儀をするかって聞かれたから答えただけだろ?」
咥えていた煙草を床に投げ捨てて靴底で揉み消し、新たな煙草を取り出すリオンの掌を小さな赤いヘビが這っていく様にゾフィーが目を瞠り、振り返ってマザー・カタリーナに助けを求めるように頷く。
「葬儀のことはどうでも良い。私たちが気にしているのはあの男が逮捕され、今まで強請られた金が返ってくるのかどうかと言うことだけだ。その為にはあんた達の協力が必要だ」
初老の紳士の言葉にさすがに誰も何も言えず、警察に訴えたと聞きましたがその裁判の結果次第で返ってくるかどうかが分かるのではありませんかと、胸中に芽生えているだろう思いを堪えながらマザー・カタリーナが告げ、ちらりとノーラが眠っている棺に視線を向ける。
短い命を終えてようやく得た穏やかな眠りだが、それを妨げるような喧噪を彼女の耳に入れたくないとの思いから三人を別室に案内しようとしたマザー・カタリーナだったが、ろくでもない男の娘にどうしてそんな気遣いをしなければならないのかと声を荒げ、さすがにマザー・カタリーナも温厚な顔に険しい表情を浮かべて男を見つめる。
「あなたの孫でもあるのですよ」
「ふん。これで金をせびられる事もない」
「あなた・・・少しは言葉を控えた方が・・・」
男の言葉にその背後で沈黙を保っていた女が窘めるには弱々しい声で夫を呼ぶが、その声を無視した男が更にマザー・カタリーナに詰め寄ろうとしたその時、リオンがノーラに起き上がって醜い顔を見せている年寄り連中を嘲笑えと言うように棺の蓋に拳を落とし、蓋が割れたような音が礼拝堂内に響き渡る。
「⁉」
「な、何だね・・・っ!」
「さっきからずーっと黙ったままでジジイに喋らせてるけどさぁ・・・あんたはどう思ってるんだ?」
リオンが語りかけた相手は初老の紳士ではなくその後ろで俯き加減で脅えたような暗い目を半ば伏せている女性に対してで、ブラザー・アーベルとマザー・カタリーナがほぼ同時に口を開いて何かを言いかけるが、それよりも先にリオンが、どうなんだ何か言えよと、今ここで聞くには限りなく場違いな陽気な声で問い掛け、男が眉を寄せて娘には関係のない事だと言い放つ。
「ちょっとは黙ってろよ、じいさん。俺はあんたに話してるわけじゃない」
「何だと!?」
「あんたの娘・・・ノーラの母親に聞いてるんだよ。あんたが節操なくあんな最低男に足を開いて天国に行った気分になってあいつが生まれたんだろ?あいつをただ苦しいだけのこの世に産み落として助けもしなかったあんたはどう思うんだよ?」
「・・・っ!!」
棺に寄り掛かりながら今にも歌い出しそうな口調で問い掛けるリオンに男の顔が怒りに赤く染まり、その横では老婦人が蝋のような顔色になって今にも倒れそうになっているが、その少し後ろで面と向かって罵倒された女性がスカートを握りしめて拳を震わせる。
「答えられもしない、娘が苦しいときに助けることも出来ない。それで母親かぁ・・・・・・」
「止めなさい、リオン!」
ゾフィーが蒼白な顔で拳を握って叫び、マザー・カタリーナも聞いていられないのかリオンを窘めるように見つめるが、母や姉とも思っているそんな二人に対してもリオンは目の前の女性に向けている暗く沈んだ目を向けたかと思うと、総てのものを嘲笑する笑い声を小さく零し、ノーラの棺の蓋をずらして夏の盛りの花々に囲まれて眠っているような少女の傷が目立たないように化粧を施されている頬を労るように撫で、これが最後だというように額に口付けると、怒りと呆然と何とも言えない表情で見守ってくる人々を一瞥することなく背中を見せる。
「リオン!」
ゾフィーが何処に行くんだと背中に呼びかけるものの、その声に言葉でも行動でも答えることなくドアを開けて出て行ったリオンを、男が憤懣やるかたない顔で非難し始める。
「あんたにあの子の事をとやかく言われたくないわ!」
自分の孫が困っているときに何の手助けもせず、逆に更に苦痛を味わわせたようなあなたに何も言われたくないとゾフィーがリオンの心境を思って悲痛な声で叫び、その剣幕に男がたじろいだのを見たマザー・カタリーナが総ての思いを込めた溜息を零し、胸の前で手を組んでノーラのために祈りを短く捧げると、弁護士を交えて話し合いをしたいので葬儀の後もう一度ここに来て下さいと告げて頭を下げる。
何故来なければならない、自分から来るべきだろうと男が尚も言い募ろうとするが、ブラザー・アーベルがゾフィーの肩を抱いて慰めつつ、どうかマザーの言葉を受け入れて下さいと低く恫喝するような声で懇願し、男とその夫人の顔を青ざめさせる。
「・・・葬儀は・・・、時間は何時からでしょうか・・・」
その時、リオンに罵倒されても口を開くことなく拳を握っていた女が重い口を開き、ノーラのための最後の儀式は何時から行われるのかと問い掛けてきた為、明日の朝10時頃になる事をマザー・カタリーナが伝え、最後のお別れにお越し下さいと告げて一礼をする。
「アーベル、ゾフィー、準備をしましょう。皆様にはお引き取りをお願いします」
これから少女を神の元に送る大切な儀式の準備があるので、これで失礼しますと一礼し、詳しい話は明日葬儀の後にともう一度繰り返した彼女に誰も逆らえず、それぞれ胸に思いを秘めながら頷いた三人は、ゾフィーの憎しみの籠もった視線とブラザー・アーベルのそれよりは弱いがそれでも非難と侮蔑の色を隠さない視線に背中を押されて出ていく。
「・・・アーベル、リオンを探して来て・・・!」
あんな風にあからさまな侮蔑の瞳で見られたことなど無かったゾフィーが力無く長椅子に腰を落としてブラザー・アーベルに頼むと告げると、マザー・カタリーナがここを出て行ったリオンの心に思いを馳せた言葉で彼女の言葉をやんわりと否定すると、それでもやはり心配だからとゾフィーが立ち上がろうとするが、リオンが立ち寄りそうな所は分かっているとひっそりと告げられて文字通り力が抜けたように再度椅子に腰を下ろして肩を落とす。
「・・・リオンの事は・・・バルツァーさんに任せれば良いか・・・」
「ええ。今は彼にお任せしましょう」
いつもは陽気さで覆い隠しているリオンの本音を垣間見た三人は、自分たちの手には負えない事への無力さに項垂れそうになるが、自分たちがそんなことでは駄目だと頷き合い、リオンならば明日の葬儀に間に合うように戻ってくるはずだからノーラが安心して旅立てるように準備に取りかかろうと再度頷き合うのだった。
両親の温もりを知らないどころか顔すら見たことのないリオンだからこそ、境遇は違っていても実の親から虐待を受けて命を落としたような少女の事を思えばただただやるせなかった。
礼拝堂を飛び出し、長時間濡れれば風邪を引きかねない雨に打たれながら歩くリオンをすれ違う人達が怪訝な顔で見つめるが、滴が垂れる金髪の下に見え隠れする蒼い瞳が底なしの暗さに沈んでいる事に気付くと何事も無かったかのように足早に通り過ぎていってしまう。
行く当てがない訳ではなく、このままそこに行っても良いのかと僅かに残っていた理性が呟きを発するが、そんな理性を遙かに上回る声が行けと叫び、同等の力を持った声が行くなと引き留めてしまう。
無理に話す必要はないと優しく促してくれる声を思いだし、まるで救いを求めるようにその声に手を伸ばしたリオンだが、己の中でその手を封じるような声が響き、息苦しさに胸元を掻きむしる。
働き出すまで暮らしていた孤児院ではノーラのような境遇の少年少女の存在は有り触れていて、マザー・カタリーナや他のシスターらが目を離した隙に問題行動を起こす子ども達が幾人もいたのだ。
今だから話せる事もあれば話せない事も当然あり、そんな過去の総てを未だに口にすることが出来ていないリオンは、今胸の奥で渦巻いている思いを口に出せば嫌われてしまうかも知れないと言う強迫観念にも似た思いを常に抱えていて、どうしても素直に話すことが出来ないでいた。
だが今回はさすがにリオンと言えども衝撃が大きかったようで、縋れるものを求めて蹌踉けながら街の中心部にある通い慣れたアパートの階段を何とか登っていく。
両開きのドアが見えたことに安堵の溜息を零し、微かに震える手でドアノブを掴んだリオンは、つい先程診察を終えたばかりと思われる患者が驚愕の顔で見つめてくることに気付いて顔を伏せ、そんな患者にお茶の用意をしていたオルガも同じように驚いて動きを止めてしまうが、気を取り直して診察を終えた患者の為に次回の予約確認をかわしていく。
いつもならば無表情に患者に接し、その姿がドアの向こうに消えるまで頭を下げている彼女だったが、無言で入ってきて俯いたまま立ち尽くすリオンと患者の様子を交互に窺い、最後に診察室のプレートが掲げられているドアを見つめてどうするべきかに頭を悩ませているような姿をぼんやりと見ていたリオンは、彼女の視線を受けたドアが静かに開いて診察中だったことを示すジャケットを羽織ったウーヴェが書類を片手に出てきた事に気付いた瞬間、得体の知れない何かが胸を内側から破ろうとするかのように溢れ出す。
「────っ!」
「!?」
ドアを開けた先に広がっていた光景に手にした書類を落としかねないほど驚き目を瞠ったウーヴェは、患者がまだそこにいることを思い出し、堪えているものを今にも吐き出そうとするリオンの暗い瞳を見つめて合図を送り、次回の診察時にこちらをお持ち下さいと患者に笑顔を向けて書類を差し出すと、もう一度リオンの目を覗き込んで思いが伝わるように願いつつ呼びかける。
「初診の方ですね?」
「え?・・・・・・あ、はい・・・」
「問診票に記入をして頂く必要がありますので、こちらにどうぞ」
いつもはオルガが座って仕事をしている診察室のドアの横にあるデスクに向かって歩き、振り返ってリオンを言葉で手招いたウーヴェは、己の思いがどうか伝わってくれますようにと祈りながらリオンの動きを待つが、のろのろとしながらもデスクの前にやって来てくれた事に胸を撫で下ろし、オルガが患者を見送るために頭を下げている姿を視界の端に捉えると、リオンの濡れて冷たくなっている手にボールペンを握らせるついでにぎゅっと力を込める。
「こちらに記入して頂きますが、答えられないところは無理に答える必要はありません。お名前と連絡先、加入している保険の名前だけを記入して下さい」
「・・・はい」
「後はフラウ・オルガが説明をいたします。その説明をお聞きになってお待ち下さい」
初めて診察をする患者と全く同じ対応をし、慌ててリオンの傍にやってくるオルガに後を任せると無言で頷いたウーヴェは、診察室に急いで戻り先の患者の事後処理を手早く済ませてジャケットを脱いで腕に引っかけながら戻ってきた部屋のドアを開けて名を呼ぶ。
「リオン!!」
「ぁ・・・・・・」
ジャケットを脱ぐことでメンタルクリニックの優秀なドクターとリオンを愛してやまない一人の男との心理的な切り替えを図ったらしいウーヴェがのろのろと問診票に記入しているリオンの腕に手を乗せて何があったんだと問い掛けると、一度は萎みかけた思いがリオンの中で再度膨張し始めたのか、じわりと顔が歪み出し、それに気付いたウーヴェが手にしていたジャケットをリオンの頭に被せて表情を覆い隠す。
「・・・待たせて悪かった」
本当ならばこんな風に初診の患者を装わせる事などさせたくはなかったが許してくれとジャケット越しに語りかけたウーヴェは、オルガが不安そうに見つめてきた事に気付いて極力事務的な口調で今日の診察を終わりにする事、戸締まりをしておいて欲しい事を伝え、己の思いがしっかりと伝わったことを頷きから察すると、リオンの背中に腕を回して診察室へと連れて行く。
「リオン・・・我慢させて悪かった」
公私の区別は厳然とつけるウーヴェの思いを理解しているリオンはその言葉に頭を左右に振り、ウーヴェが被せてくれたジャケットを握りしめて通された診察室の、患者が主に腰を下ろす一人がけのソファの横に座り込む。
「ソファに座ればいい」
「・・・濡れてるから・・・良い」
ソファを濡らしてしまうのは嫌だからここで良いと、絨毯に膝を抱えて座り込むリオンに苦笑しつつ向かい合うように膝を着いたウーヴェは、ジャケットをそっと後ろにはね除けて姿を見せた髪を優しく撫でる。
「オーヴェ・・・っ!!」
「ああ。どうした?」
「・・・・・・・・・」
伝えたい思いはリオンの中で獰猛なまでの熱と共に溢れかえり、今にも口をついて出てきそうだったが、どのように言葉にすればいいのかが分からず、抱え込んだ膝頭に額を押し当ててきつく目を閉じると、暗い世界で光を灯す様な温もりが背中から腕に掛けて芽生え、縋るようにその温もりに手を伸ばすとしっかりと重ね合わせてくれる。
その優しさに喉が奇妙な声を発してしまうが、それでも背中を温めてくれるウーヴェの温もりに堪えきれない思いを固まりの呼気と共に吐き出したリオンは、ウーヴェの身体の何処かに触れていた手を握り拳の形に変化させると同時に床に叩き付ける。
「・・・・・・Scheiße.」
「・・・・・・」
言葉とともに床を殴りつけるリオンの手を止めることはせずにただ背中を抱き締めていたウーヴェは、不意に背中が揺れたことに気付いて顔を上げ、リオンの口から流れ出す言葉に目を瞠る。
「あいつはさ・・・あんな最低な親から生まれたいって願ったのかな」
「リオン・・・?」
暗い嗤いと共に告げられる言葉に背筋が震え、後ろからでは意味がないと気付いて前に回り込み、膝頭に押しつけている顔を手で支えて上げさせると、暗くて深い闇が青い目の中に生まれていて、直視したくないと本能的に逃げ出そうとする心をただ一つの感情でもって抑え込むと、その闇を覗き込むように視線を重ね合わせる。
「リオン、あいつとは誰のことだ?」
「あー、うん・・・昨日さ、お迎えが来たって言ったよな、そいつのこと」
闇の底から響く声は場違いな陽気さを身に纏っていて、リオンの本心が今どこにあるのかを紛らわせてしまうが、その居場所を見抜いているウーヴェが目を細めてもう一度ゆっくりと誰のことだと問いを発して口を閉ざせば、リオンが瞬きを繰り返して一つ肩を揺らす。
「・・・ノーラ」
「お迎えが来たというのはその女性が亡くなったと言う事だな?」
「・・・拳銃が、暴発したんだよ」
彼女はどうして拳銃の暴発事故に巻き込まれたんだと問えば、リオンの肩が上下に揺れて頭が下がるものの、身に纏っている気配は変わらずに暗いままだった。
「リオン」
「んー・・・言っても分かんねぇと思う」
肩を揺らして嗤い続けるリオンの言葉に冷たく拒絶する壁の存在を感じ取ったウーヴェは瞬間的に芽生えた怒りにも似た思いを深呼吸一つで胸に納めると、微かな笑みすら浮かべてリオンの名を呼んで顔を上げさせる。
「それは本気か?」
「・・・・・・」
「なぁ、リーオ。それは本気の言葉なのか?」
今までお前に対して過去のどんな事象にも笑うこともなければ呆れることもないと伝えてきたが、何一つとしてお前に届いていなかったのかと寂しそうに目を細めれば今度はリオンが驚愕から顔色を無くしてしまう。
「本気でそれを言ったのなら・・・寂しいな」
もしもつい言ってしまったのだとすれば今回だけは聞かなかったことにしようと笑みすら浮かべるウーヴェの思いを読み取ったリオンが、優しいからこそ傷付けてはいけない人の心を深く抉った事に気付いて唇を噛み締める。
「・・・ごめん、オーヴェ」
「・・・ノーラは、彼女は拳銃の暴発事故で亡くなったのか?」
彼女が命を落とした理由を手短に聞こえにくい声で告げたリオンは、ウーヴェの顔を直視することが出来ずに俯き、立てた膝に腕を載せて顔を埋めるように腕で覆う。
何故16年という短い時間を痛みと苦しみを共に過ごし、最終的には拳銃の暴発事故などという苦痛の最中に命を落とさなければならなかったのかと拳を握りしめて歯噛みするリオンを見つめていたウーヴェは、リオンの握りしめられている拳をそっと両手で包んで広げさせると、かさぶたを突き破って滲み出した血を止めるためにハンカチを押し当てる。
「・・・最低な親に産んで欲しいなんて・・・誰も思わないのにな」
最悪な男と未だに親に逆らえずに黙って俯いているような自分がない女の間に生まれてしまったのが運命ならば、この結末も予定されていたもので不思議なことではないのかも知れないと呟きながら顔を上げ、この世の総てを嘲笑うような笑みを浮かべたリオンは、なあそうだろうと同意を求めるものの、逆に問い返されて瞬きを繰り返す。
「・・・お前はそう思うのか?」
「・・・・・・」
「運命などと都合の良い言葉で片付けようとするな」
その言葉に反応するようにウーヴェの顔を睨み付けたリオンは、己の思いよりも更に強くて深いものを抱えているような恋人の視線に眉を寄せる。
「彼女の死は運命なんかじゃない。悔しくて悲しい事故だ。何故彼女は突然の暴力で命を絶たれなければならなかったんだろうな。本当に悔しいな、リオン」
本当であれば彼女のために用意されていた時間は他の人たちと同じようにこれからも続き、その時の中で本当に愛する人と共に泣き笑い、人として当然享受できるはずの幸せな時を過ごせただろうが、その時を暴力で奪われた事は心底悔しいことだし哀しいことだと目を伏せながら告げ、血が滲み出したハンカチにそっと掌を重ねたウーヴェは、リオンが何かを堪えるように奥歯を噛み締めている事に気付き、濡れた髪を胸元に抱き寄せる。
「・・・Scheiße・・・っ!」
「・・・・・・ああ。本当に悔しいし・・・哀しいな」
運命という言葉で諦めたフリをするのではなく、悔しくとも哀しくとも真正面から彼女の死を見つめ、また顔を上げて前を見るためならば今はどんな言葉であっても構わないから心の裡に溢れる言葉を吐き出してしまえと囁き、胸の前から響いてくる悲哀の言葉を一つ一つ受け止めたウーヴェは、リオンの口から流れ出す言葉に力がなくなって身体からも力が抜けたことに気付くと、もう一度哀しいなと呟いてくすんだ金髪に口を寄せる。
ここでこうして抱き締めている事で少しでも気分が落ち着き、またいつものように闊達なリオンに戻ってくれればと願いながら髪に頬を押し当てていると、ウーヴェの願い通りに落ち着きを取り戻したらしいリオンがくぐもった声で謝罪をし、ウーヴェの腕に手を載せる。
「何か飲むか?」
「・・・・・・顔、洗ってくる」
「ああ」
ぼそぼそと呟くリオンに頷いてジャケットを再度頭から被せて立ち上がらせたウーヴェは、リオンが足早に診察室を出てトイレに向かう背中を見送り、不安そうに見つめてくるオルガに一つ肩を竦めて大丈夫だと頷くと彼女の顔に安堵の色が広がり、キッチンスペースでお茶の用意をする事を伝えて踵を返す。
「・・・・・・オーヴェ」
「さっぱりしたか?」
「うん。────ダン、オーヴェ」
トイレから出て来たリオンの顔がいつもよりは暗いがやって来た時のような翳りを伴っていない事に胸を撫で下ろし、気にするなと告げてジャケットを受け取るが、何やら言いにくそうに視線を彷徨わせるリオンにどうしたんだと苦笑する。
「うん・・・その・・・」
「・・・彼方でお茶でも飲みながらゆっくりと話をお聞きしましょうか?」
オルガのデスクにあった途中まで記入されているカルテを指先でトンと一つ叩いたウーヴェは、キッチンスペースからお茶の用意を運んできてくれた彼女に診察室に運んで欲しいと告げてリオンに片目を閉じる。
「・・・これってさ、診察?」
「そうですね・・・あなたが望むのなら、無保険加入者の初診扱いにしましょうか」
にこりとそれはそれは見事な営業スマイルで提案してくる恋人にリオンが青い目を剥き、オーヴェのイジワル、トイフェルと泣きべそを掻く真似をすれば、そんな二人の様子を見守っていたオルガがくすくす笑い出す。
「リアまでひでぇ」
「リーオ」
「・・・・・・少し聞いて貰っても良いかな、オーヴェ」
「ああ」
笑われた事に頬を膨らませて抗議をするリオンに彼女が笑いながらごめんなさいと謝罪をし、ウーヴェが微苦笑を浮かべつつ肩を竦めて診察室のドアを見れば、リオンが深呼吸を繰り返した後、己の胸の裡で蟠り言葉に出来ない程冷めた熱を持つ感情を出口へと導いて欲しいとそっと囁けば、総てを了解している顔で眼鏡の下のターコイズ色の瞳が半ば姿を隠す。
「では私は彼方で仕事をしているわ」
お茶を運んで二人が一人掛けのソファとデスクにそれぞれ腰掛けたのを見計らったオルガは、話の邪魔をするつもりはないからゆっくりと話し合ってくれと告げて部屋を出ようとするが、横を通り過ぎた彼女の腕を掴んでリオンが引き留める。
「リオン?」
「心配かけてごめん、リア」
「今度美味しい紅茶を買って来てくれたら許してあげるわ」
おそらくは飛び込んできたリオンの顔を見て一目で尋常ではない事は察しただろうが、ちょうど診察を終えた患者の対応をしていた為にどちらを優先するべきか悩んだだろうし、リオンを後回しにするような対応を取ってしまったことへの後ろめたさも感じてしまっただろう彼女だが、片目を閉じてその一言で許してくれた事に気付き、リオンがソファから身を乗り出して彼女を引き寄せると、倒れ込んできた柔らかくて良い匂いのする身体を抱きしめてうっすらと赤味を帯びた頬にキスをする。
「ダンケ、リア」
「え、ええ。ご、ごめんなさい、ウーヴェっ!」
「リアが謝る事じゃない。気にしなくて良い」
お互いに恋人がいて-しかもリオンの恋人は彼女のボスであり友人でもあり、今デスクに両肘をついて苦笑しているウーヴェだった為、彼に悪いと慌てふためきながらリオンの腕から脱出すると、足早に診察室を後にする。
「・・・・・・気が済んだか?」
「うん」
ソファに座り直して広げた足の間で手を組んだリオンだが、ウーヴェが静かに見守る前で組んだ両親指をくるくると回転させる動きを続けていたが、深々と溜息を吐いて顔を上げ、じっと見つめてくるウーヴェに思いを聞いて貰う為に口を開くのだった。
窓の外では少しだけ強くなった雨が世界を悲しみに沈めるように降り続いていた。