刑事を辞めてこれから先一生涯ウーヴェを支える為の杖になる。
その決意はウーヴェが事件後初めて笑みを浮かべて名を呼んでくれた時にリオンの腹の中に音もなく静かにやって来たものだったが、それを家族同然のマザー・カタリーナやヒンケルを筆頭にした愉快な仲間達に伝えると己の想像通りとそれ以上の騒ぎになってしまった事を反省しつつ、ベルトラン特製のリンゴのタルトを片手に病院に戻ってくる。
病室のドアを開けるとアイヒェンドルフとウーヴェが本当に穏やかな顔で話していて、それを見られただけでも本当に幸せだと改めて気付き、リオンの顔に嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「……リーオ、お帰り」
ベッドで左足をリハビリの器具で動かしながら顔を向け、入ってきたのがリオンだと気付くと同時に笑顔で今まで通り呼んでくれたのも嬉しくて、うんと頷いたリオンがアイヒェンドルフの為の生クリームも用意して貰ったとタルトの箱を突き出しながら満面の笑みで告げて己も椅子を引いて腰を下ろす。
「先生、オーヴェどうでした?」
「うん、少し元気になったようだね」
「そっかー。それは良かった。オーヴェ、リハビリ終わったらタルト食うか?」
足首から先が動かなくなったからと言ってリハビリを行わないと左足全体が動かなくなってしまい、結果車いすの生活になりかねなかったのだが、あの夜カスパルが宣言したとおり車いすでの生活にさせるつもりもなかった為、リハビリを少しずつ始めていたのだ。
それが終わればご褒美だと笑うリオンに一瞬ウーヴェの顔が引きつるが、それに気付いたリオンがベッドに腰を下ろすよりも先にウーヴェの口が小さく動いて約束という言葉が流れ出す。
今日アイヒェンドルフが来るまでは事件を連想させる言葉などを見聞きするとだけで今のように顔が引きつりリオンにしがみつくことで不安を解消していたウーヴェだったが、アイヒェンドルフと話をした成果なのか、今一人でその不安を解消しようとしているようだった。
その為の約束という言葉なのだとリオンが気付き本当にお前は偉いとウーヴェを手放しで褒めつつその髪にキスをすると、微かに震える手がリオンの背中に回される。
「……リハビリ、終われば食べる」
「良いぜー。あ、俺も一切れ食って良い?」
ウーヴェの頭に頬を押し当てつつ笑ったリオンだが、ダメだという言葉を聞いて驚きウーヴェを見下ろせば、微かに震えつつも唇の片端が意地悪な角度で持ち上がっている事に気付いて条件反射のように頬を膨らませる。
「むー。オーヴェの意地悪。トイフェル」
「……俺、は、トイフェルじゃない」
トイフェルはお前だとも笑うウーヴェに一気にいろいろな感情が押し寄せてきて言葉に詰まってしまうリオンだったが、そんな意地悪を言うのならタルトは俺と先生で全部食べる、お前にはあげませんとタルトの箱をウーヴェの手の届かない場所にやると、ウーヴェがじっとリオンを見上げ、どうしても食べたい今すぐ食べたいと言う代わりにリオンのシャツを軽く引っ張って名を呼ぶ。
「リーオ」
「あーもー、その顔反則だってー!」
そんな可愛い顔で見つめられたらイヤと言えないと本能の叫びを発するリオンにウーヴェが尚もリオン曰くの可愛い顔で見つめると、唇に小さな音を立ててキスをされてしまう。
「分かったから、好きなだけ食っていいからー!」
だからその顔反則ともう一度叫んだリオンにウーヴェが嬉しそうに顔を笑み崩れさせるが、そんな二人を見ていたアイヒェンドルフが感心したように笑い声を立てる。
「先生?」
「あぁ、本当にウーヴェはきみといる方が良い。うん」
「ですよねー」
やっぱり俺達は一緒にいる方が良いと常々リオンが伝えていたそれだが、アイヒェンドルフも同じ思いを抱いていた事から俺の考えは間違っていない、だから刑事を辞めることも間違っていないと告げると師弟同時に何だってと問い返される。
「ん? うん。今週末で刑事を辞める事にした」
「……!!」
「それはどういうことなのかな、リオン?」
ウーヴェが衝撃の大きさを伝えるように手を震わせながらリオンのシャツを握りしめ、蒼白な顔で見上げてくる事に気付いて額にキスをしたリオンは、アイヒェンドルフの言葉に頷きながらヒンケルや同僚達に説明をしたときよりも穏やかな丁寧な声で何故刑事を辞める事にしたのかを語り出す。
「最大の理由は、オーヴェを支えたいから」
「でも、リオン、それは……それじゃあ……」
「今までさ、よく考えたらずーっとオーヴェに支えられてきてたなぁって。ゾフィーの事件の時もそうだったし他のことでもそう。お前がいてくれたから俺はこうして元気に刑事として働くことが出来た」
後悔の欠片すら感じさせない顔でウーヴェの蒼白な顔を見つめ頬を両手で挟んだリオンは、アイヒェンドルフの痛いほどの視線に気付きつつも、今向き合うべき対象は誰かをしっかりと理解している顔で頷くと、驚きに見開かれるターコイズの双眸に痛ましそうにキスをする。
「俺は、オーヴェがいる事で夢をずっと見続けることが出来た」
刑事になるという長年の夢、それを叶えたのは実力でだったがその夢を継続する力は、毎日楽しかったり不機嫌であったり時には心が悲鳴を上げる事があっても、穏やかな笑顔でお帰りと出迎え、顔を上げろ胸を張れと優しく諭してくれるお前が分けてくれたと告げ、感情に震える唇にそっとキスをしたリオンは、ウーヴェが望む笑みを浮かべて次は俺の番だと囁く。
「でも、……で、も、リオン……それは……」
己の恋人の天職とも言える刑事の仕事。それを辞める理由が己の足が不自由になってしまった事だと知らされ衝撃に同じ言葉しか繰り返せなくなったウーヴェは、ぼやける視界で笑みを浮かべているリオンの頬に手を伸ばし、でもと繰り返す。
「な、オーヴェ、俺がお前の杖の代わりになる。ダメか?」
左足を痛めてしまったお前に必要不可欠な杖、その杖になりたいとリオンが窺うようにウーヴェの顔を見つめると、そんなことはと震える声が否定するが、でも刑事を辞める必要などないとようやくリオンに伝えると、アイヒェンドルフもたとえ障害が残ってもウーヴェはちゃんと前のような生活に戻れるとリオンの真意がどこにあるのかを見抜こうとするように問いかける。
「先生には悪ぃけどそれは俺が一番分かってる」
ウーヴェが事件の傷から心身共に回復をする時のしなやかな強さは俺も身近で見つめてきていたのだと自嘲すると、それならば何故と更に問われて一つ肩を竦める。
「んー、簡単なことなんだけどなぁ」
アイヒェンドルフの言葉にリオンが天井を見上げ次いでウーヴェへと向けた顔には何があっても己の信念を揺るがせない強い意志が蒼い双眸に浮かび、口元には思わず見惚れてしまうような太い笑みが浮かんでいた為、ウーヴェの目が違った意味で見開かれる。
「刑事を続けることよりもオーヴェを傍で支えたいって夢がでっかくなっちまったんだよなぁ」
なー、オーヴェ、仕方ねぇよなぁと笑うリオンにアイヒェンドルフが驚きに目を見張り、そんなリオンの言動を良く知るウーヴェも驚愕に絶句してしまうが、至近で見た笑顔が事件前まで当たり前のように見ていたものと何も変わらないものだった為つい頷いてしまう。
「あ、あ……」
「……そうなんだね」
「そう。だから今日退職願を出してきた」
ウーヴェの頬に小さな音を立ててキスをし、退職願を出したらボスに泣かれて仲間達にも叫ばれたと悪戯っ子の顔で笑うリオンに釣られたようにアイヒェンドルフも笑い、きみは本当に愉快な人だと肩を揺らし出したため、リオンがそんなに笑わなくてもいいでしょうと頬を膨らませる。
「ウーヴェと二人でもう一度よく話し合いなさい」
「そーだな。オーヴェはまだ納得できてねぇみてぇだし」
後でゆっくりと話し合いますかーと笑うリオンに何度も頷いたアイヒェンドルフは、タルトを食べたら帰ることを告げて言葉通りに生クリームの載ったタルトを食べ終えると、呆然としているウーヴェに近いうちにまた顔を出すと告げて返事も聞かずに病室から出て行ってしまう。
「……先生、急いでタルトを食ったけど、腹痛くならなければ良いな」
何か食べた後にあの早さで歩くと横っ腹が痛くなるんじゃないかとアイヒェンドルフの身体を気遣う言葉をリオンが零すが、ウーヴェがその言葉に反応することはなかった。
「……」
だが、リハビリが終了した合図のビープ音にようやく我に返ったようで、ナースコールのボタンを押してリハビリが終了したことを伝え、リハビリの器具を引き取りに来た看護師に半ば上の空で今日の体調等も報告したウーヴェだったが、看護師が出て行くと同時にアイヒェンドルフの代わりに足を組んで座っていたリオンを見つめ、気持ちを落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。
昨日まで-はっきり言えばアイヒェンドルフが来るまでは、何か不安を感じたりすると小さな子どもみたいにリオンにしがみついていたウーヴェが、今はシーツを握って深呼吸を繰り返して自らの力で落ち着こうとしている様子にリオンが嬉しそうに目を細め、やはり先生を呼んで正解だったと胸を撫で下ろす。
「なあ、リーオ」
「ん? どうした?」
「……お前が、その、刑事を辞める事について、だけど……」
言葉を選びどうすれば己の思いを伝えられるのかと必死に思案する顔も事件前のウーヴェならばごく当たり前のもので、そのことからも少しずつ傷が治り始めている事を察したリオンが頷き、どうしたと手を組んで先を促す。
「……リハビリをしてもこの足はもうダメだ、だからお前が支えてくれる、という事か……?」
その声に潜む昏い感情をしっかりと読み取ったリオンが黙って頭を左右に振った後に椅子ごとベッドサイドに近寄ると、ウーヴェの俯き加減の顔を覗き込むように上体を屈める。
「そうじゃねぇよ。足が悪くなったからってお前が何もかも投げやりになるとか思ってねぇし、俺にべったり甘えるなんてこともしねぇだろ?」
「だったら……どうして、俺の杖になる、なんて……」
きっと他の誰よりも刑事という仕事を誇りに思い、また適しているお前が何故その刑事を辞めてしまうんだとの疑問を口にしながらリオンを見たウーヴェは、そこに当たり前だと言いたげな顔を見つけて目を瞠る。
「さっきも言っただろ? お前を支えたいって夢が出来たって」
「それは、そうだけど……」
でもと言い募るウーヴェの頬に手を当ててこちらを向けと少しだけ強めの言葉でウーヴェの名を呼んだリオンは、刑事として一生涯働く事とその夢を天秤に掛けたら当たり前だけどお前の分だけ重くなった夢へと天秤が傾いたと笑い、そう言う意味でお前は確かに重荷かも知れないなぁとも笑うと、ウーヴェがどういう意味だと言いたげにターコイズの双眸で見つめて来る。
「刑事として働いていた時はすげー楽しかったし充実してた。でも……お前がいなかった時、全部がさ、砂嵐の向こうの世界に思えた」
現実にしっかりと足を着けているはずなのに総てが砂嵐の向こうで時折鮮明に見える光景として映っていたと、事件当時の己の感覚をどう表せば良いのかが分からない顔でリオンが肩を竦めると、ウーヴェの手がシーツでは無くリオンの手に重ねられる。
「やっとお前を見つけて病院で手術をしたのに死にたいって言うし。お前がいない嵐のような世界がまだ続くのなら一緒に死んでも良いって思った」
だからあの時一緒に死ぬと言ったのだとウーヴェと心中する真意をようやく伝えたリオンは、ウーヴェの唇が噛み締められている事に気付き、傷になるから力を抜けと苦笑してキスをし重ねられている手を取って逆に握り返す。
「お前が生きてくれてた。また、戻って来てくれた」
その事実の重さに比べれば刑事を辞める事など吹けば飛んでいく紙切れのようなものだと笑うと、ウーヴェの頭が下がってリオンと己の手に額が重ねられる。
「刑事の立場がお前と一緒に生きるのに足枷になるならそんな夢はもう要らない」
それならば、本能が何があっても喪うなと叫ぶお前の傍で生きていく道を選ぶと笑うと、伏せられたままのウーヴェの髪をそっと撫でてキスをする。
「な、オーヴェ、まだ俺がお前の杖になることを許してくれねぇ? ダメ?」
刑事を辞めるという事は無職になってしまうことだがやはり真面目なお前は健康ないい年をした大人が働きもせずに家でぶらぶらしている事を許してくれないだろうかと茶目っ気を込めて耳に囁きかけると、白とも銀ともつかない髪が左右に揺れて暫くすると顔が上げられる。
「……俺のヒモになるのか?」
「うん。オーヴェのヒモになりたいなーって」
ヒモ、いわゆる情夫になりたいがダメかと言葉の意味を思えば後ろ暗さを感じてしまいそうなのに、リオンが言えば文字通りウーヴェの腰に巻き付けた紐のように思えるのか、逆の手を口元に当てたウーヴェが小さく笑みを零す。
そのささやかな行為も事件前と後とではがらりと変化をしたものだったため、片目を閉じたリオンがだめ押しとばかりに頑丈で決して切れることはありません、他の男女に目もくれません、ウーヴェ一筋ですと盛大に告白すると、ウーヴェの口元だけを彩っていた笑みが顔中に広がっていく。
「俺だけ?」
「そう! だからさ……」
こんな他人から見れば情けない俺とだが結婚してくれとさすがに今度はしっかりとウーヴェを真っ直ぐに見つめて告白すると、ウーヴェのターコイズ色の双眸が今更何をと言いたげに見張られるが、再び悪戯を思いついた子どもの顔でリオンが片目を閉じる。
「なー、お前専用の警備員になるからさ、俺と結婚してよ、オーヴェ」
「専用の警備員?」
「そうそう。自宅でもクリニックでもどこにでも同行するし何かあればすぐに駆けつけるからさー。おまけに今なら給料は現物支給で良いから」
だから結婚するべきだ、いや、しよう、いやいや、して下さいどうかお願いします陛下と徐々に謙るプロポーズについにウーヴェが堪えきれずに吹き出し、頼むから止めてくれと手を上げて制止するが、ダメ押しのように小首を傾げたリオンに鼓動を小さく跳ねさせる。
今こうして戯けた風にプロポーズをしているリオンだが、今回の事件ではウーヴェだけではなくリオン自身も深く傷付き、傷を癒やすための時を必要としているはずだった。
だが己よりもウーヴェを優先している事は入院後常に付き添っていた事からも感じ取れることで、ようやくウーヴェがそれに気付くと同時に目の前に掛かっていた深い霧が晴れていく光景が脳裏に浮かぶ。
そしてその霧が晴れ上がった先にいたのは、愛してやまない笑顔で己に向けて手を伸ばすリオンだった。
その笑顔の為ならば何でもするしまたリオンが何度も教えてくれたように、己にとってもその笑顔はなくてはならないものになっていたのだ。
今まで敢えて口にすることは無かったそれを脳裏から胸の奥へと納めたウーヴェは、胸に芽生える幸せな痛みに眉を一つ寄せる。
「オーヴェ?」
「……舐めるなよ」
「へ?」
やや俯いていたウーヴェが顔を上げて真っ直ぐにリオンを見つめたかと思うと、見開かれる蒼い双眸が宝石のようで綺麗だと思いつつそっと頬を両手で挟み、驚きに染まる唇にキスをする。
「お前一人を養うぐらい、どうと言うことは無い」
俺の専属警備員になると言うのならその警備員の日々の暮らしを充実したものにさせるのもそうだし金銭的な意味での寂しい思いなど絶対にさせないとターコイズの双眸に強い光を宿して告白すると、リオンの顔が一気に赤くなり次いで蒼い目が左右に暫く泳いでしまうが、同じようにウーヴェの目を見つめる場所で動きを止めると破顔一笑。
その笑顔をいつでもいつまでも見ていたい一心で、だから安心して専属の警備員になれと命じるとリオンが笑みを深めてウーヴェの首に両腕を回してしがみつく。
「きゃー、ダーリン、オトコマエ!」
今すぐ結婚しようそうしようと笑うリオンの背中を撫でてくすりと笑みを零したウーヴェだったが、どうしても気になってしまう一言をそっと問いかける。
「だから……俺を、支えてくれるか、リーオ」
「安心しろ」
足を悪くしてこの先お前に迷惑を掛けることが多々あると思うがそれでも傍にいてくれるだろうかと心配性丸出しの問いにリオンが一瞬で表情を切り替えたかと思うと、今度はウーヴェの額に額を重ねてにやりと笑みを浮かべる。
「お前を支えるぐらいの力はある」
「……うん」
「何なら結婚式の間中ずっとお前をお姫様だっこしてても良い」
それぐらいの力はあるから大船に乗ったつもりで安心しなさいと笑うリオンにウーヴェも腹を括ったのか、同じ顔で頷いてリオンの頭に腕を回す。
「リーオ、俺の太陽。退院したら結婚しよう」
「うん」
五月初旬にも役所で式を挙げると言っていたが、ウーヴェの入院やリハビリの期間を思えば延期しなければならない。もし許してくれるのならばホームの教会で式を挙げたいとリオンが許しを得るように告げると、ウーヴェが反対などしない、お前が育った教会で幸せの形を作り上げる様をみんなに見てもらおうと笑いリオンの口から無意識に安堵の溜息が零れ落ちる。
「うん」
ありがとうと素直に礼を言ったあと少し照れた顔でウーヴェを見つめたリオンだったが、顎を軽く持ち上げられて何を望んでいるのかに気付いて目を閉じる。
閉ざされた世界で唇に触れる感触に言葉に出来ない思いが籠もっている気がし、ついついもっとと求めるようにウーヴェの頬に手を当てて顔を固定してしまう。
「……ん……」
久しぶりのキスにどちらも離れる事が出来ず、それでもここが病室だと思い出した為に何とか離れるものの、リオンがウーヴェの横に潜り込んでぴたりと寄り添う。
「カールに見られたら怒られるぞ」
「平気」
怒るアニキの了見が狭いのだと笑ってウーヴェの肩に頭を預けたリオンだったが、ウーヴェが何かを決意したように顔で小さくうなずいた後、己の肩に預けられている髪を黙ったまま撫で続けるのだった。
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