テラーノベル
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「素晴らしいお味ですわね。濃厚な牛乳のまろやかな味わいが噛み応えのある豚肉と根野菜に絡まり合って、口に入ってから胃に落ちるまで多様な心地よさをもたらしますわ」とレモニカは一人一息に呟く。
快い味覚を言葉で表現せずにはいられなかった。この幸福を誰かに伝えずにはいられなかった。
「え!? レモニカ様!? 一体何をお召し上がりになっているのですか!?」
寒空凍えるロムドラの町の通りに、幼子から目を離してしまった母の悲鳴に似たソラマリアの驚愕する声が響く。人の込み合う通りを歩く一行の中でレモニカだけが器と匙を持ち、濃厚な香りの漂う牛乳の煮込みを味わっていた。
「さっきそこの植え込みのそばに落ちていましたわ」
ユカリとベルニージュ、グリュエーも自身を奇異な目で見ていることにレモニカは気づいたが、何がおかしいのかすぐには分からなかった。煮込みの美味しさは疑いようもない。脳を揺らす味、肺に満ちる香り、全身に響く食感、どれをとっても格別だ。しかしソラマリアに器を取り上げられて、ようやく事態の異常さに気づく。
「すみません。わたくしったら、どうして煮込みを独り占めにしていたのでしょうか。気が付いたら虜になっていて」
レモニカは異常な行為の言い訳を重ねるが、皆の表情はますます険しくなるばかりだった。
何かおかしなことを言っているだろうか。それとも馨しい煮込みを独り占めにしたことが許せないのだろうか。仮にそうだとしても食する前に、この味を知る前にこれほど羨むのは少し奇妙ではないか、とレモニカは不思議がる。
「もしも毒が入っていたなら……」そう言ってソラマリアはベルニージュに器を渡す。
ベルニージュは六感を駆使して器と中身を丹念に調べる。器の素材や意匠、食材のどこにも魔の気配はない。
「何も見当たらないね。少なくともワタシの知ってる魔術は施されてない。魔導書の気配は?」
「相変わらず動きはないよ。この道を進んだ先、右側の建物にいる」ユカリは通りの先に目を向け、そして左の方にも目を向ける。「それとは別方向からこっちに向かっている魔導書もある。たぶんフシュネアルテだね。どこに行くんだろう。……グリュエー?」
ユカリが、何も言わずに離れようとしたグリュエーの手を掴む。
「そこに美味しそうな羊の丸焼きが落ちてるよ」とグリュエーの指さす先、通りの真ん中に大きな円卓が置かれ、確かに丸々とした羊の丸焼きが置いてある。溢れる油で照り返り、香ばしい空気が漂ってくる。
道行く人々は備え付けられた皿を取り、肉を切り分けて食している。その物音すら魅力的で、花に引き寄せられる蝶のようにレモニカも足を向けようとしたがソラマリアに抑えられる。
「この町ではこれが当たり前なんてことないよね?」ユカリが少し不安そうにベルニージュに尋ねる。
「たぶん。昨日まではなかったし」ベルニージュにしては珍しく、不確かさに不安を覚える声色で言った。「それにしても、使い魔だとしても、先駆けや捨て石だとしても、どうしてこうも匂いに関する連中ばかり送り込んで来るんだろう?」
「少なくとも」とソラマリアが知恵を貸す。「奴ら同士は協力しがたいだろうな。お互いに邪魔になりそうだ」
その時、通りを横切る形でフシュネアルテとイシュロッテの姉妹、そして屍の二号が通りかかった。道端の料理になど目もくれず、確かな目的を持っているらしいことが見て取れる。否応なく、その行く先は推して測れた。
「あ! また先んじられるよ! 急がないと!」とユカリが叫んで走り出す。
皆でユカリの後を追う。料理の匂いから離れると徐々にレモニカの頭の中が澄み渡ってくる。何故、何の疑問も浮かべずに道端の料理を食したのか分からない。いや、理由自体は分かっている。美味しそうだったからだ、しかし、とレモニカは混乱に見舞われ、己の不甲斐なさに頭を痛める。
今回のことを含め、ソラマリアには助けられてばかりだ。主として何一つ報いることができていない。ただソラマリアの敬愛する母ヴェガネラの娘という立場に甘んじているに過ぎない。
せめて何か、自身も役に立たなければ、と功に焦る気持ちが逸る。
「フシュネアルテさまたちの向かった方向とは別なのですか?」とレモニカは疑念を呈する。
「正確な方向はあっちだよ」とユカリは通りの伸びる方向から右斜めにずれた向きを指さす。
「だけど何でフシュネアルテに魔導書の位置が分かるの?」と今度はグリュエーが問いかける。「匂いをたどろうにもこの様子だとまだまだ他にも街中に料理が置かれているんじゃない?」
「たぶん昨日の、嗅ぐ者の力じゃないかな? 他に魔導書を手に入れてなければだけど」とベルニージュが答える。
「先に行く。ユカリ、もう一度正確な方向を指さしてくれ」とソラマリアに頼まれて、ユカリは指を指す。
救済機構においてもライゼン大王国においても第一の戦士だったソラマリアはそこにある家屋を軽々と駆けあがり、屋根伝いに魔導書目指して一直線に駆けて行った。
既に決着はついていた。遅れて到着したレモニカたちにソラマリアが淡々と報告する。煮炊く者というのがその使い魔の名だった。ソラマリアは単独でフシュネアルテたちの先を行き、ある食堂の厨房で料理を作り続けていた使い魔を捕らえた。レモニカたちよりは先んじていたシュネアルテたちによるとライゼンの兵士たちも料理に夢中になっていたらしい。
そして今、その食堂、賜物亭は創業以来最多の客を迎えていた。煮炊く者の味を忘れられない人々が殺到しているのだ。そして、騒々しい会話と品に欠けた咀嚼音、乱暴な食器のぶつかり合う音の中に不滅公ラーガもやってきた。
「なるほどな。先んじられてしまったか」ラーガは煮炊く者の封印を見つめて言う。「ならばせめてそいつの料理を食わせてくれ」
ラーガもライゼンの戦士たちも使い魔の料理に魅入られ、魔導書など二の次だという様子だ。
レモニカたち一行と不滅公ラーガ、そして賜物亭店主の間で交渉が始まる。
「うちは料金さえいただければ構いませんよ」と人の好さそうな店主は大らかに請け合う。「雇えないのは残念ですが」
「まあ、封印を渡さなくていいなら、いいよね? 私も食べてみたいし」とユカリも同意する。店主も多いに頷いていた。
「うむ。話を聞くに料理自体には魔法を使っていないというじゃないか。にもかかわらず何の説明も無しに道に置かれた料理に人々は魅了されていた」とラーガは使い魔の業に感心する。「俺も食べてみたかったんだ」
「お兄さまは食べていらっしゃらないのですか!?」とレモニカは声を裏返す。
「あんな怪しげなものに手を出す訳がないだろう」
レモニカは頬を赤らめ、その場からそそくさと退く。あの誘惑が自制心で何とかなるようなものだとは信じがたかった。
使い魔を使って料理をするのはソラマリアになった。ユカリもそれを手伝う。
ソラマリアはまるで踊るように厨房を行き来し、使い込まれた包丁や鍋等、調理器具を手足の延長のように使いこなし、ありとあらゆる食材を切って、砕いて、混ぜて、濾して、搾って、焼いて、茹でて、炒めて、揚げて、煮て、和えて、蒸して、焙って、燻して、漬けて、干して、盛りつけた。
気が付けば食堂は思い出のように輝かしく彩られ、憧れのように馨しい香りに満ち溢れ、さらには食堂の外までどこからか運び込まれた机が並び、料理が並べられている。
レモニカたち、大王国の戦士たち、屍使いたち――屍はいない――が食事をする中、次々に現れる客たちがどこかから運び込んで来たのだ。さすがにソラマリアの手には余った。しかし煮炊く者に条件付きで体を任せると、すぐにその人数にも対応してしまった。
「素晴らしいな、シャリューレ」とラーガが食堂で立ち働くシャリューレことソラマリアを労う。
「私の力ではありませんよ」とソラマリアは熟練の料理人さながら巧みな手を止めることなく答える。「全てはこの魔導書、煮炊く者の力です」
「いや、フシュネアルテの屍たちを蹴散らしながら魔導書を手に入れたらしいじゃないか。改めてお前ほどの戦士は大陸広しといえども他にはいないだろう。どうだ? 俺の騎士にならないか?」
「お兄さま!?」鴨肉の揚げ物に夢中になりながらも聞き耳を立てていたレモニカはグリュエーの姿で声を荒げる。「たとえお兄さまといえども聞き捨てなりませんわ! シャリューレはわたくしの騎士ですわよ!」
「お前の身には余ろうというものだ。呪いを解く旅の護衛が欲しければ俺がいくらでも貸してやろう」
「そもそもシャリューレ自身も……」と言いかけてレモニカは口を噤む。
ソラマリアがレモニカの呪いを解く旅に同行する理由の一つはソラマリア自身が呪いを運んだという負い目、罪悪感だ。そしてそのことは以前、互いに触れないことに取り決めたのだ。
「大陸一の剣士が守るほどの王女ではないだろう」とラーガは歯に衣着せず鋭い言葉を放つ。「俺に仕えればその腕がさらに磨かれるような活躍の場がいくらでもある。報酬も渋りはしない。何より、俺もまた、お前の愛するヴェガネラ王妃の子だ。尽くす価値は十分にあるだろう?」
レモニカは反撃の言葉を捻り出そうとするが躊躇われる。兄の言うことが間違っているとも思えなかったからだ。
自身はソラマリアに最も相応しい主ではないのかもしれないという予感が自覚に変わってしまった。母ヴェガネラと比べても、兄ラーガと比べても。
「そ、それでも! だとしても! わたくしはいずれソラマリアが仕えるに相応しい王女になるつもりです! 目指しています! だから!」レモニカはラーガからソラマリアの方へ、視線を真っ直ぐに向ける。「待っていて!」
ソラマリアは動かし続けていた手を止めて、レモニカの視線を真っ直ぐに真面目な表情で受け止める。
「もとよりそのつもりです。レモニカ様」