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風が存在感を増し、夕暮れが立ち去りつつあった。秋色に染まる木立は徐々に黒められ、歩みの遅い夜がようやく訪れようとしている。悪事を企む者ならば望むところであるようにレモニカたちの姿を闇に覆い隠していった。
十の瞳の見つめる先には黒衣の集団が野原で夜を過ごす野営の準備を進めていた。掛け合う声が僅かに聞こえるばかりで救済機構の僧侶たちは黙々と作業している。暗闇に隠れる者たちは息を潜め、禁欲的かつ克己的な修行の如き活気に欠けた営みの、観察に集中する。
ロムドラの町を発ったその夕時のことだった。
魔導書の気配を感知するユカリの力を頼りにロムドラの町を巡り、町とその周辺にはもう魔導書が存在しないことを確認すると一行は港町に別れを告げた。
フシュネアルテが所持している嗅ぐ者については保留した。競い合って手に入れた今までとは違い、フシュネアルテから魔導書を奪うということは事実上、屍使いたち、そして協力関係にあるターが王子、ひいてはライゼン大王国から魔導書を奪うということだ。そうしないという選択肢を選んだわけではないが、考えなしに対立するわけにもいかない。既に救済機構と決定的に対立したユカリたちにとって、物理的にも社会的にも逃げ場のない挟撃状態は避けたいところである。クヴラフワでの両国の均衡の上に生き延びた経験がその思いを強めた。
ユカリが新たな魔導書の気配を感じたのは町を発ったその昼だった。古い時代には大地を駆けまわったとされるも今や動かなくなった山々が、秋の控えめな陽光に背を押され、その影が在りし日の如く躍動し、背を伸ばし始めた頃、ユカリは街道の先に十以上の魔導書を感じ取った。その後、風の諜報によって、それが救済機構の僧侶たちだと確認する。ただし、焚書機関でもなければ、魔法少女狩猟団でもないようだった。近づいて観察はしない。グリュエーの力を知る者たちだからだ。
追い付く頃には夜が迫っているだろう。だから追おうという意見と、だから待とうという意見に分かれたが、議論の末、前者が選ばれた。レモニカは前者だった。そうして魔導書の気配を感知するユカリの力とグリュエーの妖術を頼りにして、木立や丘に身を隠しつつ集団に迫り、今に至る。
「どの辺りに魔導書があるのかお分かりになるのですか?」とレモニカは闇に沈むユカリの横顔に尋ねる。
「うーん。何となく、だね」ユカリは渋い顔をして答える。「個々の区別はつかないし、動いてるし。ひと固まりになってたら数えられない、ぼやっとした感じなんだ」
炊事の気配がする。白い煙が何本か立ち昇り、僅かに匂いも漂ってくる。
「そういえばソラマリア。煮炊く者封印を剥がした後も手際が良かったわね。お料理が出来るの?」
「ええ、レモニカ様の料理を作ったことも何度もあります。毒見の為に冷めた料理ばかりお召し上がりになるのが忍びなくて」
驚きの余り大きな声を出しそうになるのを堪える。「そんなの全然知らなかったわ。少しも素振りを見せなかったじゃない」
「ええ、まあ、私自身は料理も食事もあまり興味が無いので」
「……あ!」慌ててユカリは自身の口を塞ぐ。何かを見たらしい。ユカリは十分に躊躇ってから意を決して見たものを口にする。
「……聖女だ。本当に生きてたんだ」
皆が沈黙を堪え切れず、場がざわつく。確かに死を確認し、しかし生きているかもしれないという可能性が湧いていた。聖女の不確かだった生死が再び確定する。
レモニカも慌ててじっと目を凝らすがほとんど何も分からない。星明かりよりもささやかなちらちらと揺れる篝火と、穴蔵に潜むという妖精のような黒い人影が行き交う姿の他は判然としなかった。実際のところ、その距離から野営の様子が見えているのはユカリだけだった。梟のように夜目も利くのだ。
聖女アルメノン、あるいはライゼン大王国の王女リューデシア、レモニカとその母を呪った張本人であり、レモニカの姉でもある彼女はシグニカでの魔導書争奪戦の最中に死亡を確認していた。しかしレモニカさえ知らなかった複数の事実、母ヴェガネラが女神であったこと、ラーガを含め三兄妹は半神であること、そして条件付きの不死であることを知り、その事実はアルメノンの生存の可能性を示していた。
レモニカは恐る恐るソラマリアの横顔を盗み見る。下手な彫像のように変化はなく、その表情は冷静だ、いつもよりずっと。そしてその向こうのベルニージュの顔は燃え上がりかねない怒りを表していた。アルメノンはソラマリアの妹ネドマリアと共倒れしたはずだったのだ。片方だけ生き残る理不尽に許容しがたい感情が生まれるのはレモニカにも想像できる。
「しかし一体何をしに来たのでしょう?」レモニカはほとんど何も知らない姉の考えを想像する。「機構の長が自ら魔導書を探しに来るとは思えませんし」
「魔導書以外にも何か目的があるのかな。それこそクヴラフワでの巨人の遺跡みたいにさ」とグリュエーが推測する。
「ともかくレモニカの呪いを解くことを優先しよう」とユカリが言ってくれた。
「よろしいのですか?」
「もちろん。魔導書と違って聖女の気配は探れないからね。こんな好機が何度もあるか分からないし」
今はソラマリアに触れることで本来の姿に変身しているレモニカはできうるかぎり感謝を示す。「ありがとうございます。ユカリさま」
「この場で解呪って訳にもいかないし、聖女を攫うってことになるのかな」とベルニージュが物騒な言葉を何でもないかのように言った。
「じゃあ足が重要だね。ユビスを連れて来ないと」と言ってユカリが慎重に中腰のまま退く。
出遅れた、とレモニカは思ってしまう。魔法少女の力を失ってもユカリは自分にできることを常に考えているのだ。
「ユ、ユカリさまは魔導書に気を配らなくてはならないのでは? ユビスならばわたくしが連れて参りますわ」
「それもそうだけど、でも変身はどうするの?」
顔が火照るのを感じる。一人でいれば何に変身するか分かったものではないというのに。
「グリュエーの風を連れて行けばいいんじゃない?」とグリュエーが提案する。
最も近くにいる者の最も嫌いな生き物に変身するレモニカの呪いは、何故かグリュエーの最も嫌いな生き物をグリュエー自身と判定している。無生物に魂を分け与えられるグリュエーの妖術との組み合わせで、レモニカはグリュエーに変身できるという訳だ。
「ありがとう、グリュエー」レモニカは素直に感謝の言葉を述べたが、自分よりずっと若い少女に助けられて、ますます情けなく感じたことは心の内に秘める。
「じゃあ、お願いね、レモニカ、グリュエー」とユカリに託される。
レモニカは木立を戻り、少しばかり後悔する。まるで提案を横取りするようではなかっただろうか、と頭の中で無為な考えが巡る。暗闇から突如現れた枝に額を打たれ、そんなことで悩んでいる場合かと自身を叱責し、ユビスのもとへ急ぐ。
ユビスは暢気に草を食んでいた。その手綱を取り、更なる失敗に気づく。いつ戻ればいいのだろう。早ければ隠しきれないユビスの巨体によって救済機構に見つかり、遅ければ足の無い皆が捕まる。聖女を攫ったと同時に駆けつけなくてはならないのだ。そのことをそばにいるはずの風に伝える。
「たぶん大丈夫だよ。グリュエーに任せて」
レモニカは木立を回り込み、救済機構の野営の様子を遠くから見守る。先ほどまで隠れていた場所よりも遠いが、僅かながら夕陽を鬣に浴びて燃えるようなユビスの輪郭は目立つ。それ以上近づけば見つかってしまうだろう。おそらく日が暮れてからことは実行されるのだろうが、確信は持てない。
どうしたものかとやきもきしていると耳元で別の微風が囁いた。
「伝言だよ、レモニカ。日が暮れてから聖女に接触する。上手くいってもいかなくても逃げる時に火球で合図を出すよ」それだけ伝えると微風は凪いだ。
しばらくして動きがあったのは合図より前だ。僧兵たちが慌ただしく集まり始め、怒号も微かに聞こえる。さらにはベルニージュの魔術と思しき炎が野営を飛び回るが、しかし火球ではない。レモニカの落ち着かなさはユビスにも伝わり、共に急かされるような気持ちで前のめりになる。それでもベルニージュの判断を信じて待つ他ない。
レモニカが後に振り返ってみると、それほど長くはなかったはずだが、しかし水飴のように引き延ばされた時間を経て、ようやく火球が夜空に打ち上がり、グリュエーの姿のレモニカを乗せたユビスが駆け出す。
ソラマリアには奇跡的な肉体があり、グリュエーには風があるので最低限ユカリとベルニージュを拾って逃げる。そう繰り返し想像していた展開のどれとも違っていた。逃げ出していたのは救済機構の方だった。
ただし一人だけ使い魔が残っている。人の形ではあるが、切株か何かに貼り付けられたらしい木目の肌だ。
救済機構としては足止めのつもりだろうが、ユカリたちは確実に魔導書を一枚回収する選択をしたようだった。
「ごめん! レモニカ! 逃げられた!」とユカリが開口一番謝罪する。
「お気になさらず、目の前の魔導書に集中しましょう」
使い魔の下には広々と敷物が敷かれ、沢山の菓子が並んでいた。蜂蜜のたっぷりかかった揚げ菓子が甘やかな香りを漂わせ、貝殻を模した上品な焼き菓子が扁桃の香りを膨らまる。砂糖をふんだんに使った林檎の菓子が取り揃えられ、不思議な色合いの焼き菓子が濃厚で凝乳状な牛酪と爽やかな香草の香りで誘っている。
「また食べ物? 美味しさは認めるけどこんなので足止めになると思ってるの?」とベルニージュがうんざりした様子で焼き菓子の一つを頬張っていた。「美味しい!」
「嗚呼、お口に合ったようで良かった!」と使い魔が嬉しそうに手を叩く。「古今東西ありとあらゆる菓子を用意した甲斐があったというものです! 煮炊く者の失敗は差し詰め情報不足と言ったところでしょうか!?」
なるほど、それぞれ好みのお菓子を用意したということらしい、そう思ってレモニカが敷物を眺めると林檎を封じ込めた車厘があり、気が付けばユビスを降りて手を伸ばしていた。
もはや懐かしく感じる思い出の味わいが口いっぱいに広がる。甘みと酸味、歯応えある林檎と車厘の弾力の後に溶けて消える感触が幸福感を呼び起こす。気が付けば皆が、ユビスまでもが菓子を食し、幸いと喜びの解放されるような感情に満たされている。ただ一人、ソラマリアを除いて。
「私の好きな菓子は探り当てられなかったのか?」とソラマリアは寂しそうに尋ねる。
「貴女がこれまでに食べた菓子はできるだけ用意したつもりですが」使い魔はあからさまに狼狽え、言い訳するように言葉を返した。
「まあ、私も知らないのだから無理はない」とソラマリアは吐露した。