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二人の間に流れる空気は、かつての戦場のような緊迫感ではなく、どこか気恥ずかしく、それでいて厄介な熱を帯びていた。
復興が進んだ王都の一角。共に暮らす屋敷の縁側で、元貴はここ数日の滉斗の振る舞いに、明確な不満を募らせていた。
「……ねえ、ひろぱ。さっきから、僕が話しかけてるのに一度も目が合わないのはどうして?」
元貴が首を傾げ、覗き込むように顔を近づける。唐の紅を思わせる唇が、不満げに尖る。そのあまりの無防備さと、西日に照らされた翡翠の瞳の輝きに、滉斗は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「……別に。考え事をしていただけだ」
滉斗は視線を逸らし、立ち上がって部屋の隅へと移動する。
かつて数千の敵を前にしても微動だにしなかった彼の精神は、今、目の前で「可愛い」という暴力を無自覚に振りまく伴侶を前に、完全に決壊寸前だった。近すぎれば、そのまま抱きしめて理性を失ってしまう。自分を律するために取った「距離」だったが、それが仇となった。
「嘘だよ。昨日だって、僕が隣に座ろうとしたら、わざわざ反対側の席に座り直したじゃないか。……僕、何か嫌われるようなことした?」
元貴の声が、微かに震える。不安げに揺れる瞳を見て、滉斗は焦燥に駆られた。
「嫌われるわけがないだろう。……ただ、少し一人になりたい時だってあるんだ」
「一人になりたいなら、そう言えばいい! そうやって黙って逃げるのは、卑怯だよ」
元貴が立ち上がり、滉斗の胸元を掴んで詰め寄った。その距離、わずか数センチ。元貴から漂う花の術式の柔らかな香りが、滉斗の思考を麻痺させる。
「はっきり言ってよ。僕のこと、もう飽きたの? それとも、一緒にいるのが苦痛なの?」
「違う! 断じてそんなことじゃない!」
「じゃあ何!? 理由を言わないなら、僕、今日から別の部屋で寝るからね!」
その一言が、滉斗の防波堤を完全に粉砕した。最近やっと同じ部屋で寝られるようになったと言うのに。元貴が離れていくことだけは、死んでも耐えられない。
「……お前が、可愛すぎるのが悪いんだッ!」
静かな部屋に、滉斗の叫びが響き渡った。
「……え?」
元貴の手が止まり、ぱちくりと瞬きを繰り返す。滉斗は顔を真っ赤に染め、乱暴に頭を掻きむしりながら、吐き捨てるように言葉を続けた。
「お前が笑うたびに、あるいはその、……無防備に俺を呼ぶたびに、俺の心がどうにかなりそうなんだよ。このままじゃ、自分を抑えられなくなる。……だから、お前を守るために距離を取るしかなかったんだ」
沈黙が二人の間に降りた。
滉斗は羞恥心でその場を立ち去りたい衝動に駆られたが、元貴の反応が気になり、恐る恐る視線を戻す。
そこには、さっきまでの怒りはどこへやら、顔を耳の裏まで真っ赤に染め上げ、自分の口元を手で覆って震えている元貴の姿があった。
「……ひろぱ、それ、本気で言ってるの?」
「……嘘でこんな恥ずかしいことが言えるか」
「……っ。あ、あんまり、急にそういうこと言わないでよ……。心臓に悪いのは僕の方だよ……」
元貴は翡翠の瞳を潤ませ、視線を泳がせながら、小さな声で「馬鹿ひろぱ……」と呟いた。
怒っていたはずの彼は、今や羞恥の術式にかかったかのように、真っ赤な顔をして俯いている。
「……元貴」
「……何」
「別の部屋で寝る、という話は」
「……取り消し。でも、ひろぱがあんまり変な距離の取り方するなら、また喧嘩するからね」
元貴はそう言いながら、自分から滉斗の懐に飛び込んだ。滉斗はため息をつきながら、その愛おしすぎる質量を、今度は逃げることなくしっかりと腕の中に閉じ込めた。
平和な世の中になったというのに、元貴という名の「難敵」を前に、最強の剣士の心休まる日は、まだ当分先になりそうだった。
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