テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
神田の空を焦がしていた、悍ましくも神々しい黄金の光。
天界の軍勢が放つその威光が
瑞樹さんの剣先から解き放たれた蒼い奔流に、音を立てて飲み込まれていく。
それは、ただの水ではない。
私が必死に呼びかけた、江戸中に散らばる「八百万」の想いそのものだった。
「……瑞樹さん、みんなの声を、繋いで!」
私の叫びに呼応するように、店の煤けた火鉢
主を待つ柘植の櫛、路地裏の小さな祠に鎮座する石仏
名もなき道具や神々から立ち昇る、淡く、けれど確かな「祈り」の粒。
それらが天を衝く青い柱となり、瑞樹さんの背後で巨大な龍の影を形作った。
「……人の想いが、これほどまでに熱いとはな」
瑞樹さんの凛烈な声が、風に乗って江戸の隅々にまで響き渡る。
彼は天を指し、万物の王のような威厳をもって
一気にその腕を振り下ろした。
「鎮まれッ!」
その瞬間、江戸八百八町を飲み込もうとしていた大洪水が、まるで意思を持った巨大な生き物のようにピタリと動きを止めた。
荒れ狂っていた濁流は、一転して清らかな真珠のような輝きを放ち始める。水流は優しく大地に吸い込まれ、あるいは神田川の底へと、子守歌を歌うような静けさで戻っていった。
天界の軍勢は、その圧倒的な「慈愛の力」――力でねじ伏せるのではなく、包み込むような異質な神気に気圧され、雲の彼方へと退散していった。
嵐は、去った。
後には、雨上がりの湿った匂いと、雲の間から顔を出した澄み切った月夜。
そして、びしょ濡れになりながらも「生きてるぞ!」と互いの無事を確認し合う
町民たちの泥臭い歓声だけが、夜の帳に残されていた。
◆◇◆◇
戦いが終わったばかりの、『八百万堂』の店先。
瑞樹さんの体は、いまだ現実のものとは思えぬほど神々しい、白銀の光を纏っていた。
彼の頭上には、真の水神として再臨した証である透き通った光の輪が静かに浮かんでいる。
突如、裂けた雲の隙間から
地を震わせるような厳かな声が降り注いだ。
『瑞樹よ。貴様は八百万の力を束ね、災厄を退けた。その功績により、かつての罪を赦し、神の座への復帰を認める。……さあ、天へ戻るがよい』
その言葉と共に、瑞樹さんの輪郭が夜風に解ける霧のように少しずつ透けていく。
私は、彼と繋いでいた手の感覚が薄れていくのを見て、心臓が止まるかと思うほどの恐怖に襲われた。
神様に戻る。
それは、もう二度とこの埃っぽく、騒がしい江戸の土を踏むことはないということ。
古道具たちがこぼす身勝手な愚痴を聞くことも。
私の淹れた、出がらしのような安っぽい茶を飲んで微笑むことも……
すべて、永遠に失われるということだ。
「……瑞樹、さん」
声が、情けないほどに震える。
消えてしまいそうな彼の袖を掴もうとして───
けれど、私の指が彼を通り抜けてしまうのが怖くて、手は空中で止まったままだった。
瑞樹さんは、吸い込まれるような碧い瞳でゆっくりと天を見上げ
それから、慈しむような眼差しで私を振り返った。
その瞳に宿っていたのは、すべてを見通す神の鋭さではない。
あの日、激しい雨の中で出会った時と同じ
どこか心細げで、ひどく温かい人間味あふれる光だった。
「……断る」
瑞樹さんの静かな、けれど岩をも砕くような強い一言に、江戸の天が激しく揺れた。
『何を言う!神の座を捨て、朽ちゆく人の世に留まれば、貴様はいつか力を失う。ただの人間として醜く老い、死ぬことになるのだぞ。それでもよいというのか!』
「ああ。それで構わない。いや……それがいいのだ」
瑞樹さんは、迷いのない足取りで私に歩み寄った。
彼は自らの頭上に浮かぶ
永遠の象徴である光の輪を、まるでおもちゃを捨てるかのような無造作な手つきで払いのけた。
眩い白銀の装束が、見慣れた少し擦り切れた藍色の着流しへと戻っていく。
「俺は、高天原の冷たい玉座よりも、この埃っぽい古道具屋の縁側が好きだ。八百万の神々と語らい……何より、この娘が笑う顔を、一番近くで見ていたい」
瑞樹さんは私の震える手を、その大きな掌でしっかりと包み込んだ。
今度は、すり抜けない。
少しだけひんやりとしているけれど
確かにそこに血が通い「生きている」大好きな温度。
「……瑞樹さん、本当にいいんですか?神様じゃなくなっちゃうのに」
「ああ。神としての永遠よりも、お前との短い一生の方が、俺にはずっと価値がある」
彼は、かつてないほど悪戯っぽく笑い、私の額にそっと自分の額を寄せた。
もう、耳で聞く必要などなかった。
瑞樹さんの「心の声」が、温かな奔流となって、私の魂に直接流れ込んでくる。
(……愛している、さよ。もうお前を、ひとりにはしない。この命が尽きるその日まで、ずっとだ)
それから数日後
神田の町には、洪水のことなど遠い昔の出来事であったかのように、いつもの喧騒が戻っていた。
「おい、いつまで寝てやがる!昨日の雨で裏の井戸が溢れそうなんだ、さっさと水汲んでこい!」
「……やれやれ。神を引退したばかりの男に、主殿は相変わらず人使いが荒いな」
瑞樹さんは豪快に欠伸をしながら立ち上がり、水桶を肩に担いで井戸へと向かう。
かつて、たった一振りで川を割ったその手は
今ではすっかり薪を割り、水桶を運び
江戸の日常を支える「働く男の手」になっていた。
「お小夜ちゃん、これ瑞樹さんに!美味しいぼた餅ができたから、お礼にあげる!」
近所の子供たちが、袖を引いて集まってくる。
瑞樹さんは子供たちに囲まれ
困ったように苦笑しながらも、その碧色の瞳を優しく細めて頭を撫でていた。
ふと見れば、店先の「煤けた火鉢」が、満足げにパチリと炭を跳ねさせている。
「いい男を拾ったもんだ。なあ、お小夜。」
「…ふふ、本当にね」
物の声を聞く私の耳には
今日も江戸中の、泥臭くて、けれど愛おしい賑やかな音が聞こえてくる。
そして、その中心で。
井戸端から戻ってきた私の最愛の「用心棒」が、私を呼ぶ声がした。
「さよ、夕飯は何だ?なんだか、お前の作った味噌汁を飲まないと、一日が終わらない気分なんだ」
「ふふ、もう。瑞樹さんは、お味噌汁さえあれば幸せなんですから」
雨が降れば、彼は隣で静かに傘を差してくれる。
晴れれば、彼は隣で心地よい風を愛でてくれる。
江戸の空の下。
私たちの物語は、これからも八百万の神々と
そして何より瑞樹さんの深い愛に見守られながら穏やかに続いていくのだった。