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第33話:呪いを忘れた身体で、迎えに行く
議会を終え、焔が研究棟へと戻ったのは、日もとっぷりと暮れた頃だった。
いつもなら、重い扉を開ければ、薬草の饐えた匂いと共に、無愛想な出迎えの声が飛んでくる。今日も遅いですね、とでも言われるのだろう。そんな詰まらない予想を頭の隅に置きながら、焔は薄暗い渡り廊下を大股に歩いていた。
だが、扉を開けた先にあったのは、灯りの落とされた静かな部屋だった。棚に並ぶ薬瓶も、書きかけの処方箋も、いつもと変わらぬ位置にある。それなのに、部屋の主だけがそこにいない。その異様な静けさに、焔の足がぴたりと止まった。
「陛下ッ!」
縋りつくように駆け寄ってきたのは、青ざめた顔の椿だった。その顔色を見た瞬間、焔はすでに嫌な予感を覚えていた。
「……何があった」
「玲様が……お戻りになりません。城下のお梅という患者のもとへ、お一人で向かわれたきり」
「あ?」
「治療を終えた患者の中に、再発の症状が出ているという噂を耳にしたそうです。陛下の議会が長引いていたため、待つ間も惜しんで、供もつけずに……」
一瞬、頭の中が白く塗り潰された。次の瞬間には、焔はもう踵を返していた。
「馬を出せ。今すぐだ」
「陛下、せめて護衛を、装備だけでも整えてから――」
「うるさい。手間取っている暇はないと言っている」
焔の脳裏に、苛立ちと共に一つの光景が浮かぶ。噂を聞いて、居ても立ってもいられず、供も連れずに一人で駆け出していく後ろ姿。何度言い聞かせても、変わらないあの悪癖だ。忌々しい。あれほど、一人で出歩くなと言ったはずだった。
だが今、腹立たしさよりも先に立つのは、得体の知れない焦燥だった。うまく言葉にできない、腹の底が冷えるような感覚。それを苛立ちだと思い込むことで、焔はどうにか自分を保っていた。
○
正殿前に集まった廷臣たちが、単身で発とうとする焔の前に慌てて立ちはだかる。
「陛下、お一人でとは、あまりに無謀にございます! せめて手勢を整えてから――」
「うるさい。手間取っている暇はないと言っている」
「し、しかし……」
押し問答が続く中、静かな声が割って入った。
「……よろしいのではありませんか」
穏やかな声が、廷臣たちのざわめきをすっと制する。皆の視線が、人好きのする面持ちの宰相へと集まった。
「行かせてあげましょう。陛下のお心を、誰にも邪魔させてはなりません」
「宰相様、しかし陛下のお身にもしものことがあれば……!」
「案ずるより、陛下ご自身のご意思を尊重するのが、我らの務めでございましょう。……それに、これ以上の混乱を、宮中に広げるべきではございません」
焔は一瞬、玄安を睨みつけた。この糸目の狸が、何を考えているのか読めない。皇帝の意を汲んだ配慮なのか、それとも、この混乱を内々に収めたいだけの打算か。あるいは、皇帝の身に何が起ころうと、知ったことではないという、底の見えない冷たさか。
だが、今はそれを見極めている暇すら惜しい。
「……好きにしろ」
焔は玄安の思惑になど構わず、そのまま身を翻す。結果として、まともな装備も、供の一人もつけないまま、焔は単身、危地へと向かうことになった。
○
お梅の家に駆けつけると、扉は開け放たれたまま、部屋の中は争った跡で無残に荒れていた。
倒れた薬棚、割れた瓶。部屋の隅で震えるお篠の姿。
「陛下……! 姉の様子を診てくださっていた薬師様が、急に、覆面の男たちに……!」
「どっちへ向かった」
「わ、分かりません……。ただ、水路の下流の方へ、荷車で運ばれるのを……」
それだけ聞くと、焔はすでに駆け出していた。
水路沿いの道を進むにつれ、人気のない裏路地に、明らかに堅気ではない男たちの影がちらつき始める。物陰から躍り出た男が、匕首を突き出す。焔は最小限の動きでそれを躱し、峰打ちで沈黙させる――はずだった。
避けきれなかった一撃が、二の腕を浅く掠めた瞬間。ズキリ、という鋭い痛みに、焔は思わず眉を寄せる。
――待て。今、何を感じた。
痛みのはずがない。これまで、どれほど深く斬られようと、この身に痛みなど存在しなかったはずだ。訝しむ間もなく、次々と繰り出される刃を、焔は捌き続ける。一人を斬り伏せ、二人目の得物を弾き飛ばす。だが体勢を崩した拍子に足首を捻った瞬間、これまでにない鋭さで痛みが脳天まで突き抜けた。
「……ッ」
思わず漏れた呻き声に、焔自身が誰よりも驚いていた。痛みを感じない。それは、この身に刻まれた呪いであり、同時に唯一の取り柄だったはずだ。その絶対だったはずの前提が、今、音を立てて崩れ始めている。
そういえば、ここ最近は殺人衝動もかなり収まってきていた。薬の効能か。……今日は、治療を始めてから何日目だ。いや――
考えている場合ではない。玲の名を思い浮かべた瞬間、焔は痛みごと、全ての違和感を捩じ伏せた。残る敵を、一人、また一人と斬り伏せていく。刃を受けるたびに走る痛みを、怒りにも似た勢いで塗り潰しながら。
○
蔵の入り口を固めていた最後の数人を斬り伏せ、錆びついた扉を蹴破る。薄暗い蔵の中に広がっていた光景に、焔は一瞬、完全に息を止めた。
床一面に広がる、鮮やかな血だまり。その中心で、玲が力なく横たわっていた。
――何だ、これは。
玲の胸には、見たこともない太い金属の管が突き立てられ、管の先端から血液が勢いよく流れ続けていた。あの再生能力を持つはずの身体が、傷口を塞ぐことができずにいる。皮膚の下で肉体が再生しようと蠢く度に、それを押しのけるようにして、また血が管へと流れだしている。まるで、体に「出口」を、無理やり作られたかのように。
焔の頭の中が、一瞬、真っ白になった。次いで込み上げてきたのは、これまで感じたことのないほどの、冷え切った怒りだった。
誰が、こんな真似を――
我を忘れ、玲のもとへ駆け寄ろうとした、その刹那。
背後で、空気を裂く音がした。振り返る間もなく、鋭い衝撃が、焔の体を深々と貫いた。刃が、腹の奥深くまで達しているのが分かる。喉の奥から、鉄の味がこみ上げてくる。
焔はよろめきながらも刃を振り返らせ、最後の力で刺客を斬り伏せた。膝から、力が抜けていく。それでも、焔は倒れることなく、崩れ落ちるようにして玲の傍らに辿り着いた。
「……玲」
血の滲む手を、玲の胸に突き立った管へと伸ばす。
これを、抜けば――
迷いは一瞬だった。震える指に力を込め、焔は管を一息に引き抜いた。傷口から、どっと血が溢れ出す。だが、それと同時に、皮膚の下で再生の蠢きが、確かに奔り始めるのが見えた。
それを見届けたところで、焔自身の視界が、急速に暗くなっていく。
――これでいい。
焔は玲に覆いかぶさるようにして、そのまま意識を手放した。
コメント
1件
うわあ……玲のあの管、見た瞬間ゾッとしたよ。再生を無理やり止めるための装置って、発想がえぐい。それに何より、焔が初めて“痛み”を感じた場面が凄かった。呪いが解けていくのと、玲への想いがリンクしてる感じがして、切ないし熱い。最後の倒れ込み方、まるで焔自身も“人間”に戻る決意をしたみたいだった。続きが気になるなあ。