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第34話:差し出しかけた血、その覚悟
意識が戻った瞬間、まず私を襲ったのは、経験したことのないほどの重い倦怠感だった。
瞼を持ち上げるだけで、途方もない労力を要する。ようやく薄目を開けても、視界は霞んでいて、すぐ真上にあるはずの天井の木目さえ、像を結ぼうとしない。耳の奥で、自分の鼓動だけが、やけに大きく、重く響いている。まるで水底に沈められたまま、耳だけが水面近くにあるかのような、奇妙な感覚だった。
指先に力を込めてみる。動く。だが、鉛の塊でも縛りつけられているかのように重い。
(……体が、重い。これは、ただの疲労じゃない。貧血の症状だ)
自分の体を実験台にして生きてきた薬師としての勘は、こんな時にも律儀に働いてしまうものらしい。動悸、眩暈、四肢の重さ、思考の霞み。どれも、書物通りの症状だ。皮肉にも、その診断だけは、いつもと変わらぬ速さで下せた。
胸元に、鈍い痛みがある。震える指先でそこに触れると、まだ熱を持った、真新しい傷痕があった。塞がってはいる。だが皮膚の下はじんわりと熱を帯びていて、完治にはまだほど遠いことが分かる。
記憶は、断片的にしか蘇ってこない。拘束され、朦朧とする意識の中で、体の奥に何か硬いものを打ち込まれる感覚があった。焼けるような痛みと、絶え間なく流れ落ちていく血の感触。……あれは。
(思い出す必要はない。今、確かめるべきは、そんなことじゃない)
重い体を叱咤して、私はどうにか上半身を起こした。その瞬間、視界に飛び込んできた光景に、思考のすべてが凍りついた。
すぐ傍らに、焔が倒れていた。
腹部には、何かに深々と貫かれた痕がある。裂けた衣の下から覗く傷口は、生々しく開いたままだった。そこから今もなお、血が止めどなく流れ出し、床にすでに広がっていた血だまりを、さらに大きくしている。顔色は、これまで見たどんな時よりも白い。唇の色さえ、失われかけていた。
「陛下……!」
駆け寄ろうとして、体が大きくふらついた。それでも構わず膝をつき、震える手で首筋の脈を確かめる。弱い。速い。明らかに、失血によるものだ。
血の気が引くのを感じた。以前の陛下なら、多少の切り傷程度はあっても、ここまでの深手を負うことなどなかったはずだ。腹を貫いている、この貫通創は、恐らく剣による、大振りの一撃。それを、まともに受けたのか。
(……薬が、効いてきたせいだ)
痛みという感覚に、この人はまだ慣れていない。ここ最近、殺人衝動が沈静化していく様を、私はずっと近くで見てきた。あれは、体質そのものが変わり始めている証だ。無痛症が薄れれば、当然、痛覚も戻ってくる。これまでなら意にも介さず受け流していたはずの一撃に、初めて感じる痛みで一瞬でも怯んだのだとしたら――皮肉な話だ。
私の薬が効いてきたことで、この人は、かえって死に近づいている。
この期に及んで止まらない身体の震えを叱責しながら、私は焔の傷に手を伸ばした。何も当てられていない傷口は、脈打つたびに、新たな血をどくどくと溢れさせている。往診鞄は拘束された際にどこかへ失われ、手元にあるのは自分自身の着物の切れ端だけだ。
それでも構わず、裂いた布を丸めて傷口に押し当てる。だが、力を込めようとした瞬間、視界が大きくぐらりと揺れた。
(……いけない)
急に体を動かしたせいで、自分自身の血の巡りが追いついていない。立ちくらみだ。膝から力が抜けそうになるのを、歯を食いしばってどうにか堪える。額に、冷たい汗が滲んでいるのが分かった。
(私も、大概な状態のようね。けど、今は自分のことより、陛下の方が先)
もう一度、脈を確かめる。先ほどよりも、さらに弱くなっている気がした。焦りが、喉の奥までせり上がってくる。
「……玲、か」
その時、焔がわずかに目を開けた。掠れた声だった。
「陛下、喋らないでください。体力を、無駄に使わないで」
「……お前、顔色が悪いぞ」
「今、それを指摘している場合ですか!」
軽口を叩く余裕すらないはずなのに、それでも憎まれ口を返してくる。……この人らしい。
傷口を押さえる手に、さらに力を込める。だが、布はすぐに真っ赤に染まり、それでも血は止まらなかった。
(このままでは、間に合わない。圧迫だけでは、この出血は止まらない。何か、もっと確実な手段が――)
その時、脳裏に、一つの手段が浮かぶ。自らの血を与え、相手を「同族」変える禁じ手。
この血を分け与えれば、あるいはこの傷も塞がるかもしれない。だが、それは同時に、陛下を「同族」に変えることを意味していた。半妖として生きる苦しみを、私は誰よりもよく知っている。頭を割るような頭痛。渇きに苛まれる夜。人ならざるものとして向けられる視線。そのすべてを、この人に強いることになる。
(それに、正確には、何に変わるのかさえ、私自身分かっていない)
母の正体すら知らない自分の血が、いったい何を生み出すのか。良い方向に転ぶ保証など、どこにもない。そして拘束されていた間、あの金属の管によって、私はすでに大量の血を失っている。ここでさらに血を与えれば、私自身の命が危うい。
(下手をすれば、共倒れになる)
全身を悪寒が駆け抜ける。焼けるような痛みと、止めどなく流れ落ちていく血の音、消えていく体温。
「――死にたくない」
その想いが、あまりにも自然に、胸の奥から湧き上がってきたことに、私自身が一番驚いていた。
今まで、死ぬことなど何度も考えてきた。この身は、どうせ死なない。だから、死を恐れる感覚そのものが、私には縁遠いものだったはずだ。それなのに、今、初めて、私は「死にたくない」と思っている。
(……なぜ、今)
理由は、考えるまでもなかった。
今、失いたくないと思っているものが、目の前にあるからだ。
研究棟に積まれた書状の山。片付けても片付けても、また誰かが何かを持ってくる、あの煩わしくも満たされた日々。椿に頭を下げて教えを乞い、驚くほどの速さで身体が思い出していった、忘れていたはずの所作。菊の宴の夜、営業用ではない笑みが、自分でも気づかぬうちにこぼれた、あの瞬間。……そして、毎晩、隣で寝息を立てる、この人の存在。
それら全てを、まだ手放したくない。
だが、傍らで、焔の呼吸が、明らかに浅くなっていく。
(……選んでいる時間はない)
陛下が死ぬくらいなら、私が代わりに何を失っても構わない。それが本心かどうかを確かめている余裕すら、もう残されていなかった。
震える手で、自らの袖をまくり上げる。ふらつく視界の中、手首に浮き出た血管を探し当てた。
「……何を、する気だ」
薄れる意識の中、焔がかすれた声で問う。
「動かないでください。少し、痛いかもしれませんが……すぐに、楽になります」
「……おい。よせ」
焔が、残った力を振り絞るようにして、私の腕を掴もうとする。だが、その手には、もう抗う力は残っていなかった。掴んだはずの指が、力なく滑り落ちる。
「貴方の返事は、聞いてません」
震える手首を、自らの唇に近づける。
――これでいい。
覚悟を決め、私は自らの手首に、鋭く尖った犬歯を突き立てようとした。
コメント
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うわああ第34話読み終えたよ〜!!🌸 もうね、玲が「死にたくない」って初めて思うとこ、胸がぎゅううってなった😭💕 今までは自分どうなってもいいって感じだったのに、陛下を失いたくないって覚悟決めて手首噛もうとするラスト、やばすぎ!続きが気になりすぎてもういてもたってもいられないんだけど!? 繹尾ぴえんさんの心理描写、一つひとつが沁みる…✨