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春の匂い。少し甘くて、少し苦い。
嫌な思い出を頭の片隅に置きながら、俺は東京の街を歩いた。
あの日の言葉。
忘れたわけじゃない。
忘れられるはずもない。
でも、振り返ったら前に進めなくなるから。
「ここだよね、」
見上げた先にある、大きな校舎。
東京六奏音楽大学。
みことが今から入学する大学だ。
「変わるって決めたんや、頑張らな…」
子供っぽいところが嫌いだって言われた。
明るすぎるのも、無邪気なのも。
だから。
笑いすぎないように。
騒ぎすぎないように。
服も、話し方も、全部。
少しずつ、作り替えてきた。
本当の自分を、少しだけ隠して。
入学式を終え、学科ごとに集まり書類を貰いに行った。
知らない顔ばかり。
知らない声ばかり。
ここでは、過去を知ってる人はいない。
だから、やり直せる。
「音楽表現科どこだ…」
案内板を見ながら歩いていると、声をかけられた。
「おにーさんちょっといいー?」
「はい、なんですか…」
反射的に出た、淡々とした声。
昔みたいに、にこっと笑うことはなかった。
「いや迷ってるように見えたからさー」
「まあ俺も迷ってんだけど」
少し軽い調子の人。
でも、不思議と嫌な感じはしない。
「どこ行こうとしてます…?」
「音楽表現科」
「あ、一緒…」
「えまじ?」
「俺紫苑いるま、よろしく」
「黄瀬みことです、お願いします」
名前を言うとき、少しだけ背筋が伸びる。
新しい場所。
新しい自分。
「敬語やめよーぜタメだろ」
「うん」
少しだけ、気が楽になった。
「あ、あっちぽくね行こーぜ」
並んで歩き出す。
春の光の中で、
少しだけ、東京が遠く感じなくなった。
数週間後。
大学の空気にも、少しずつ慣れてきた頃。
「みことはよー」
「席取りありがと」
「別にええよ」
自然に名前を呼ばれる関係になっていた。
いるまは距離の詰め方がうまい。
気づいたら、隣にいるタイプだ。
「てか毎回思うけど服カッケーな」
黒基調のジャケット。
落ち着いた色味。
シンプルで、大人っぽい。
全部、選んで変えたもの。
「いるまくんもやろ」
少しだけ笑う。
昔みたいに、無防備には笑えないけど。
「まぁな」
いるまは軽く笑って、机に頬杖をつく。
「てか今度の音楽祭の曲できた?」
音楽祭。
この大学で一番大きなイベント。
「全然、行き詰まり中」
正直だった。
歌いたいものはある。
でも、形にしようとすると、
どうしても、あの人のことが浮かぶ。
「おれもー」
「部屋楽譜まみれにしてくっそ怒られた」
「彼氏さん?」
「そー」
軽い返事。
少しだけ、胸の奥がチクッとする。
「音楽祭来るんやっけ」
「友達と来るって言ってた」
「ふーん」
恋人がいる人。
それでも音楽に本気で、楽しそうで。
少し、羨ましかった。
「みことは恋人作らんの」
その質問に、答えはすぐ出なかった。
頭に浮かぶのは、東京じゃない景色。
夕焼けの屋上。
優しい声。
まだ、どこかに残ってる。
離れたはずなのに。
前に進もうとしてるのに。
「嫌いになった」って言われたのに。
それでも。
胸の奥に、ずっといる。
みことは少しだけ視線を落として、
「……今は、ええかな」
と、小さく答えた。
まだ、誰かの隣に立つ自分が、想像できなかった。
その日の夜。
部屋の机に向かう。
白紙の楽譜。
ペンを置く。
浮かぶのは、東京の景色じゃない。
笑ってた時間。
優しかった声。
最後の言葉。
「……未練、あるんやなぁ」
小さく呟いて、音を一つ書いた。
この曲は、きっと。
忘れるためじゃない。
前に進むためでもない。
まだ終わっていない気持ちを、
音にするための曲。
窓の外では、春の夜風が揺れていた。
そしてこの曲が、
数ヶ月後の音楽祭で、
ある再会を連れてくることを、
まだ、みことは知らない。