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レイチェルは
震える手で
心を落ち着けようと
湯呑を口に運んだ。
湯気がふわりと上がり
ほのかに香ばしい茶の香りが
鼻を擽る。
口に含めば
舌に染み込むような
柔らかな渋みと
心が落ち着くような
温かさが広がった。
アリアの過去。
時也の話を聞きながら
レイチェルは湯呑を持つ手を
ゆっくりと膝の上に下ろした。
それから暫くの間
レイチェルは
その湯呑を指にかけたまま
全く動かせなくなっていた。
今なら⋯わかる。
胸の奥で
何かが静かに軋んだ。
信じていたアリアに殺された
前世の絶望の記憶。
アリアを刺した時に
激しく流れるように感じた
悲しみも
苦しみも
憤りも⋯
どれもが
確かに自分のものでは無い筈なのに
まるで自らが
その劫火に灼かれる感覚を
味わったかのように
痛みが心に刻まれていた。
「⋯⋯時也さん」
レイチェルは
意を決して口を開いた。
「私にも⋯⋯
あなた方のお手伝いを
させてください⋯⋯っ!」
震える声が
絞り出すように漏れた。
「⋯⋯いえ
しなきゃいけないんです!
私の持っている力は⋯⋯っ」
何処か罪の意識に似た焦燥感が
喉に引っ掛かる。
レイチェルは俯き
湯呑を握りしめる指先に
力を込めた。
「存じ上げております」
時也の穏やかな声が
思いがけず早く返ってきた。
「⋯⋯え?」
顔を上げると
彼の鳶色の瞳が柔らかく細められた。
「貴女の力は
そのお姿を変えられる事⋯⋯」
「⋯⋯何で⋯知って⋯⋯?」
静かに語られる言葉に
レイチェルは息を呑んだ。
「きっとその力で
前世の貴女は⋯⋯
魔女達をずっと
人間の脅威から
護ってきたのでしょうね」
「⋯⋯え⋯?」
呆然とした声が漏れた。
レイチェルは
ずっと⋯この力が
呪いだと思っていた。
気紛れに顔が変わり
気付けば
自分の本当の顔すら思い出せない。
誰とも深く関われず
何者でもない存在として生きてきた。
それなのに⋯⋯
「⋯⋯護る為の⋯力⋯⋯」
時也の言葉が
胸の奥にそっと落ちた。
何処かに張り付いていた
黒い染みが
溶けて消えていくような感覚だった。
ー自分は⋯もしかしたら
誰かを守る為に
生まれたのかもしれないー
その思いが
初めて自分の存在に
価値を与えた気がした。
「⋯⋯ありがとうございます」
ぽつりと零した声は
驚く程に静かだった。
「⋯⋯でも⋯」
レイチェルの視線が
知らぬ間に下へと向いていた。
あの紙。
喫茶店でソーサーの下に挟まれていた
『あなたの仲間は近くにいる』
と記された紙の事が
今さらながらに頭に浮かぶ。
誰にも言わなかった筈の不安が
どうして知れたのか。
それだけではない。
今こうして
言葉にしようとした思いを
時也はまるで見抜いていたかのように
先回りするように答えていた。
ーもしかして⋯ー
「⋯⋯時也さん
もしかして、あなたは⋯⋯」
言いかけたその瞬間──
「はい」
時也は
柔らかい笑みを浮かべたまま
静かに頷いた。
「お察しの通り
僕には人の〝心が読めます〟」
「⋯⋯っ!」
言葉を失い
レイチェルは唇を噛んだ。
ー人の心が読めるー
知られていたのだ。
自分が何を考え
何に怯え
何に苦しんでいるのかを。
「僕はこうやって
悩みを解決し
噂を流し
孤独に迷う
魔女の魂を宿した方々を
集めているのですよ」
時也はまるで
日常の何気ない話でもするかのように
静かに語った。
「⋯⋯噂を?」
「はい⋯
喫茶桜に来る方々が
店の中で〝悩み〟を強く願った時
僕はその想いに耳を傾けるんです」
「⋯⋯っ」
喫茶店に不釣り合いな程
しっかりと施された防音措置。
あれは⋯もしかしたら
店内の人間の
心の声を拾う為に
施されたものだったのだろうか?
レイチェルの指が
無意識に震えた。
言わずとも伝わる思考。
心の中を覗かれているような
この妙な感覚。
(どの程度⋯心の声が⋯⋯伝わるんだろう?)
言い知れぬ不安が
再びレイチェルの背筋を駆け上がる。
「⋯⋯怖がらせてしまい
申し訳ございません。
貴女の恐れも困惑も⋯⋯
全部⋯伝わっていますよ」
不意に
時也の手が再び背を撫でた。
その温かさは
まるで迷子の子供をあやす親のような
穏やかな温もりだった。
「ごめんなさい。
僕はただ⋯⋯
アリアさんを助けたいだけなんです」
その言葉が
どこか寂しげに聞こえたのは
きっと気の所為では
無いのだろう。
「はっ!」
不意に響いた声は
皮肉めいた抑揚を帯びていた。
次の瞬間
音もなく窓が開き
ふわりと何かが飛び込んでくる。
レイチェルの目は
飛び込んできた影を捉えた。
あのウェイターだ。
ダークブラウンの
癖のある髪を跳ねさせ
琥珀色の瞳を細めた
ぶっきらぼうな男。
「よく言うなぁ⋯⋯時也?」
男は窓の縁に片足を掛け
もう片方の足は窓の外で
まるで其処に床でもあるかのように
安定した姿勢をとっていた。
風に吹かれるカーテンが
彼の後ろで揺れ
窓の外には月が鈍く光を放っていた。
レイチェルは
その窓の向こうに目をやり
思わず息を呑んだ。
(⋯⋯こんな高さ
外から窓を乗り越えて来るなんて⋯⋯)
ー有り得ないー
窓から見える景色は
割と高さがあるように見える。
見える街灯の様子から
此処が一階では無い事は
明らかだった。
(⋯この人、今⋯⋯飛んだの?)
思考が追いつかず
言葉が出ない。
「まだ嬢ちゃんが⋯⋯
記念すべき〝第1号〟だろうが?」
男は口の端を釣り上げ
皮肉めいた笑みを浮かべていた。
「貴方⋯⋯
女性の部屋に入る時は
ちゃんとノックと
お伺いをたてるものですよ?」
時也が深くため息を吐きながら
溜め息混じりに言う。
「礼儀の躾直しが⋯⋯必要ですね?」
レイチェルは
そんな二人のやり取りを
呆然と見つめた。
「はいはい」
男は面倒くさそうに
手をひらひらと振った。
「どーせ俺は
躾もなってねぇ
野良犬様ですよっと」
口調は軽く
投げやりな言葉の端々に
何処か不機嫌さが滲んでいた。
「店の血溜まり
掃除終わったから
アリアと青龍を迎えに来てやったぜ」
男が投げかけた言葉に
レイチェルの呼吸が止まる。
血溜まり⋯⋯
さっきのあの惨劇を
何とも思わないかのように
男は当然のように口にした。
ー掃除終わったー
その言葉が
あの出来事が夢ではなく
紛れもない現実であった事を
突きつける。
男の服の端々には
点々と赤黒い血の痕が
こびり付いていた。
乾いて黒ずみ
部屋に既に
鉄臭さが漂い始めている。
(⋯⋯やっぱり、あれは⋯っ)
夢ではなかったのだ。
傷ひとつ無いアリアの存在で
忘れかけていたが⋯⋯
手の平に蘇る
ナイフを握った感触。
肉を裂く嫌な音と
指先にまで伝わる
血のぬるりとした感触。
喉の奥が苦くなり
胃が軋み出す。
(⋯⋯私⋯本当に⋯彼女を⋯⋯刺した)
レイチェルは
言葉にならない声を飲み込んだ。
自分の手で
彼女を刺したのだ。
目の前の男の服に
染み込んだ血は
その事実を残酷に物語っていた。