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第十六話 狩月の矢、獲物ではない者
衛宮邸の夜は、いつもより早く静かになった。
豊穣の層を越えた後、イリヤの身体には確かな変化が起きていた。
胸の奥に宿った黄金の種。
豊穣神デメテルが授けた、命を生者側へ根づかせるための小さな核。
それは劇的な奇跡ではなかった。
イリヤが突然、完全な肉体を得たわけではない。
過去が消えたわけでもない。
死んだ事実がなかったことになったわけでもない。
けれど、彼女は少しだけ長く起きていられるようになった。
少しだけ多く食べられるようになった。
そして、少しだけ自分の明日について話せるようになった。
「明日は、卵焼き作りたい」
夕食の後、イリヤはそう言った。
士郎は洗い物をしながら振り返る。
「いきなり卵焼きか。難しいぞ」
「お兄ちゃんなら教えられるでしょ」
「まあ、教えるけど」
「じゃあ決まり」
イリヤは少し得意げに笑った。
その笑顔を見て、士郎の胸は温かくなった。
食べたい。
作りたい。
明日もやりたい。
それらは小さな願いだ。
けれど、神杯が奪おうとしているものは、きっとそういう小さな願いの積み重ねなのだと士郎は思う。
黒い杯は空に浮かび、巨大な願いばかりを見ている。
生き返りたい。
世界を変えたい。
失ったものを戻したい。
神を越えたい。
だが、人が生きるのは巨大な願いだけではない。
明日の朝、誰かにおはようと言うこと。
台所に立つこと。
失敗した卵焼きを笑うこと。
それだって、確かな願いだ。
イリヤは眠る前、廊下の端から振り返った。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「おやすみ」
士郎は笑った。
「おやすみ、イリヤ」
その言葉を言えたことを、士郎は少しだけ噛みしめた。
だが、その夜。
月が、弓を引いた。
◆
最初に異変に気づいたのは、メドゥーサだった。
彼女は縁側に立ち、夜空を見上げていた。
月が妙に明るい。
満月ではない。
だが、月光だけが鋭すぎる。
まるで光そのものが、何かを探している。
「サクラ」
メドゥーサが低く呼ぶ。
隣にいた桜が顔を上げた。
「ライダーさん?」
「月を見ないでください」
桜がすぐに視線を下げる。
その直後。
月光が一本の矢になった。
音はなかった。
夜空から落ちた銀の矢は、衛宮邸の結界を通過し、廊下を抜け、士郎の右手とイリヤの胸元へ同時に届いた。
刺さったわけではない。
傷はない。
だが、二人の身体に銀色の紋様が浮かぶ。
標的印。
士郎の右手に、月の弓を模した印。
イリヤの胸元、豊穣の種の近くに、銀の矢羽の印。
凛が飛び起きるように居間へ駆け込んだ。
「何今の!?」
メディアもすぐに術式を展開する。
「標的化よ」
「標的化?」
士郎は右手を見る。
印は痛くない。
だが、ぞっとするほど冷たい。
まるで自分の位置が、世界そのものに知られている感覚。
イリヤも胸元を押さえている。
「見られてる……」
彼女は小さく呟いた。
「隠れても、分かるって感じがする」
凛は宝石板を展開する。
警告が赤く点滅していた。
「狩猟神の反応、活性化。標的は二名。衛宮士郎とイリヤスフィール」
アーチャーが弓を作りながら言う。
「予想通りだな。神杯は鍵と種を潰しに来た」
アルトリアはすでに鎧姿になっていた。
「敵はどこですか」
凛は宝石板を見る。
「冬木北部の森。月光が異常収束してる。そこに狩猟神アルテミスと、そのマスター反応」
イリヤが顔を上げる。
「逃げたら?」
凛は少しだけ表情を曇らせる。
「逃げても追ってくる。標的印がある限り、月が見える場所では居場所を捕捉される」
メディアが続ける。
「建物に隠れても無駄ね。月光の意味が通る場所なら矢は届く。物理的な遮蔽では防げない」
士郎は拳を握る。
「じゃあ、どうすればいい」
メディアは冷静に答えた。
「狩猟の層へ入って、標的印の意味を変えるか、狩猟神に狩りをやめさせる」
「意味を変える?」
「標的である限り、あなたたちは獲物。獲物は追われる。狩られる。逃げるほど狩猟の規則に深く組み込まれる」
凛が険しい顔で言う。
「つまり、ただ逃げるだけじゃ駄目。狩りのルールそのものを崩さないと」
イリヤの手が震えていた。
士郎はその前に立つ。
「イリヤは俺たちが守る」
イリヤは士郎を見た。
そして、少しだけ首を横に振った。
「守ってもらう。でも、私も行く」
「危険だ」
「私が標的なんでしょ。私がいないところで、私の印は消せないと思う」
士郎は言葉に詰まる。
イリヤは続けた。
「それに、私、もうただ隠れてるだけは嫌」
黄金の種が淡く光る。
「生きるって決めたばっかりなのに、最初から逃げてばっかりは嫌」
士郎はしばらく黙っていた。
やがて、頷く。
「分かった。でも絶対に無理はするな」
「うん」
その瞬間、庭から明るい声が響いた。
「逃げるなら、僕の出番かな!」
全員が振り返る。
庭に、白い翼を持つ幻獣が着地していた。
ヒポグリフ。
その背に乗っているのは、桃色の髪を揺らす騎士。
アストルフォ。
クラス、漂流者。
そして隣には、金髪の少女が優雅に立っていた。
ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト。
彼女は凛を見るなり、にこやかに微笑んだ。
「ごきげんよう、遠坂さん。ずいぶん賑やかなお屋敷ですこと」
凛のこめかみが引きつる。
「ルヴィア……このタイミングで来る?」
「このタイミングだから来ましたの。狩猟の層なら、移動と撹乱が重要でしょう?」
アストルフォはにこにこと笑う。
「追われるなら、まずは楽しく逃げよう! 逃げるのって、悪いことじゃないからね!」
士郎は少しだけ面食らった。
だが、その言葉は今夜の戦いに必要な気がした。
逃げることは恥ではない。
ただ、逃げるだけで終わってはいけない。
◆
冬木北部の森は、月に沈んでいた。
木々の葉は銀色に光り、地面には無数の影が走っている。
森全体が、巨大な狩場になっていた。
足を踏み入れた瞬間、士郎の右手の標的印が強く光る。
イリヤの胸元の印も同時に輝いた。
森の奥から、狼の遠吠えのような音が聞こえる。
いや、狼ではない。
月光で作られた猟犬たち。
木々の間から、銀色の獣影が現れた。
牙は光。
脚は風。
目は月。
それらは士郎とイリヤだけを見ていた。
凛が宝石を構える。
「来る!」
猟犬たちが一斉に駆け出す。
セイバーが前へ出る。
不可視の剣が月光の獣を弾き飛ばす。
ランスロットが横から黒剣を振るい、別の猟犬を押し返す。
メドゥーサの鎖がイリヤの周囲を囲み、桜が影で足元を守る。
ジャンヌの旗が白い防壁を張る。
アーチャーは月光の猟犬の進路を狙い撃ち、ギルガメッシュは不快そうに宝具で森の奥の支点を撃ち抜いた。
「獣風情が我の視界で吠えるな」
エルキドゥの鎖が森全体に広がる。
「これは本物の獣じゃない。月光に狩猟の意味を与えられたものだ」
リチャードが剣を抜きながら笑う。
「つまり、狩りの物語そのものが襲ってくるわけか!」
アストルフォはヒポグリフで士郎とイリヤの周囲を旋回する。
「士郎! イリヤ! 走って!」
「どこへ!」
「まずは分からない方へ!」
「それ答えになってるのか!?」
「狩人は道を読む! だから読めない道へ行く!」
その言葉に、士郎は反射的に走り出した。
イリヤの手を取る。
しかし、ただ引っ張るのではない。
「走れるか」
「うん!」
イリヤは短く答える。
彼女の足取りはまだ不安定だ。
だが、黄金の種が淡く光り、彼女の身体を支えている。
森の中、月光が矢となって降る。
士郎は投影する。
盾。
だが完全な盾ではない。
月光を反射させるための薄い鏡のような防具。
矢が盾に触れ、進路を逸らす。
アーチャーが後方から叫ぶ。
「足を止めるな! 標的印は停止した獲物を優先する!」
「分かった!」
士郎は走る。
イリヤも走る。
ただ逃げるのではない。
自分の足で。
森の奥、銀色の開けた場所に、女神が立っていた。
アルテミス。
狩猟神。
銀の髪。
月の瞳。
白銀の狩衣。
手には細い弓。
その姿は美しく、静かで、どこか人間から遠い。
彼女の隣には、黒髪を短く切った少女が立っていた。
草薙ミオ。
無表情に近い顔。
だが、その瞳には鋭い孤独がある。
ミオの右手には、月の矢を模した神紋が浮かんでいた。
アルテミスは弓を構えたまま言った。
「標的、到達」
士郎はイリヤを背に庇う。
アルテミスの瞳が細くなる。
「衛宮士郎。イリヤスフィール。神杯の鍵と、豊穣の種。狩猟対象として認定されています」
「神杯に命令されてるのか」
士郎が問う。
アルテミスは静かに答える。
「神杯は狩りを求めています。育った命を狩り、核へ戻すために」
イリヤが顔を強張らせる。
「私を、刈り取るの?」
「狩る、という表現が正しい」
アルテミスの声には悪意がない。
だからこそ、冷たく聞こえた。
ミオが口を開く。
「狩りは、残酷なだけじゃない。森では、追うものと追われるものがいて、命が回る。アルテミスは、それを守る神」
凛が追いつき、鋭く言う。
「なら神杯の狩りは違うでしょ。あれは命を回すんじゃなくて奪って燃やすだけ」
ミオの表情が少し揺れる。
アルテミスは月の弓を下ろさない。
「それでも、標的は標的。狩猟が始まった以上、獲物は走り、狩人は追う」
士郎は右手の印を見る。
確かに、自分たちは獲物として定義されている。
森がそう認識している。
月がそう見ている。
猟犬がそう嗅ぎ取っている。
このままでは、何度逃げても追われるだけだ。
アストルフォがヒポグリフから飛び降り、明るく言った。
「ねえ、それってつまらなくない?」
アルテミスの視線が彼へ向く。
「何がです」
「獲物は逃げるだけ。狩人は追うだけ。結末が最初から決まってるなら、それは冒険じゃないよ」
ミオが眉をひそめる。
「狩りに冒険は必要ない」
「必要だよ!」
アストルフォは胸を張る。
「逃げる方にも、どこへ行くか選ぶ自由があるんだから!」
その言葉に、イリヤが小さく反応した。
どこへ行くか。
逃げるだけではなく、向かう場所を選ぶ。
士郎もその言葉を掴んだ。
標的印は、自分たちを獲物にする。
獲物は狩人から逃げる存在。
なら、獲物でなくなればいい。
逃げるために走るのではなく、行きたい場所へ走る。
それは似ているようで違う。
士郎はイリヤを見る。
「イリヤ。行きたい場所、あるか」
イリヤは一瞬戸惑う。
「え?」
「逃げたい場所じゃなくて、行きたい場所」
イリヤは胸元の豊穣の種を握った。
そして、少しだけ考える。
「衛宮邸」
「戻る場所か」
「うん。でも、ただ戻るんじゃなくて」
イリヤは士郎を見た。
「明日の朝、卵焼き作る場所」
士郎の胸が熱くなる。
「分かった」
彼は右手の標的印を見た。
月の弓の紋様が冷たく光っている。
「俺もある」
士郎は空を見上げる。
「神杯の核へ行く。願いを奪われたやつらに、願いを返すために」
標的印が揺れた。
凛がそれに気づく。
「印の出力が乱れた……?」
メディアが目を細める。
「標的の意味が変わりかけている。獲物から、目的地を持つ者へ」
アルテミスの弓がわずかに下がる。
「獲物が、自ら行き先を定める」
ミオが小さく呟く。
「そんなの、狩りじゃない」
士郎は頷いた。
「ああ。俺たちは狩られるために走ってるんじゃない」
イリヤも一歩前へ出る。
「私は、明日の朝に行く」
その言葉に、豊穣の種が淡く輝いた。
地面から小さな芽が出る。
森の狩場に、黄金の芽。
それは逃げるための足跡ではない。
根を張るための印だった。
アルテミスの月光が揺らぐ。
狩猟の層は、獲物を追うための神域。
だが、イリヤは獲物ではなく、生きるための根を示した。
士郎は投影する。
剣ではない。
標的札を剥がすための、小さな鏃。
矢を殺すためではない。
矢の向きを変えるためのもの。
「投影、開始」
士郎の手に、銀と鉄の混ざった不完全な鏃が生まれる。
アーチャーがその横に立った。
「撃つのか」
「ああ」
「弓は?」
「ない」
アーチャーは呆れたように息を吐いた。
「本当にお前は」
彼は弓を差し出す。
「使え」
士郎は一瞬驚き、それから頷いた。
「助かる」
アーチャーの弓に、士郎の鏃を番える。
狙うのはアルテミスではない。
自分たちの標的印でもない。
月と標的を結んでいる、見えない狩猟線。
凛が宝石でその線を可視化する。
メディアが術式で一瞬だけ固定する。
エルキドゥの鎖が月光の猟犬を縛る。
ジャンヌの旗がイリヤを守る。
セイバーとランスロットが前方の矢を弾く。
メドゥーサと桜が影で足元を守る。
アストルフォがヒポグリフで月光の軌道を乱す。
ギルガメッシュは宝具で森の狩猟支点を撃ち抜く。
「雑種。外せば笑うぞ」
士郎は弓を引く。
「外さない」
アーチャーが小さく言う。
「なら撃て」
士郎は矢を放った。
銀の鏃が月光の線へ飛ぶ。
だが、アルテミスが動いた。
狩猟神の矢が士郎の矢を撃ち落とそうと放たれる。
その瞬間、ミオが叫んだ。
「アルテミス、待って!」
アルテミスの矢がわずかに逸れる。
士郎の矢は月光の狩猟線へ届いた。
線が震える。
標的印が激しく輝く。
士郎の右手が焼けるように痛む。
イリヤも胸を押さえる。
だが、二人は立っていた。
イリヤは震えながら言う。
「私は、獲物じゃない」
士郎も続ける。
「俺たちは、行き先を選ぶ」
鏃が狩猟線を裂いた。
標的印に亀裂が入る。
だが完全には消えない。
神杯が、森の奥から黒い狩猟影を生み出した。
巨大な鹿のような影。
角は黒い枝。
目は神杯の赤。
身体には無数の矢が刺さったような紋様。
それは狩られるものではない。
神杯が作った、狩りそのものの怪物。
黒い狩猟影は咆哮し、アルテミスへ向かって黒い根を伸ばした。
凛が叫ぶ。
「神杯がアルテミスを強制接続しようとしてる!」
アルテミスの身体に黒い紋様が走る。
狩猟神は顔を歪めた。
「神杯……狩りを、汚すか」
ミオがアルテミスへ駆け寄る。
「アルテミス!」
黒い根がミオにも伸びる。
彼女の神紋が強制的に光る。
神杯はミオの願いも利用していた。
見失いたくない。
大切なものを逃したくない。
もう二度と、手の届かない場所へ行ってほしくない。
その願いが、狩猟の標的化へ変えられていた。
ミオは震えながら言った。
「私は……探したかっただけ。見失いたくなかっただけ。狩りたかったわけじゃない」
アルテミスは彼女を見る。
その瞳に、初めて人間的な迷いが浮かんだ。
「ミオ」
「やめよう、アルテミス」
ミオは神紋の痛みに耐えながら言った。
「見つけることと、追い詰めることは違う」
その言葉が、狩猟神の中に届いた。
アルテミスは弓を構える。
今度は士郎にもイリヤにも向けない。
黒い狩猟影へ。
「狩りとは、命を侮辱する行為ではない」
月光が弓に集まる。
「獲物を定めるなら、その命に敬意を払う。逃げ道を奪い、願いを燃やすだけのものは、狩りではない」
アルテミスの矢が輝く。
「それは、ただの略奪です」
矢が放たれた。
月光の矢は黒い狩猟影の角を射抜いた。
同時に、士郎とイリヤの標的印がさらに砕ける。
セイバーとランスロットが前へ出る。
黒い狩猟影の突進を二本の剣で受け止める。
リチャードが横から斬り込み、イスカンダルの戦車が森を駆け抜けて影の進路を乱す。
ギルガメッシュの宝具が黒い根を撃ち抜き、エルキドゥの鎖が影の脚を縛る。
メドゥーサが月下で疾走し、桜の影が足元から神杯の根を絡め取る。
ジャンヌの旗がミオを守り、凛とメディアが神杯の強制接続を断つ術式を重ねる。
アーチャーが士郎へ言う。
「もう一射だ」
「ああ」
士郎は再び弓を引く。
今度はイリヤも手を重ねた。
士郎が驚いて見る。
「イリヤ?」
「私も、行き先を選ぶ」
豊穣の種が光り、士郎の鏃に金色の筋が入る。
それは命の根。
獲物として追われる印ではなく、帰る場所へ繋がる道。
士郎とイリヤは同時に言った。
「明日へ」
矢が放たれた。
銀と金の矢が、黒い狩猟影の中心を貫く。
影は砕けた。
月光に溶け、森へ還っていく。
神杯の黒い根が一斉に引いていく。
士郎の右手の標的印が消える。
イリヤの胸元の矢羽も、豊穣の種の光に溶けて消えた。
◆
森に静けさが戻った。
月はまだ明るい。
だが、もう冷たい視線のようには感じなかった。
アルテミスは弓を下ろした。
その表情には疲労がある。
ミオは彼女の隣で膝をつき、息を整えていた。
凛が近づく。
「神杯との接続は切った。でも完全じゃない。まだ狩猟の層の残滓は残ってる」
メディアが頷く。
「けれど、標的印は解除されたわ。士郎とイリヤを直接追跡する術式は消えている」
士郎は右手を見た。
そこにあった冷たい印はもうない。
イリヤも胸元を押さえ、ほっと息を吐く。
「私、獲物じゃなくなった?」
アストルフォが笑顔で親指を立てる。
「最初から獲物じゃないよ。ちょっと神杯が勝手にそう呼んでただけ!」
イリヤは少し笑った。
「そっか」
アルテミスがイリヤへ近づく。
士郎が警戒するが、彼女は弓を持っていなかった。
狩猟神は静かに頭を下げる。
「あなたの命を、獲物として見ました。謝罪します」
イリヤは戸惑った。
「神様って、結構謝るんだね」
桜が小さく笑う。
「最近、多いですね」
アポロンの時もそうだった。
神々は完全ではない。
いや、完全に見えるからこそ、人間の細かい痛みを見落とすことがある。
アルテミスは続けた。
「あなたは逃げるだけの命ではありません。根を張り、明日へ向かう命です」
イリヤは胸の種に触れる。
「うん」
ミオが士郎に向かって言った。
「ごめんなさい」
士郎は彼女を見る。
ミオは視線を落とす。
「私は、見失いたくなかった。大切なものを。だから、どこにいても分かる力が欲しかった。でも、それが誰かを追い詰める力になるって、考えてなかった」
士郎は少しだけ考えた。
そして言う。
「大切なものを見失いたくないって気持ちは、悪くないと思う」
ミオが顔を上げる。
「でも、見つけることと、捕まえることは違う」
ミオは小さく頷いた。
「うん。分かった」
アルテミスは夜空を見上げる。
「狩猟の層は開かれました。神杯の核へ至る道は、また一つ深まるでしょう」
凛が宝石板を確認する。
「確かに、接続路が安定してる。これで狩猟の層も突破」
ギルガメッシュが退屈そうに言う。
「ようやく終わりか。森は湿っぽくて好かん」
エルキドゥが微笑む。
「でも、君けっこう正確に援護してたよ」
「当然だ。我の視界で勝手に獲物を決める不敬を許さなかっただけだ」
リチャードが笑う。
「英雄王殿は今日も分かりにくい!」
ギルガメッシュが睨む。
「斬るぞ、獅子心」
「それは困る!」
その軽いやり取りに、少しだけ空気が和らいだ。
◆
衛宮邸へ戻ったのは、深夜を過ぎてからだった。
イリヤは疲れ切っていたが、寝る前に台所へ向かった。
士郎が慌てて止める。
「今日はもう休め。卵焼きは明日でいい」
「うん。分かってる」
イリヤは冷蔵庫の前で振り返る。
「ただ、卵があるか確認したかっただけ」
士郎は一瞬黙り、それから笑った。
「あるよ。ちゃんと」
「よかった」
イリヤは安心したように頷いた。
「じゃあ、明日作れるね」
「ああ」
「お兄ちゃん」
「何だ」
「私、明日に狙いを定めた」
士郎は少し驚いて、それから柔らかく笑った。
「そういう使い方ならいいな」
「うん」
イリヤは眠そうに目をこすりながら言った。
「おやすみ」
「おやすみ、イリヤ」
彼女が部屋へ戻るのを見届けてから、士郎は空を見上げた。
黒い神杯の亀裂はさらに深くなっている。
終末。
祝祭。
裁き。
愛憎。
創造。
死。
王権。
月影。
豊穣。
狩猟。
十の層を越えた。
神杯の核は、もう遠くない。
だが、その奥から新たな反応が浮かび上がる。
凛が廊下の向こうから宝石板を持って現れた。
「士郎」
「次か」
「ええ」
凛の表情は険しい。
「雷の反応。王権の層でゼウスは退いたけど、雷帝の残した雷霆の欠片が神杯に吸われてる。それと、サーヴァント反応」
アーチャーが壁際から言う。
「槍兵か」
凛は頷いた。
「クー・フーリン。そしてマスター反応、バゼット・フラガ・マクレミッツ」
士郎の表情が変わる。
クー・フーリン。
かつての槍兵。
そしてバゼット。
凛は続ける。
「次の層は、雷と因果。たぶん、先に放った者が勝つのか、後に返す者が勝つのか。そういう戦いになる」
アーチャーは目を細める。
「因果を返す宝具と、天から落ちる雷霆か。厄介だな」
士郎は静かに拳を握る。
狩られる夜は終わった。
だが次は、避けられない一撃の夜。
因果を捻じ曲げる槍。
先手を罰する逆光の刃。
そして、神の雷。
神杯戦争、第十六夜。
士郎とイリヤは獲物ではなく、自分の明日へ向かう者として狩猟の層を越えた。
だが次なる層では、逃げることすら許されない。
雷が落ちる。
槍が走る。
因果が反転する。
第十七話へ続く。
コメント
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うわあああ第16話読み終えたよ〜!!😭💕✨ イリヤが「獲物じゃない」って自分の足で立って、明日の卵焼きを作る場所へ行くって言ったシーン、もう涙腺崩壊したよ…🥺💦 小さな日常の願いこそが生きる力なんだなって、心にじんわり沁みた。 それにアストルフォの「逃げる場所じゃなくて行く場所を選べ」って言葉、めっちゃ響いた!逃げるだけじゃダメで、自分から目的地を決める強さが必要なんだよね。 アルテミスが「狩りは命への敬意」って言ったのも印象的だった!神様も間違えるし、改めて人間の小さな想いこそが大事って気づかされる神様の成長もグッときたよ! 次のクー・フーリンとバゼットの雷の層、もうドキドキが止まらない!😳 でもその前に、イリヤの卵焼き作る朝が見たいなあ〜🌟 聖杯さん、今回も最高のエピソードありがとうございます!💖